本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

智は地になる

2021-09-08 22:07:15 | 十地経

「智」は般若と音写されます

インドの言葉でジュニャーナ

パンニャーとなり

般若と漢字になったのです

『般若波羅蜜多心経』の

般若です

ですから『般若波羅蜜心経』

は智によって波羅蜜ですから

パーラミター彼岸へ行く

というような意味になります

 

智ということも辞書には

一切の事象道理に対して

きっぱりと是非正邪を決定し

断定しよく弁別了知して

ひいては煩悩を断ずる

主因となる精神作用のこと、

というように出ています

智のハタラキとしては

見ケンと忍と智に分けられます

見はおしはかる(推度スイタク)

忍は認めてよしと許す

智は疑いなく明瞭に断定する

というようにあります

 

「地というのは何が地だと

いうと、

地というのは立つところ

というのが地ですけど

何に立っとるかというと

智に立っとる」

 

というように

講義では出てきます

何だか難しい

この講義を読みながら

ふと思い出したのは

ある信者さんの事です

 

相談に見えられました

主人の浮気が止まりません

何か止めるマジナイのような

ものはありませんか

ということです

ご主人はよく仕事が出る方で

もし女性を作らなかったら

蔵が3つ建っているかも

という話しです

 

その時に私が言ったのは

ご主人はご主人

あなたの人生がご主人に

振り回され台無しになったら

その方があなたにとって

より大変でしょう

それよりあなた自身の人生を

本当に生きたらどうですか

ということで

どうしたらいいですか

もし時間に余裕があれば

毎日日参してみてください

毎日というと大変です

せめて1週間を単位として

まず1週間

それが出来たら次の1週間

 

そうやって毎日

お参りに見えられました

すると

2.3週間もすると

次第に

ご主人の出ていく回数が

減ってきたということです

奥さんの顔つきも

次第に変わってきて

ご主人が出ていくといっても

動揺もせず

どうぞ行ってらっしゃいと

見送ったそうです

 

このこともある面では

奥様が腹をくくられた

というか腹が座った

その堂々とした態度に

ご主人が何かを感じとられた

それから

3か月を過ぎる頃から

ピタッと女性通いが止んだ

ということです

 

なんだか、

「智」ということと

関係ないようにも思いますが

ある面では一つの「知恵」が

芽生えたのでしょう

よし、

自分は一人でも生きていくと

主人に頼らなくても

自分は自分で、という

決断が … 

その覚悟の程を感じとられた

ご主人の方が

そのことによって自分の事を

考え直されたのかも

しれません

 

「智」という

本当の事実をよく見る

そのことによって

自分の立つところを「地」

を見出された

ということでしょう

 

こういうことも

一つのきっかけですが

智慧ということになると

そこからが本当の修行で

努力という加行道から

無間道・解脱道・勝進道と

段階が進んで行くのです。

 

こういう変な譬えを出すと

先生に叱られそうですが

私の勝手な譬えで

ご勘弁ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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まだ足りぬ … … あの世まで

2021-09-07 20:33:00 | 十地経

六代目尾上菊五郎さんの

辞世の句と言われています

 

「まだ足りぬ おどり踊りて

  あの世まで」

 

名人と言われた人なればこそ

こういう句を

読まれたのでしょう

この頃、身に沁みる言葉です

 

「まだ足りぬ」です

読んでも読んでも

書いても書いても

身に付かなくて忘れること

ばかりです

 

先日のパラリンピック

車椅子テニスで優勝された

国枝慎吾選手

一時はケガや負けが続き

もうテニスは止めようと

思っていたそうです

そこから、練習練習で

一つの業を身につけるのに

3万回は打って

習得したそうです

それで、ラケットには

俺は最強だの言葉を書いて

自分を奮い立たせ

また、リラックスという

言葉も書いていたそうで

 

ちょうど十地経に出てくる

「止観」のようで

止という静止と観という動き

この二つが相まって

素晴らしい技を見出した

のではないかと思います

 

