本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

弔い直し

2021-09-18 20:33:46 | 住職の活動日記

最近はこういう新しい言葉が

生まれています

「墓じまい」

という言葉もそうですが

以前は聞かなかった言葉です

 

「弔い直し」

そういう番組をやっていました

葬儀や供養に関することが

簡略化される一方で

どうもそれだけでは

納得できず

亡くなった方を偲ぶという

そういうことを考え直すと

自分自身がおさまりが

つかなくなったのでしょう。

 

ところで、

この「弔う」という字は

見るからに死を連想させる

ものを持っています

この字は弓偏の字で

真ん中に引くと弔いとなり

その横側にひくと引になり

弓の中に二本貫くと

弗(ドル)になり

なになにあらずという

意味です

その弗に人偏を付けると

佛になります

一方には人にあらずという

意味も持っています。

 

お弔いということも

昔は何よりも大切にされて

いました

思い出すのは

「らくだ」という落語で

長屋の乱暴者の「らくだ」が

フグを食べて亡くなった

金はないけどなんとか

お弔いだけは

出し上げなければと

長屋の連中が工面するという

話しですが

その時の「お弔い」という

言葉が妙に残っていたのです

 

最近では

なんでも簡素化する中で

むかしのひとはせめて

「お弔い」だけはしなくては

そういう心根があったのです

 

そういう心が誰かのどこかで

伝わってきているのでしょう

矢張りこれでいいのだろうかと

何かしら納得できない

そういう心が「弔い直し」

ということが生まれたのかも

しれません

 

少子高齢化で

やむなく墓を畳んでしまう

「墓じまい」ということも

次第に増えてくるようです

少し前までは

「寿陵」といって

生前にお墓を立てることは

家も栄えるという

非常にめでたいこととされて

いました

ピラミッドにしても

秦の始皇帝陵にしても

古市古墳群の仁徳天皇陵も

そういうことを願って

建てられたものでしょう

 

個人的には

父が亡くなった時

感じたのですが

身近な人が亡くなる

ということはそれこそ

何かと大変で

悲しんでいる暇もない程

次々とやるべきことが

起こってくるものです

私の場合

息子の方が全ての仏事を

取り仕切ってくれて

私は父の供養だけに

専念できました

初七日から始まり

七日七日の供養と

忌明けまで父と共に過ごせた

のです

あまり一緒にいなかった父と

亡くなって初めて

ゆっくりした時間を

過ごすことができました。

 

ところが、

知り合いの方が亡くなって

関東の方へ葬儀に伺いました

朝から葬儀を済ませ

高速で火葬場へ

霊柩車が高速を飛ばして

という姿を初めて見ました

火葬場も込んでいて

手際よく次々に見えられます

そこであわただしく昼食を

頂き、すると

火葬も終わり、お骨を拾い

自宅へ着くとすぐさま初七日

一服して

四十九日の忌明けのお勤め

という流れで

一日で葬儀から忌明けまで

終わってしまうという

段取りのよさ ?

やはりお寺との距離という

こともあって

毎週の供養となると

大変なのでしょう。

 

そういうことで

終わってしまうというと

段取りはいいのかも

しれませんが

何かしら空虚なるものが

残ってしまうのでは

ないでしょうか

そこで

もう一度、

弔い直しという

落ち着いて供養をする

ということが

出てくるということでしょう

 

段取りがいいということは

人間の微妙な心のひだを

なくしてしまうようです

儀式という形がある

ということは

それなりの理由付けがある

ということでしょう。

 

何かしら考えさせられました

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
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