老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

老人のねがい

2021-02-10 14:52:28 | 老いの光影 第7章 「老人のねがい」


老人のねがい


よく老人は「ぽっくり死にたい」と口にする。
それは老人のねがいにも聞こえる。
寝たきりや「痴呆(認知症)」だけになりたくないから、ぽっくり死にたい。
子どもに迷惑をかけたくない。
それが老人のねがいだとしたら、寂しい気がしてならない。

いまや人生百歳の時代になり、脳卒中(脳血管障害後遺症)や認知症を患い、
不自由さを抱えながら生きらえている。

ケアプランを作成する前において、
在宅で暮らす要介護老人はどんな思い(想い)や不安、苦悩、葛藤などを抱えているのだろうか。
言い換えるならば、不自由な躰や記憶を失っていくなかで、
老人たちは日々何をしていきたいか(死ぬまで何して過ごしていきたいか)。
そして最後は何処で死にたいか。
そのことが老人にとって、大切なことであるにもかかわらず、
言葉にすることもなく押し黙ったまま死を迎え、
住み慣れた我家の畳の上ではなく、病院や介護施設のベッドで逝ってしまう。
  
「爺(じっじ)婆(ばっぱ)、死ぬまで何して過ごしていきたいか」「じっじ、ばっぱ、最後は何処で死にたい?」。
在宅訪問を重ね、じっじ、ばっぱ から信頼を培いながら、
じっじ、ばっぱと「死ぬまでにやりたいことリスト」を一緒に作り、
それをケアプランに反映させていけたら、楽しいだろうな、と思う。
それは簡単なようで、なかなか容易ではない。
固く貝のように閉じた老人の口どう開かせ、本音を聴いてゆくのか。
初心に返ることだ。

自分も知らぬ間に老人の仲間入りとなり、
老いたヒトデの如く、躰も手足も「ガタ」がきてしまい、
beagle犬に連れられ散歩している昨今である。

老いた自分のねがいである死に場所は、
海の見える家で潮風の匂いや海の音を感じながら逝きたい、と思っているが、それは夢物語でしかない。
那須連山と阿武隈川の風を感じつつ、
那須高原の小さな我が家でwifeが枯れた自分の手を握りしめ逝けたら本望である。
 
死ぬまで自分は何がしたいのか。
何もしなくても砂時計のように刻々と時間は過ぎ去っていくだけに
(チコちゃんから「ボーっと生きてんじゃねーよ!」の耳をかすめる)、
いましていることを大切にして、老人の聲に耳を傾けていきたい。