古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

楯築遺跡(吉備国実地踏査ツアーNo.3)

2019年06月05日 | 実地踏査・古代史旅

 県立博物館の次はいきなりのメインイベント、王墓の丘史跡公園にある楯築遺跡です。弥生時代後期(2世紀後半~3世紀前半)の墳丘墓で、その大きさ、形、埋葬施設などなど、どれをとっても特徴的な弥生の墳丘墓です。ここだけは絶対に見ておきたい、と力説する岡田さん。私も同じです。どんなに雨が降ろうが風が吹こうが、岡山に来た以上はここに寄らずには帰れない、というほど古代史マニア、遺跡マニアにとっては重要な遺跡です。

 

 「王墓の丘史跡公園」は倉敷市東端の足守川右岸に沿う王墓山丘陵に広がる遺跡群を整備、公開した公園で、楯築遺跡はその北端に位置します。高度成長のとき、この地に総数1000戸規模の住宅団地が開発されることになったために発掘調査が進められ、数十基の古墳が残されることになりました。しかし、宅地開発はそのまま進められたために多くの古墳が失われたことは容易に想像できます。楯築遺跡は失ったものも大きかったものの、考古学者や地元民の熱意によってかろうじて今の姿で残ることになりました。

 楯築墳丘墓は、直径が約43m、高さが4.5mの不整円形の主丘に北東および南西側に長方形の突出部を持つ「双方中円墓」で、突出部両端の全長が78.5~81.5mとされています。北東側の突出部が宅地造成に伴って破壊されて一部が残るのみとなっているため、正確な長さがわからないものの、弥生後期の墳丘墓としては国内最大級です。
 
 双方中円形の古墳(双方中円墳)は全国で4例が確認されるのみで、そのうち3つが香川県高松市の石清尾山(いわせおやま)古墳群にある鎧塚古墳、鏡塚古墳、稲荷山北端古墳でいずれも4世紀前半の積石塚の 双方中円墳です。高松は瀬戸内海を挟んで吉備とはお隣の関係にあり、古代より盛んに交易が行われていました。そして高松といえば岡田さんの地元です。ぜひとも追跡踏査をお願いしたいところです。もう1つが奈良県天理市の櫛山古墳です。櫛山古墳は全長が152mで古墳時代前期後半(4世紀後半)の築造とされています。吉備の大墳丘墓と同じ形の古墳が大和で出現していることが興味深いところです。
 
 そして、この双方中円型の楯築墳丘墓こそが前方後円墳の原形であるという説があります。たしかに双方中円型のふたつの突出部(方型部)のうちのひとつがなくなったのが前方後円型である、と理屈的にはそうなるのですが、単純に形だけを理由にそのように言うのは少し抵抗があります。
 
 入口を入って坂道を上っていく途中に大きな説明板がありました。
 
 
 墳丘墓の全体イメージや発掘時の様子がよくわかります。
 
 さらに坂道を上ると墳丘の手前に立つ大きな白い建造物とその横にある小さな建物に出くわします。
 左の大きな建物は給水塔で、右に見えている小さな建物が収蔵庫、その向こうの木々が茂ったところが墳丘です。
 
 給水塔の建設によって南西側の突出部の先端部を残して大半が破壊されましたが、ギリギリのところで先端部が残っていたお陰で突出部の長さを特定することができたのです。
 この給水塔は丘陵周辺に開発された住宅団地に上水を供給するためのものです。岡山県もしくは倉敷市が建設したものと思われますが、事前に教育委員会等の文化財担当部局に共有されていれば破壊されずに済んだかもわかりません。
  
 王墓の丘を上空から見た図。
 丘陵部のほとんどが宅地になっているのがわかります。写真上部の白い点が給水塔の位置、すなわち楯築墳丘墓の場所です。
 
 これは博物館で見た「伝世弧帯文石」が収められている収蔵庫です。この弧帯文石は地元では亀石と呼ばれ、楯築遺跡の墳丘上にあった楯築神社という神社のご神体として代々伝えられてきたものです。大きさは、93cm×88cm×30~35cm、表面には弧帯文と呼ばれる文様が施されています。
 楯築神社は 1909年(明治42年)に北西にある鯉喰神社に合祀され、社殿が解体されたときにご神体も移されました。その後、もとの場所に戻したいという地元の人々の願いによって1916年(大正5年)、墳丘上に祠を建てて再びもとの場所に戻されました。人の手によって伝えられてきたものなので「伝世弧帯文石」と呼ばれます。
 この経緯に興味のある方はこちらをご覧ください。→ レファレンス共同データベース 
 
