沈寿官窯の邸内
沈寿官窯邸の先の交差点を渡り道沿いに進む
右手の奥に武家門。隠れ里のような風景
風景に溶け込む武家門が素晴らしい
石を2段に敷いてゆるいスロープを上がった所に門がある。白い花は何の花だろう
道の左側に野石積みの石垣と生垣が続く。いずれも屋敷は現在残らず
その先に武家門の残る屋敷があった
石垣の角を左に曲がると朝鮮神話の始祖「壇君」を祀る玉山神社への道につながる
美山にはキンチク竹の生垣も残る
沈寿官窯の邸内
沈寿官窯邸の先の交差点を渡り道沿いに進む
右手の奥に武家門。隠れ里のような風景
風景に溶け込む武家門が素晴らしい
石を2段に敷いてゆるいスロープを上がった所に門がある。白い花は何の花だろう
道の左側に野石積みの石垣と生垣が続く。いずれも屋敷は現在残らず
その先に武家門の残る屋敷があった
石垣の角を左に曲がると朝鮮神話の始祖「壇君」を祀る玉山神社への道につながる
美山にはキンチク竹の生垣も残る
薩摩焼の郷・美山は、旧苗代川と呼ばれていたが、いつしか美山と呼ばれるようになった
美山の入口付近
薩摩焼の歴史、美山の歴史は、島津義弘が朝鮮半島から多くの朝鮮陶工を連れてきた事から始まる。旧苗代川は司馬遼太郎の「故郷忘じがたき候」の舞台として知られる。薩摩藩の庇護の下、陶工の村が作られ、郷士格が与えられた。彼らの作り出す白薩摩は芸術品として欧州に輸出され、藩に多くの富をもたらした。
美山案内図
桜馬場。道幅がゆったりしている
桜馬場の今にも崩れそうな武家門
前後に支えあり。美山の馬場を歩くと、残念ながら屋敷の崩れた石垣だけの敷地があちこち見られる。
上の写真の左側の樹木もよく見ると屋敷跡
隣の屋敷も武家門構え。四~五段積の石垣の上に生垣。
かつてはこのような武家門構えの屋敷が通り沿いにずらっと並んでいたのかもしれない。奥に白壁の倉。
沈寿官窯
御仮屋門とも見間違うべき立派な門構え。左に潜り戸を備える。柱は後方に控え柱を備え、梁および桁も太い材を用いている。突き当りを右に曲がって中庭に入る
桜馬場。沈寿官邸の石垣は3~4段積でその上に生垣
日置市伊集院へ
伊集院小学校にある地頭仮屋の門
伊集院郷は薩摩藩の外城の一つ。地頭仮屋は現在の伊集院小学校に置かれた(「伊集院町誌」)。一宇治城(現在の城山)のふもとから伊集院小学校に至る一帯、さらには、その先の大光寺から光林寺一帯の地区に郷士集落が形成されたと思われる。一帯に天神馬場、麓東、麓西の地名が残る。線路を越えた猪鹿倉にも武家門が残る。
一宇治城(現在の城山)のふもとに残る武家屋敷
門の手前にシラスの盛土が見える。正月の名残りか
美山や日吉へ向かう幹線道路に沿って建つ武家門。背後は城山
大光寺の裏の小路に麓地区の雰囲気が残る
武家門
猪鹿倉地区に残る武家門
門は道路から奥まったところにある。道路から門まで両側に石塀が続く
猪鹿倉地区は市街地から線路を越えて少し高台にある
伊集院は「妙円寺詣り」で有名
「妙円寺詣り」は関が原の戦いの「島津の退き口」で有名な島津義弘の労苦を偲び、鹿児島の城下士が伊集院郷の妙円寺(現在の徳重神社)まで詣でたのが始まりとされる。妙円寺は義弘公の菩提寺。
末吉から岩川まで足を延ばした
岩川小学校の正門。隣りのこんもりした森は岩川八幡
旧麓地区に残る武家門。この日唯一確認
岩川郷は幕末まで末吉郷七村の一つであった。薩摩藩の重臣、伊勢家の私領であったが、戊辰戦争の家臣団の活躍で明治2年に郷の地位が得られた。外城113の一つに数えられる
秋に県下三大祭の一つである「弥五郎どん祭り」が行なわれる
岩川小学校の向かいに郡役所があった