本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

人のいかりは 忿・恨・悩・害・嫉

2015-01-27 21:18:43 | 十地経

人間のいかりも、簡単には

腹が立った、ムカッとした、

クッソと思った、とか

表現は色々あるようですが、

仏教では煩悩の一つとして

厳密に分析しています。

 

全体的には 『瞋』 (シン)

という字で表します。

その怒りは段々と成長していく

その過程を忿・恨・悩・害と

表しているのです。

 

『忿』 (フン)

何でもないことにムカッとする、

これは比較的軽い怒りです。

自分にとって都合の悪いことに

ムカッとしたということです。

形としては腕を振り上げる、

こぶしを握って手をあげる、

心の中の忿がこういう形で

あらわれるのです。

 

『恨』 (コン)

「忿」が起こっても忘れてしまえば

いいのですが、忘れずに心に

残ってしまった状態を「恨」といいます。

最初、ムカッとしたのですがその心が

忘れられないで怨みを懐く、

それが「恨」の本質です。

お経の中では「熱悩」という表現です。

全身がカッとなって燃えるように

心を苦しませるということです。

 

『悩』 (ノウ)

ムカッとしたことが

心に残り忘れられなくて

「悩」に発展していくのです。

そのことをお経では「追触」

といってあります。

今の言葉では「追体験」ということです。

まざまざと思いだす。

そうしていよいよ怒りが燃え上がり

胸をかきむしられるということです。

胸が苦しくなり居ても立ってもおれなくなり

相手をやっつけたいという

思いに駆られてくる。

 

『害』 (ガイ)

これは怒りの完成形です。

相手を叩き潰そうとする心です。

お経には、

衆生を憐れむ心がまったくなく、

平気で傷つけ悩ます、

とあります。

何らかの方法で相手を傷つけ

苦しめる、その心が「害」といってあります。

 

忿が忿として消えないと恨になる。

恨がさらに発展すると悩になる。

悩がさらに発展してくると害になる。

いよいよ行動を起してくる、

居ても立ってもおれなくなり、

あいつを殺して俺も死のうか、

というような心にまで高まってくる

これが怒りの成長過程です。

 

言われて見るとその通り

思い当たるふしがあります。

何かの拍子に思いだして

また、怒りが込み上げてくるということが

あるものです。

煩悩の中でも怒りは火に譬えられます。

怒りはすべてを焼き尽くすように

元も子もなくしてしまうのです。

 

その怒りの中で今までのなかに

入らない怒りがあります。

『嫉』 (シツ)

おもしろくない、というのも腹立ちです。

人間は自分の名誉や利益には

命がけなのです。

だから他が栄え、

いい目を見ていることが

辛抱できない。

お経の中では

「他の栄に耐えず」とあります。

自分の名利に一生懸命で、

他人がそれを得た時には

面白くない。

嫉妬というものは欲の深い人が

起すもので、それが得られぬ時は

腹を立てるものです。

 

よく考えてみると、

この「嫉」という煩悩も不思議なもので

人が良くなっていく、よい目を見ている

そのことが辛抱できない

というのです。

自分の財布が減るわけでもない、

人の財布が増えるだけ、

本当は自分には関係ないのですが

それが腹だ立たしく思う。

人が金儲けたことが腹立たしい

人が出世したことが辛抱できない、

よく金持ちの悪口を言うが

ひっくり返せば自分が欲しいからなのでしょう。

 

この「嫉」という煩悩も

人間の心理の微妙な点を

非常にうまく押さえていると思います。

 

こういう心が自分の中に潜んでいる

ということを知ることが

とても大事なことだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

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