あの、車椅子での動きが

出来るにはそういうご苦労が

あったということです

ですから、相手の動きが

読めて球を打つところが

自然に分かってくる

ということです

車椅子ということで

何手先も読んで

球を打つという

そういうことが身に付くには

何万回という練習の賜物です

 

ちょっとやそっと

読んだくらいでは

分かるはずはありません

安田先生も

読書百遍、ということを

よく話しておられました

それも解説書ではなく

原本を読み砕いていくと

自分というものを

まな板に載せて分析する

自分の心の原始林に

切り込んで

経典に照らしながら

自分の心を切り開く

このことも大変な修行です

 

「まだたりぬ」ということは

自分が自分に言うことで

人が言うことではありません

修行とは終わりがない

ということです

 

十地経に

「前上地勝」ゼンジョウチショウ

という言葉が出てきます

前の地にも勝れスグレ

上の地にも勝れている

ということです

前の地に勝れている

ということは

何となく分かります

今までやっていたことに

対して勝ったので

次の地に進むということで

ところが

まだ進んでいない次の地

上の地に対しても

勝れているというのです

 

ものごとが完成した

ということは

前のものが完成したから

超えられるのであって

さらに、まだこない

上の地に対しても

満足したから超えられる

 

「不満だから次に移って行く

のじゃない。

満足しているが故に

次に移って行く。

AはAとして円満であるが故に

必ず他の円満を

呼び起こしてくる、Bという

AからBに移るというのは

Aが不完全であるなら

Bに移れん

AがAとして完成しとるから

して、

完成したものは完成したもの

に対して完成しとるんです

だからBを呼び起こしてくる」

 

よく、次から次へと

やり方を変えていく

ということがありますが

何か新しいものを求めて

次から次へ探るのですが

そのことを三浦先生に

尋ねたことがあります

すると

「今やっていることが

完全にできないうちは

次に移っては駄目だと」

と言われたことがあります

 

何かそこには

今やっていることに満足

できるものが現れたら

次のものが生み出されて

くるのでしょう

方法だけでは駄目なように

思います

 

まだ足りぬです

あの世まで持っていける様な

ものを見つけることが

大事なようにも思います。

 

 

 

 

 

 

 

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万劫の初事

2021-09-06 21:13:16 | 十地経

「万劫の初事」

(まんごうのはつごと)

この言葉も思い出します

講義の中のここで出てきた

のかと、

何ごとも「万劫の初事」

として聞きなさいと

よく、

三浦先生に言われました

 

ああそのことは聞きました

というのではなく

初めて聞くように

新鮮な気持ちで聞きなさい

またこの話か、

と思うのですが

聞くこちらの方が

万劫の初事として聞くと

話す方もまた新たな展開が

あって、新しい言葉も

生まれてくるものです

 

よくお寺に相談に見える方

くどい話に又かと、

思うのですが

そこをぐっとこらえて

あの言葉を思い出し

そうなんですか、それで、と

こちらが新鮮な気持ちを

持ち直し聞き直すと

同じ愚痴が違った方向へと

話が発展していきます

 

講義では

「初めて真理を見た

といって、初めという字を

つけるでしょう。

それが初歓喜地の初ですよ。

初歓喜地といって、

万劫の初事といって。

初めて見たという意味や。

長い間見たいと思っておった

ものを初めて見た。

 

そこに見られた真理は

初めがない。

見たときに真理は

始まったんじゃない。

見ぬときにもあった。

しかしながら

見ぬとなるというと、

あったといっても

見ぬなら、

ないのと同じことや。」

 

というように

出てくるのですが、

「初め」ということが

大切なのであって

何でも当たり前、

それは知ってるそれも聞いた

ということになれば

最初の一歩は出ないのです

 

歓喜ですから

何でもない当たり前のことを

そうだったのかと

歓喜を持て受け止めれば

そこに歩みが始まるのです

 

