本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

自利利他と自利他利

2022-05-16 20:55:39 | 十地経

忘己利他モウコリタ

「己を忘れ他を利するは

慈悲の極みなり」

というのは最澄の言葉です

やはり「利他」というのは

仏教の真髄です

この言葉も

言葉の流れからすると

自利利他というより

自利他利の方が正しい

ような気がするのです

それを他利でなく利他と

されたのには意味がある

ような気がするのです。

 

講義では

「我々の立場では

利他という概念は使えない

立場だと、

我々からいうと他利という

ことしかいえないと、

人間の立場では。

 

自分も利せられる、

それによって

自分も利せられるならば、

それによって他も利せられる

と。こういうことが

言えるだけでね、

他を利益するということは

人間にはありえないんだと。

そういうことを

人間が勝手に考えとるんで

あって、

自分が設けたいだけじゃ

ないかと、

こういうんです。

 

人を助けてやる

というようなことは

人間にはありえないことだと

人が助かっとるだけの

話しであって。

自分も助かり

人も助かっとるだけの

話しであって。

人を助けてやるというような

ことはそれは欺瞞だと。」

 

なるほど、

言われてみると

人を助けるということは

ありえないともいえます。

そこで思い出すのは

 

「施身聞偈」セシンモンゲと

「捨身餓虎」シャシンガコの

説話です

聖徳太子が非常に感動されて

玉虫厨子の扉に描かれた図が

有名です。

施身聞偈という物語は

雪山童子が教えを聞くために

自分の身を羅刹に捧げる

という話しです

その教えが

「諸行無常・是生滅法

 生滅滅已・寂滅為楽」

という四法印です

印とは旗印ということで

仏教とは何かといわれると

この四法印が仏教の真髄

を表しています。

 

教えを得るために

自分の身を捧げる

このことは何とか分かる

のですが、

捨身施虎の話になると

飢えた虎のお母さんがいて

あまりの飢えのために

今まさに自分の子を

食べようとしている

その時に童子は

我が身を飢えた虎に投げ出す

ところが虎は弱り切っていて

食べようとしません

それで童子は

自分の身体を傷つけ

血を流して虎の食欲をそそる

そして食べられるという

物語なのです。

 

教えのために身を捧げる

というのは何となく

分かりますが

ただ飢えた虎に身を差し出す

こうなると

理解できない話です。

 

先程の利他と他利という

ことでは

施身聞偈は他利ということで

捨身施虎ということが

利他にあたるのではないかと

思うのです

これは私の勝手な考えで

正しい解釈ではないかと

思うのです。

 

また、

こういう話しもあって

 

「身を削り人につかうる

すりこぎの

この味しれる人ぞ少なし」

 

という歌があります

この歌も今の若い方には

分からないようです

すりこ木も使ったことがない

ということですから

山椒の木で出来たすりこぎ

すり鉢で擦られるたびに

身が減っていく

しかし、その山椒の木の

わずかな味が残るという

このことも

身を捧げるという話しに

通じるものがあるのでは、

 

それから、

貢献と献身

ということがあって

「貢献」はあえて言うと

自分は安全圏においていて

出来る限りのことをする

それに対し

「献身」となると

出来るできないを超えて

身を捧げるという

そういう違いがあるように

思うのです。

 

自利利他・自利他利

ということも

どちらもウインウインの

関係という

それが自利他利

自分も利し他の人も利す

そこをあえて

利他としたのは

その関係が全くなくなった

ただ、他のために

身を捧げるという

捨身飢虎の物語が

本当の利他行のような

気がするのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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