本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

製作は密室の祈り

2024-10-12 20:26:25 | 十地経

「製作は密室の祈り」

このれは村上華岳という方の

言葉です。

ちょうど止観ということで

止という一つの精神集中に入る

それは外の世界とを遮断する

ということが必要になってきます

 

そのことを村上華岳は次のように

語っています。

「人間が生きている目的は

何にあるか私は未だはっきり

いうことはできませんが、

一番大切なことは世界の本体を

つかみ、宇宙の真諦に達すること

にあると信じます。

ですから、私が絵を描くのも

その本体をつかむ道の修行に

すぎません。

画室で製作するのは丁度

密教で密室において修法を修し

加持護念するのと同じことだと

思っています。」

 

この講義を聞きながら

思い出したのがこの村上華岳です

そこで講義では、

 

「観智というのは智慧をもって

観察するといいます。

ちょうど研究室とかアトリエと

いうようなものであって、

天気のことも職業のことも、

日常生活というものに、

部屋を開いていると、玄関を、

何も研究できないのです。

いっぺん現実生活から遮断しなけ

れば。

研究室に入るというようなことが

止なんです。

 

ある本を読んだ時、

画家でもやはり人間だから、

雲を食って生きとるわけには

いかないと。

画家でも描きたいときに描く

といって、

食うために描くんじゃないと。

描きたいからという、

芸術の動機で絵筆をとると。

 

ただ食料のためには絵を描かん

というようなこといっとったら、

まあそれには違いないけどね、

描くときはないでしょう。

やっぱり描くのは

やむを得ず描くんでしょう、

この生活物資を得るために。

そういう社会生活をしているん

だから、やむ得ず描くのですね。

 

まあ僕らでもそうです。

なかなか進んで喜んで講義に

出ていくということはないのです

僕はね。

十年も二十年も講義しているけど

みんな好きで出ているというのは

僕は不思議だと思うんだ、

坊さんがね。

分からないのです、僕は。

講義頼まれたけど、

好きで出て行ったことはいっぺんも

ないですね。

嫌々出て行くんですけどね。

 

そのようなもので、

画家でも絵筆をとるときは、

やっぱりやむを得ずとるんだと

思うんですね、パンのために。

しかし、

いったんその、

筆をとった瞬間にですね、

アトリエに入って、

もうパンは忘れるんです。

アトリエに入ってもまだパンを

考えていたら画家ではない。

 

画家も本当は人間だからね、

飯食わんならんから、

つまり社会生活しとるから、

贅沢いっておれんから、

やむ得ずそこで筆をとると

いうんだ。

けれども、

それはパンは何も芸術的動機じゃ

ないんだ。

人間的動機なんだ。

 

いったんそれで筆とったときに、

本来の動機がそこに出てくる

わけですね。

そうすると、

もうパンなんか超越して、

描くわけです。

そういう点ですね。

つまり、その瞬間に、

いわゆる芸術的、本当の動機。

パンは本当の動機ではなかった。

偶然だった。

偶然の動機を媒介として

本来の必然の動機というものに、

が触れてくるわけです。

そこに初めて

この創造的な仕事というものが

始まる。」

 

おもしろい、

私たちにしたって

最初から純粋な動機というものは

ないもので、

たまたま偶然が

本当の動機というものを引き出し

来るということがあります。

18歳の時に聞いたこの

『十地経論講義』

を70も過ぎ80近くになっても

まだ、わくわくしながら

読んでいるというのも不思議な

ものですね。

 

 

 

 

 

 

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