本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

苦である存在を知った人が仏陀

2020-06-11 20:29:13 | 十地経

釈尊の最初の説法で説かれたのが

「四聖諦」シショウタイ です。

四つの真理です

「諦」という字は

あきらめる、とも読みますが

あきらかにするという意味で

真理という意味です。

 

その第一が、

迷いのこの世はすべてが苦である

という、真理です。

 

と言われても

分かったようでわからない

人生楽ありゃ苦もあるさ、と

何かの歌にあったように

苦楽半々というのが普通です。

 

好きな人とは絶対に別れない

別れてしまうのは

何という苦しみだろう、と

それが愛別離苦ということですが

主人が浮気でもすると

もうこの人の顔は見たくない

一緒の空気を吸うのも嫌、と

突然、怨憎会苦

という苦しみに変わってきます。

 

こういう苦しみは

何となく分かるのですが、

そうではなく

お釈迦さまは一切は苦であると

説かれています。

 

ちょうど『十地経講義』でも

その苦というところに

差し掛かりました。

 

「苦でない存在はないと。

これが非常に大事なところです。

仏教の学問というのは、

まあ、我々は生きとるもんだ、

生物だとか動物だとか

そんなところから

出発しているんじゃなしに、

今日の言葉でいえば

非常に実存的な自覚から

出発している。

実存としての人間から出発しとる

目がある鼻があるというような

存在から出発しとるわけではない

 

だけど、その苦を誰も知っている

人はいないんで

苦でないものはおらんけど

苦であることを知っている人は

いないということです

だから楽だと思っている。

全部が楽だというような

楽天家はおらんにしても

半分くらい楽だろうと

こう考えている。

 

苦である存在である

にもかかわらず、

苦である存在は苦である真理を

知らずに生きとるですね。

 

それが、

苦である存在を知った人が

つまり仏陀なんでしょう。

覚者なんでしょう。

一人目覚めたのです。

 

あらゆるものは苦をもって

生きとるけど

苦をもって生きとることを

知らなかったんだ。

初めて知ったんでしょう。

苦をもっとるけど

苦諦をもたんでしょう。

苦諦をもったものは一人や。

一人という自覚

それが仏陀なんです。」

 

ということが続くのですが

一番最初に習った

「苦・集・滅・道」という

四聖諦ということですが

もうすっかり忘れて

一切は苦であるという真理も

ぼやけかけています。

あらためて、

「苦」ということも

実感として薄らいでいます。

 

自分にとって都合のいいことが

離れていく、

反対に都合の悪いことが

身にやって来た、というのは

何となく分かるのですが

四苦八苦の中で

分からないのが

生苦ショウクと

五陰盛苦ゴオンジョウクです。

 

子犬や子猫は可愛いものです

しかし、

よく見ると動物たちの目は

悲しい目をしています

本能的に死というものを

感じているようにも思えます

常に死と隣り合わせに行きている

いつ死がやって来ても

文句も言わず素直に受け入れる

そういう準備が出来ている

ようにも見えます。

 

生苦というのも

そういうことではないでしょうか

楽しそうにしているけど

その裏にはいつ死がやって来るか

そういう影がひそんでいる

そういうことを知らず知らずの

うちに感じているのです

それが苦だというのです。

 

最初に習ったことが

また、最後になって習いなおす

人間、何回勉強しても

分からないものです。

(私だけですけど!)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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