本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

自己肯定感 あるがままの自分を愛する

2021-09-27 20:24:13 | 住職の活動日記

リビング新聞でしたか

あるがままの自分を愛する

大人のための自己肯定感

という題で

記事が載っていました

 

何となく納得できるような

年をとってくると

自分を否定されるより

自分をどこかで認めてもらう

ことの方が心地よいようです

しかし、

修行時代は全く逆で

自己を否定する

ということから始まります

まあ少しくらいいいところが

あるように

思っていたのですが

頭から足の先まで一切合切

すべて否定されるのです

 

この修行は他のいかなる

修行よりも精神的に堪える

ように思います

滝に打たれたり断食なぞ

これに比べたらなんのことは

ないように思います

 

ここでいわれている

自己肯定感とは

それとは違って

お互いの違いを認めるという

ぞうさんの歌を例にとり

「ぞうさん ぞうさん

おはなが ながいのね

そうよ 

かあさんもながいのよ」

この歌のように

自己肯定感の本質は

それぞれの動物には

優劣つけがたい特徴があり

それは人間一人一人も

同じなんだということを

いっておられます

 

「みんなちがって

  みんないい」

という、金子みすゞさんの

詩がありますが

違っているということが

当たり前で、

同じであることの方が

気持ち悪いような

そんな気もしますが

 

また、

「自己肯定感は

愛情でふくらませるもの」

ともいっておられます

それは

私たちはみんな自己肯定感

という浮き輪を持っている

それが愛情で十分に

ふくらんでいれば

気持ちよく

海に浮かんでいられる

ということです

 

これは、別の言葉で言えば

復元力ということでしょう

どんなに嵐が来ても

もとに帰る復元力を具えて

いれば大丈夫

その復元力は母親の愛情

ということができます

 

修行時代

全否定されるということは

まるで嵐のようです

その時の辛さを支えて

くれるものは母の愛情

だったようです

 

お釈迦さまは

さとりを開かれたあとも

布薩会フサツエということがあって

そのとき、もし自分に

戒を犯したところがあれば

遠慮なくいってほしいと

常に自分を戒め

自分を肯定することなく

自分を否定する立場に立たれ

たということです

 

それは『十地経』でも

このお経そのものが

自分の過失を見つけ

それを対治していくという

さとりの中にも過失がある

ということです

それが十という段階を

設けているのです

お釈迦さまでも、これでいい

ということはなく

常に歩み続けて

自分の非を見つけておられた

ということです

 

あるときには

自己肯定感というのは

心の糧になるでしょう

それはとても大切なことです

しかし、

自分を肯定するばかりでは

本当のことは

見えてこないようです。

 

難しい、一点ですね。

 

 

 

 

コメント
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