本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

「道理」という仏教語

2020-06-17 20:36:05 | 十地経

道理という言葉は

広辞苑にも、

物事のそうあるべきみちすじ。

ことわり。

とか、

人の行うべき正しい道。

と、出ていますので

一般の言葉かと

思っていたのですが、

 

『十地経講義』のなかで

ちょうど、四諦とか真理という

ことが出ていまして、

この諦とか真理は道理をいってます

ということがあり

道理にも「四種道理」と

いうことがあるというように

それについて詳しくは

述べておられないのですが、

気になって調べてみると

仏教辞典に載っています。

 

仏教辞典には、

正しいことわり。

ものごとが存在し変化してゆく

上に必ず準拠している法則。

と出ています。

 

唯識のお経で

『瑜伽論』の中に出てきます。

それで、四種の道理とは

1.観待道理(カンタイ)

2.作用道理(サヨウ)

3.証成道理(ショウセイ)

4.法爾道理(ホウニ)

初めて聞く難しい言葉が並びます

簡単には、

1.それはなぜ生じたのか?

 という問いかけから始まって

2.その具体的な作用は何か?

 と観察の内容を深め

3.それが共通する特質は何か、と

 存在するものの普遍性を観察し

4.最後に、

 「それはなぜそうなのか」

 といえば、

 そうなっているからそうなのだ

 と観察することで終わる。

 

何だか難しい言葉のわりには

結論が、

そうなっているからそうなのだ

というのは

当たり前といえば当たり前

のような答えですが

最後の「法爾道理」というのは

 

自然法爾(ジネンホウニ)

ということがあります

その例として

三浦先生がよく、

「焚くほどに 風がもてくる

  落ち葉かな」

という良寛さんの歌を紹介

されていました。

 

境内の楠が春秋二度

凄まじい落ち葉が散ってきます

掃いても掃いても

あとからあとから

舞い散ってきます

なんとかならないでしょうか

と尋ねた時の

返ってきた言葉が

この良寛さんの歌だったのです。

 

なんだかわけもわからず

散れば掃き、また散れば掃き

その繰り返しが自然の法則

自然(ジネン)という

ことなのだろうか

無理に木を揺らして

葉を落としてしまうこともせず

自然(シゼン)のありようを知る

ということなのか?

と思っていました。

 

辞書の最後には

個々の存在の観察から入って

さらに普遍的な観察に移り

最終的には

個も普遍もその中に融和して

しまう「存在の根底」

ものごとのありよう(法性)を

さとることによって

観察的思考が完成する。

 

と出ていきます。

分からないようでも

何かしら観ずるところも

あるような

まあ、唯識という経典は

当たり前にしている行為を

もう一度厳密に見直し

間違いないようにする

ということのようです。

 

講義の中でも、

「真理は簡明直截であると

人間の方が複雑なんでしょう」

と出てきます。

反対に思ってしまいますが

真理には秘密もないし

公開されたものです

人間が自分で自分を分からなく

していると言えます。

 

いわれてみれば

無明ということから始まり

本当のことが分からないから

本当でないものを本当として

受け止める

そこから、

人間の複雑さが生まれてくる

ように思います。

 

さとりは奥深く深遠で

理解しがたいとおもうのですが

そうではなく

人間の方が複雑怪奇な生き物

ということでしょう。

だから、

その複雑さを解きほぐすには

面倒くさく思える

唯識という経典が

生まれたのだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

コメント
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