古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

吉備津彦神社(吉備国実地踏査ツアーNo.10)

2019年06月18日 | 実地踏査・古代史旅
 吉備国実地踏査もいよいよ2日目です。前夜に3時まで遊んでしまったことを受けてこの日は少し遅い9時出発としました。最初の目的地は吉備の中山の北東麓にある吉備津彦神社です。吉備の中山は古来、神体山として信仰されていて北西麓にはこのあと行く吉備津神社があります。

正面の鳥居。


随神門。

 
 吉備津彦神社は備前国一之宮で、夏至の日の出には太陽が正面鳥居の真正面から昇って神殿の御鏡に入ることから「朝日の宮」とも称されます。主祭神は大吉備津彦命(日本書紀では「彦五十狭芹彦命」、古事記では「比古伊佐勢理毘古命」)で、第7代孝霊天皇の皇子です。第10代崇神天皇のときに四道将軍の一人として山陽道に派遣され、腹違いの弟である若日子建吉備津彦命と協力して吉備を平定したとされます。
 
 社伝によると創建が推古天皇の時代ということらしいのですが、持統天皇3年(689年)の飛鳥浄御原令の発布をもってそれまでひとつであった吉備国が備前国、備中国、備後国に分国されるにあたって、吉備国総鎮守であった吉備の中山の北西麓にある吉備津神社から分祀されて備前国一之宮として創建されたとも言われています。神社由緒は以下の通りです。
 
「当神社は古代より背後の吉備の中山に巨大な天津磐座(神を祭る石)磐境(神域を示す列石)を有し、山全体が神の山として崇敬されてきました。第10代崇神天皇の御世に四道将軍として遣わされた大吉備津彦命もこの山に祈り吉備の国を平定し現人神として崇められました。諸民と国を深く愛し、永住された吉備中山の麓の屋敷跡に社殿が建てられたのが当神社のはじまりとなります。後に佛教が入り正宮、本宮、摂末社合わせて51社を具え神宮寺や法華堂も建ちいよいよ御神威は広大無辺に広がり古代気比大神宮・大社吉備津宮とも称され朝廷直属の一品一宮、吉備大明神として武将庶民に至るまで厚く崇敬されてきました。」
 

 
 拝殿。

 
 
 吉備の中山を背後に控える本殿。
荘厳な雰囲気が溢れています。
 
 当初の予定では吉備津彦神社を参拝したあと、神社の裏手から吉備の中山に登って吉備津彦神社の元宮とされる磐座を参拝する計画をしていましたが、前日の古墳や墳丘墓への登頂で足腰が弱っていたこと、夜遊びのために寝不足であったこと、気温が高くて日差しがきつかったこと、などを考慮して中山登山をあきらめました。
 
 境内案内図にあった中山の案内図。

 
 時間の余裕ができたので境内を散策し、随神門の前にあった茶店できび団子を食べることにしました。

 末社。

 天照大神を祀る伊勢宮など7つの末社が並んでいます。

 神池の小島にある環状列石。

 古代の祭祀跡とされていますが、神社創建前からこの場所にあったのか、もともとあった場所に社殿を建てることになったために移されたのか。

 随神門の前にある茶店。

 きび団子を写真に収めるのを忘れました。みたらし団子風で美味しかったです。
 
 前日の雨天、曇天と打って変わった快晴の一日、この日の踏査は気持ちのいいスタートとなりました。このあとは吉備の中山をぐるっと西に回り込んだところにある吉備津神社です。

コメント
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