鯉喰神社から造山古墳まで車で5分。その間にいよいよ雨が強くなってきました。雨が強いとは言っても、傘を持たない佐々木さんや私が濡れる覚悟ができるほどだったので土砂降りというわけではありません。
駐車場に車を停めた岡田さんは「ちょっと待ってくれ」と言って車の外に出て持参したレインウェアを着始めました。見ていると上だけでなく下も履いています。帽子もかぶって完全防備です。岡田さんは認めないでしょうが、この行為が裏目に出ました。造山古墳に登っている間に小雨になり、戻ってくる頃には雨はほぼ止んでいました。それだけなら雨を防いだ効果があったと言えるのですが、おそらくここでレインウェアが入っていた袋を紛失したのです。着替えたときに車の外に落としてそのまま気づかずに次の目的地に向かったと思われます。何とそのことに気がついたのは翌日の帰り間際だったのです。
余談はさておき、造山古墳の様子を紹介しましょう。造山古墳は「つくりやまこふん」と読みますが、すぐ近くにある作山古墳と区別するために「ぞうざんこふん」と読むことがあります。一方の作山古墳も同様に「つくりやまこふん」あるいは「さくざんこふん」と読みます。こちらは午後からの行程に入っているのでそこで紹介します。
造山古墳は全長が350mで岡山県下最大、全国第4位の規模を誇る前方後円墳で、古墳時代中期の5世紀前半の築造とされています。ここよりも大きい古墳は全て宮内庁が管理する天皇陵に治定されているため、墳丘に登れる古墳としては全国最大ということになります。ちなみに全国第1位の大山古墳(仁徳天皇陵に治定)は全長486mとされていましたが、先頃修正されて現在は525mとなっています。大山古墳の築造は5世紀前半~半ばとされているので、造山古墳とほぼ同じ時期ということになります。
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古墳の南側(写真の下)には数基の陪塚が見えます。一番下の白い丸い陪塚はこのあと見学予定の千足古墳です。
駐車場から造山古墳を望む。
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左側が前方部で右側がくびれ部、後円部はカメラに収まりませんでした。
造山古墳蘇生会というボランティアガイドのサイトから拝借したガイドマップ。
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駐車場にはこれの白黒コピーが置かれていました。これを見ると古墳の下半分(南東部)が集落による浸食を受けているのがよくわかります。
古墳に向かって歩いていくと、すぐに坂道になります。
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この道を進んでいくと右側に後円部が見えます。
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そしてすぐに前方部に登る階段があります。
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法面の修復工事をしているところでした。
前方部の頂上です。むこうに神社が見えます。
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前方部の端から下をのぞく。
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木々が茂ってわかりにくいですが、かなりの高さと勾配です。
墳丘上の神社は荒(こう)神社。祭神はわかりません。ガイドマップの黄色の部分です。
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社殿左手にある手水鉢。
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なんとこれは阿蘇凝灰岩製のくり抜き式の長持型石棺です。この古墳から出たものかどうか定かではありません。
神社の裏手にまわるとそこには、
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手水鉢に使われていた石棺の蓋の破片が転がっていました。
古墳の右端を後円部に向かって歩きます。
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くびれ部のところが崩落して修復工事中でした。
後円部に登る途中で振り返って見る前方部。
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黒いシートは崩落部分。かなり大きく抜けていました。
後円部頂上から前方部を望む。やはり、でかい古墳だ。
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後円部の頂上は平らでした。
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高松城水攻めの際に毛利方がここに築城。そのときに削平されたのか、もともと平らだったのかはわからない。土塁や建物跡も残っています。
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後円部から南西部のくびれ部を見ると造り出しが見えました。
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周囲は一面の水田。田植えの準備が進んでいます。
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実際に登ってみるとその大きさを実感します。気がつくと「でっかいなあ」と何度もつぶやいていました。
地山に土を盛って築いたとはいえ、これだけの造営物を築くための労働力を動員できる力を持った王がいた、ということです。河内の履中天皇陵とほぼ同じ大きさであることからすると、履中天皇と同等の権力を持っていたとも言えます。
ところで、全国第3位までの大山古墳(伝仁徳陵)、誉田御廟山古墳(伝応神陵)、上石津ミサンザイ古墳(伝履中陵)は宮内庁が天皇陵として管理しているため、調査どころか立ち入ることすら許されず、考古学者や歴史学者たちは宮内庁を恨めしく思っているはずです。学者さんのみならず、私のようなマニアも同じです。昨年、大山古墳の周堤の調査が行われましたが、周堤を少し掘るだけでも大騒ぎになりました。
それに比べると、この造山古墳は宮内庁の管理下にありません。ただ、国の史跡に指定されているために十分な調査ができていません。自由に立ち入りができるのに掘ることができないのです。
国の史跡は文化財保護法によって定められており、遺跡の規模、遺構、出土遺物等において、学術上価値あるものを史跡として保存することが求められます。つまり、いったん史跡に指定されてしまうと発掘などができなくなるのです。価値ある遺跡の保存は必要だと思うのですが、十分な調査をしてからでも問題ないと思います。実際にこの古墳は史跡指定地以外の周辺部については何度も調査が行われているのです。
さらに言えば、史跡指定は文部科学省の管轄です。同じ学問や科学の世界にいる学者や研究者の方々であれば文科省あるいは文部科学大臣と交渉することは可能ではないのでしょうか。いったん指定をはずして必要な調査を行い、その上で再度指定する。場合によっては特別史跡に格上げするケースがあるかもしれない。学術的価値を適切に判断するためには学術的調査が必要である、と考えるのはおかしいでしょうか。
またまた愚痴ってしまいました。私などが何を言っても何も変わらないのでしょうが、私たち素人でも掘りたい衝動に駆られるのです。ねえ、佐々木さん。
さて、駐車場に戻ってきたときには雨はほとんど止んでいたのですが、岡田さんはレインウェアを脱がずに車に乗り込みました。また降り出すかもしれないと考えたのでしょう。でも先述の通り、これがあだとなりました。ここで脱いでいれば袋を失くすことはなかったでしょう。でもあとのまつり。
車は細い農道を抜けて、造山古墳の第5号陪塚である千足古墳へ向かいました。
千足古墳は全長約80mの帆立貝式古墳で5世紀前半の築造とされ、2基の横穴式石室があります。石室には直弧文や刻み目直線帯を持った石障があり、一種の装飾古墳と考えられます。
岡山市が復元に取り掛かったものの、昨年の豪雨災害によって完成が大幅に遅れているとの情報を得ていたのですが、それなりに工事が進んで近づくことは可能だろうと思って行ってみると、どうしてどうして。こんな状態で近づくことさえできませんでした。
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佐々木さんの空腹状態がそろそろ限界にきたようで、次のこうもり塚古墳に向かいながらランチのお店を探すことにしました。