楯築遺跡を見学しているあたりから雲行きは怪しく雨粒がパラパラと落ち始めました。次の鯉喰(こいくい)神社までは北西へ車で5分ほどですが、ちょうど到着した頃に雨足が少し強まってきました。この日の天気予報は曇りで翌日は晴れだったので傘は持ってこなかったのですが、佐々木さんの雨男ぶりを侮っていました。
鯉喰神社は楯築遺跡のところで触れたように、楯築神社を合祀した後しばらく、ご神体である亀石を祀っていたところです。鯉喰という不思議な名前はどこから来ているかというと、桃太郎伝説のもとになった温羅(うら)のお話からです。岡山県神社庁サイトに掲載された神社由緒を転載します。
吉備の国平定のため吉備津彦の命が来られたとき、この地方の賊、温羅が村人達を苦しめていた。戦を行ったがなかなか勝負がつかない。その時天より声がし、命がそれに従うと温羅はついに矢つき、刀折れて自分の血で染まった川へ鯉となって逃れた。すぐ命は鵜となり、鯉に姿を変えた温羅をこの場所で捕食した。それを祭るため村人達はここに鯉喰神社を建立した。社殿は元禄14年(1701)4月、天保13年3月に造営し現在に至った。大正6年4月、庄村矢部字向山村社楯築神社を合祀した。大正6年10月4日神饌幣帛供進神社に指定された。
この温羅伝説をモチーフにして桃太郎の話が生まれました。桃太郎伝説は各地にあるそうですが、岡山県が最も上手にPRしたことから桃太郎といえば岡山、岡山といえば桃太郎というのが定着したそうです。今回のツアーで巡った備中の南部はまさに桃太郎の聖地とも言えるところで、どこへ行っても桃太郎ときび団子。古墳を訪ねても神社を訪ねても桃太郎。正直、興ざめでした。それに比べて、県内に1万2千基もある古墳、大和政権成立に貢献したことが窺える遺跡や遺物、由緒ある古社などの貴重な観光資源を活かし切れていないことを痛感し、佐々木さんの「桃太郎に頼りすぎや」には大いに賛意を表しました。
話を鯉喰神社に戻します。今回、この神社を踏査地に選んだのは桃太郎とは関係なく、この神社が弥生墳丘墓の上に建っていることからです。つまり、主役は神社ではなく墳丘墓なのです。
ちなみに、楯築遺跡も過去に墳丘上に楯築神社が建っていましたし、現在でも祠が建っているのにどうして発掘調査ができたのでしょうか。それは楯築神社はすでにこの鯉喰神社に合祀されていた、つまり形式上は神社でなくなっていたためです。それでも地元民、とくに楯築神社の氏子の方々の墳丘に対する思いは鯉喰神社に移された亀石をもとの墳丘上に戻すほど強いものだったので、発掘チームは発掘の了解を得るために何度も足を運んで話し合いを重ねて理解を求めたそうです。
こういう話も含めて楯築墳丘墓と鯉喰神社墳丘墓はどこかでつながっていると考えたくなります。楯築に葬られた王の3代くらいあとの王の墓と考えてよいと思います。弧帯文石が出ているのが楯築とここだけというのもその証左となるでしょう。
また別の視点で考えると、鯉喰神社には夜目山主命(やめやまぬしのみこと)と夜目麻呂命(やめまろのみこと)の父子、狭田安是彦、千田宇根彦の4柱が祀られています。夜目山主命と夜目麻呂命は吉備津彦命が温羅を退治する際に楯築遺跡の西方から駆けつけた武勇の父子とされ、あとの2柱は温羅の家来であったが吉備津彦命側に寝返ったとされています。これら4柱のうちの誰かが葬られているのかも知れません。夜目の父子は翌日の行程にある備中国一之宮の吉備津彦神社の摂社「尺御崎神社(しゃくおんざきじんじゃ)」にも祀られています。随神門の扁額に書かれていた「御崎宮」とつながります。
さあ、いよいよ雨が強くなってきました。次は全国4位の規模を誇る造山古墳です。そんな大きな墳丘に上るのでここだけは雨はいやだったのに、佐々木さんの力に負けました。