本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

第八不動地とお不動さま

2020-06-18 20:22:59 | 十地経

「不動」ということも

本蔵院のご本尊は「不動明王」

私も本尊の横の部屋で生まれ

東寺でも御影堂のお不動さまに

10年余り毎日護摩を焚き

熊本に帰ってからも

そして、京都へ移っても

護摩だけは焚きに帰っており

 

不動明王、不動

ということは何かしら

いつも気になている言葉でした。

それは姿形とその意味との違い

明王ですから、

明は智慧、その王様

で姿はあの裸に裙という衣

腰衣のようなものと着て

手には剣と羂索を持つという

智慧とはかけ離れた姿です。

 

『十地経講義』も進み

第八地というところに

差し掛かかってきました。

第八地が「不動地」です。

それぞれの地に名前が付いて、

初地は初歓喜地、

第二地は離垢地(リクジ)

垢を離れる煩悩を離れる

第三地は明地、第四地が炎地、

第五地が難勝地、第六地が現前地

と面白い名前が続きます。

この講義も第七地から始まり

第八地へ進んだところで

そこから初歓喜地、離垢地を

見直していくという

面白い進み方をしています。

 

それで、第七地が遠行地

遠くへ行くと書きますが

行ギョウが完成した

ということです。

第八地が不動地です。

名前がいろいろ付いているけど

一番光っているのは

初歓喜地とこの不動地と

いわれています。

 

その講義では

「不動」ということを

信念と表現されます

どんな矛盾の中にも無碍に生きる

信念と、

逃げ出すのでもないし、

諦めて流転するわけでもないと

矛盾に苦しめられるのでもなく

矛盾の中にあって、

矛盾を超えて、矛盾に住する

それが不動でしょう。

とおっしゃっています。

 

我々の宗教的要求のような

何か動かんものが欲しいという

そういう要求が不動という

ことを表している

人間は常に動かされている

煩悩や考え、

聞いたり見たりしたことに

動かされる

聞けば聞いたことに

見れば見たことに

常にジッとしていることは

出来ない

そこで本当は不動という

何ものにも動かされない

不動の信念というものを求めて

いるということでしょう。

 

こういう話があります

ある時、安田先生のお宅へ

「ものみの塔」の方が来られた

まあ、何も知らずに勧誘に見えた

のでしょう

追い返すこともなく

ま、どうぞということで

上がって話していくうちに、

それから何回も来られた

段々話すうちに

どちらに引き込まれるという

ということではなく

お互いの立場がはっきりしてきた

ということです

自分は「ものみの塔」の教えを

聞いてそれでよかった、

奥様も仏教の話を聞いていたこと

それがますますはっきりしてきた

ということです。

 

私たちは

聞けば聞いた方に引っ張られるか

それが嫌だから

初めから聞かないと決める

なかなか自分の信念ということが

持てないものです

そういう中にあって

不動ということは大切なことです

 

あの火の中に立つという姿

火は智慧の火を表します

また岩の上に立つということも

盤石というような

揺るぎのないということを

表しているのかもしれません。

 

これから不動地というところが

進んで行くのですが

どのような形で不動ということを

『十地経』は語っているか

興味深いところです。

 

 

 

 

 

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