本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

百千萬劫難遭遇

2021-09-13 20:39:18 | 十地経

お経の一番最初に読む

「開経偈」の

第一句は「無上甚深微妙法」

です

その次の二句は

「百千萬劫難遭遇」です

百千萬劫にも遭アい遇アうこと

難カタし

と読みます

どうも気になっていたのが

「遭遇」という言葉です

 

広辞苑には

思わぬ場面にであうこと。

不意に出会うこと。

「困難に遭遇する」

というように出ています

あまりいいものには出会わない

というような意味合いです

 

開経偈では

百千萬の劫(時間の長さ)

劫というのは

4里四方の石に百年に一回

天女が舞い降りてきて

その石の上で舞を舞う

その衣によって磨られた石が

無くなるのを1劫といいます

それが、百千萬ですから

どれほど長い時間でしょう

 

そういう長い時間の中で

妙なる法に出会った

というのです

その出会ったことを遭遇と

表しています

 

あうには

会、値、逢、遭、遇、邂、

などいろいろの言葉があります

教えにであうですから

値遇とか

邂逅という「ゆくりなくも」

という言葉の方がぴったり

のような気がするのですが

 

講義の中で、

「真理というものは

覆われてあるもんだという

あり方。

覆われたものが取り去って、

開示される。

そういう時に、今日いう、

出遭うというね、

出遭いですわね。

出遭いということが

やっぱりあるですね。

出遭いという、値遇という。

だからして

真理はあるけれども、

ふだんは見えない。

その覆いをとることによって

我々は初めて、ある、

本来あるものを今初めて知る

 

初めのない真理に

初めができる。

そういう時に

出遭いということがね。

真理は、出遭うものなんです

 

真理というものは

気がつくとか

人間の方は、

ただそれを承認すると、

そうであったかと、

さとるというのは、

さと、とるんんです。

そうであったかととるんです

 

出遭いという意味は、

つまりいってみれば、

奇跡というものでもないし、

努力してつかむというような

ものでもないし、

歴史的なもんだという

意味です。」

 

「難遭遇」という

法というものには出遭うこと

が難である、困難である

その後の句に

「我今見聞得受持」と

続きます

そういう法に今、

見聞きしてそれを受け取る

ことが出来たという

そういうように続きます

 

そうであったかと

気がつく

さとりということも

さと、とるという

非常におもしろい表現

ですが、何となくしっくり

腑に落ちる言葉です

 

最後の出遭いという意味は

奇跡でもなければ

努力してつかむものでもない

歴史的なもの

ということがありますが

先生はよく「歴史的」

という言葉を使われます

どうも分からないのですが

次のところには

そことについて

述べてあります。

 

 

 

 

 

コメント
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