 収蔵庫に収められた弧帯文石。
 
 収蔵庫の小さな窓からは弧帯文石の実物が収めされているのがハッキリと見えました。これは感激です。  
 反対側からも。
 やっぱりレプリカよりも実物ですね。迫力を感じます。
 
 墳丘の埋葬施設の発掘によって、同じような文様を持った数百の石の破片が出土しました。全部を接合すると、なんとこの弧帯文石を少し小さくしたものが出来上がりました。大きさは、61cm×30cm×16cmで、体積比では亀石の9分の1ということになります。一部の破片に焼け焦げたあとがみられたので、被葬者を埋葬したあと、その上でこの石を破壊して火を用いた何らかの埋葬儀礼を行ったと考えられています。この接合、復元された弧帯文石はたしかここを発掘した岡山大学に保存されていると思います。
 この弧帯文石の文様は大和の纒向遺跡にある纒向石塚古墳から出土した弧文円板の文様とそっくりなことから、吉備と纒向の葬送儀礼の共通性を説く考えがあります。纒向石塚古墳の築造は3世紀前半あるいは中頃と考えられており、楯築墳丘墓が築造されたとされる2世紀後半から3世紀前半とそれほど時間を経ていないことから、この考えは賛同できます。
 
 さて、楯築墳丘墓の主丘(中円部)はもう目の前です。 
 
 墳丘上には5つの大きな石が立てられています。これらの巨石はそのまんま「立石(りっせき)」と呼ばれています、そしてそのうちのひとつには扉を持った祠が設けられています。先述のとおり「亀石」がご神体として祀られていました。
 
 
 
 立石と一体で建てられた祠 
 収蔵庫が建つ前はここに亀石が収められていました。
 
 この祠の横(写真の左側)を発掘したときに埋葬施設が見つかりました。木棺の底一面に朱が敷かれ、その量はなんと32kgにも及ぶそうです。副葬品として鉄剣1本、首飾り2個、多数のガラス玉と小管玉などが出ました。この木棺が腐敗して崩れたときに葬送儀礼で地上に積まれていた多数の弧帯文石の破片や土器片、礫などが埋葬空間に崩れ落ちたようで、それらがまとまって出土しました。
 
 そして、墳丘の各所から特殊器台や特殊壺の破片が10セット分も出土したそうです。特殊器台は古墳時代の円筒埴輪につながる弥生時代後期の吉備地方特有の土器で、この楯築遺跡から出たものはもっとも古い型式の立坂型と呼ばれるものです。県立博物館で見た宮山型は円筒埴輪に変化する直前の型式のものです。その宮山型の特殊器台は最も古い前方後円墳とされる纒向の箸墓から見つかっています。詳しくは宮山墳墓群のところで見ようと思いますが、吉備と纒向のつながりが想像以上に強いと実感しました。
 
 現在の墳丘上は完全に埋め戻されて埋葬施設や遺物の痕跡は全くなく、ただ大きな石と祠だけがここが神聖な場所であったことを示しているだけです。
 
 斜面にも列石が巡らされていますが、素人には大きな石がゴロゴロと転がっているだけで墳丘を巡る列石とは思えません。
 
 
 この階段は遺跡の反対側から登ってくる階段で、もともとは楯築神社の参道であったと思われます。
 
 ここが北東部の突出部の根元。
 本来の姿はこの先に幅が3~4mの突出部が十数m先まで伸びていましたが、ご覧の通り数mを残してその先が切断されています。この先は崖になっていて下に住宅地が広がっています。
 写真の右下に小さな石が3つ並んでいます。これが突出部発見のきっかけになった列石だそうです。岡山大学の先生がこれを見つけて突出部の存在を感じ取ったそうです。専門家の経験に基づく勘というのはすごいですね。
  
 突出部先端からの眺めは素晴らしい。
 右側に見える山が吉備の中山です。拡大するとふもとに翌日に行く予定の吉備津神社が見えます。ここに墳丘墓を築いた当時、おそらく墳丘上の木々はなかったと思います。360度の眺望があったでしょうし、逆にふもとの村々からこの墳丘墓を拝むこともできたはずです。
  
 どうしても来たかった楯築墳丘墓。吉備と纒向のつながりを確信しました。来てよかったです。このあと、同じ弥生墳丘墓の上に建つ鯉喰神社へ向かいました。
 
 
 
楯築遺跡発見から発掘に至る物語は感動ものです。
是非お読みください。
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コメント
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