おかしなことば遣いは学校にもたくさんあります。直近の例として,過去一年間に目にして気になったものを学校通信から抜き出しておきましょう。
4月号。転出する教職員を紹介するコーナーは「転出される先生」というタイトルで,「〇〇先生,お世話になりました。ありがとうございました」という一文が付いていました。そして,転入教職員については「お世話になります」とありました。
いくら何でも,同僚に対する労いのことばを,わざわざこうした紙面で書くのはいかがなものでしょうか。もう一方のことばの場合,そもそも転入してくる人への歓迎として掲載するのが妥当なのでしょうか。
3月号。あるトピックの中で「校長先生」ということばが3回繰り返されていました。例えば,「退職される〇〇校長先生」とか「校長先生は満面の笑顔と涙目で応えられました」というふうに。公のことばとしては,子どもにとっては「校長先生」であっても,教職員にとっては「校長」でしょう。加えて,「退職される」「応えられました」なんていう尊敬語を紙面で敢えて使うのがいいか,です。
ふつうの社会感覚なら,「退職間近の校長」「〇〇校長,思いも寄らぬ生徒の気配りに涙」程度で締めくくるでしょう。職員同士は,社会一般に向けては,いわば身内関係者として振る舞わなくてはなりません。それが健全なとらえ方だと思うのです。
学校が出すあらゆる公文書の最終責任は管理職が負います。当然,学校通信も。これを思うと,通信についてどういうふうに点検体制がとれているか気掛かりです。
わたしの推測ですが,沁み込んだ古い感覚が吟味されることなく単純に今に至るまで続いているのでしょう。内向きの目から抜け切れていないのです。これが学校のかたちです。こういった感覚は長年の積み重ねなので,なかなか退治できません。管理職がこうした体質の持ち主だったり問題意識の希薄な人だったりしたら,いよいよ改善は無理です。
『校長が変われば職員は変わる』。校長が変わろうとしてもなかなか変われない体質を引きずっているのが学校の現実です。体罰への対応一つ考えてもわかります。子どもには変化に対応する力を身に付けさせると標榜していながら,結局,学校自らが社会の変化に対応できていない一例です。社会が見えてほしいですね。変革が困難な状況だと理解していますが,それでも本気で学校を変えようとする人が育ってほしいと願っています。
ことばはこころを表しています。そして,組織人としての感度を見定めるのにたくさんのヒントを与えてくれます。
(注)写真と本文とは関係ありません。