ですから何事も

「万劫の初事」として

聞き、受け止めれば

聞くこちらの方に

歩みが生まれると思います

どんな愚痴でも

またかと、何度聞けばいいの

と思ってしまえば

それは遮断してしまうのです

 

愚痴は何度でも聞くことです

聞いて聞いて聞いて

愚痴が出なくなるまで聞けば

言った方も聞いた方も

歩みが生まれると思います

思わぬ展開があるはずです

 

年を重ねても

すべてのことに

「万劫の初事」と思い

チャレンジすれば

歩みはのろくとも

新しい発見があるように

思います。

 

 

 

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日常が作法になる

2021-09-05 22:20:38 | 住職の活動日記

パラリンピックも閉会式を迎え

楽しいうちにも終わりました

今回は時間的余裕もあり

ずっと応援していました

今年ほどパラリンピックが

これほど楽しく興奮するもの

だということを知りました

手に汗握り、必死に声援を

送っていました

 

体の不自由さなど微塵も

感じさせないプレーに

驚きと素晴らしさに感動

していました

 

しかし、ふと思うのは

日常生活では何気ない

当たり前の行為が

当たり前ではないのでは

と思うのです

 

私たちでも

ちょっとした指のけが

または骨折でもすると

途端に不自由になってきます

朝顔を洗うのも

ご飯食べるのも

横になって休むことも

全てにおいて集中して

行わないと

はずみでご飯こぼしたり

水をあたりに巻き散らしたり

と、今までやっていたことが

思い知らされます

 

修行ではまず

ご飯の制限があります

朝昼の二回、夜はなし

お風呂は二日に一回

無駄話をしてはいけない

などなど規制がかかります

その時何気なく食べていた

ご飯の有り難さ

だしで摂った料理のおいしさ

寒さで眠れない夜

あまりの寒さに机を

布団に乗せ体を力ませて

寝るというような

 

何でもない一つ一つのことが

心を込めて行わないと

成り立たない、というか

実感がわかない

有り難さが身に沁みてこない

ように思うのです

 

食事作法(じきじさほう)

ということがあって

難しくは昔からの文句も

あるのですが、

それよりも

「我今さいわいに

この清く食を受く

慎みて父母のご恩を思い」

という具体的な言葉に

食も玄米一椀に味噌汁

漬物納豆という食事では

なおさら、これだけしかない

という量にこの言葉が

身に沁みてくるのです

 

ということを思っていると

体の不自由な方にとっては

すべてのことが

何気にことでは済まされない

一つ一つのことが

それこそ作法と言われる

ような集中力でないと

出来ないように思うのです

 

あの、手のない山田美幸選手

足でもって上手になんでも

行っておられます

何でもないようにされてますが

一つ間違えば大けがのもと

やはり丁寧に

作法のようなしぐさで

されているようです

 

こう書いていますが

実際は私にとって

言っていることで

分かったつもりで

やっていると

とんでもない間違いを

してしまいそうになります

年とともに反応は悪くなる

作法の如き仕草を

取り戻さないと

何につけても大けがのもと

 

あのパラリンピックの

選手の方々を見ていると

作法のようなしぐさに

私も習わなければと

思っていたのです。

 

しかし、

本当に素晴らしい競技を

見せて頂いて

有り難うございました。

 

 

 

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ただ(徒・常・只・唯)

2021-09-03 20:34:44 | 漢字

ただ、という字も

徒に(イタヅラニ)という

無駄という意味の「ただ」

もあります

また、辞書を見ると

常、というただもあります

普通にという意味のただ

でしょう

そして引っかかったのは

このロハと書く只です

 

只管打座の只管です

これも分かりにくい言葉で

「ロハ」

「今日はロハでお願いします」

と、ただにして、という

場合にもこの只を使います

それが仏語になると

只管と、

只という字はただこれだけ

という意味ですが

管というのは管クダという

節が取れた竹のことで

楽器の笛のことも管と

書きます

面白いのはお寺の管長さん

もこの管を書きます

この管には、つかさどる

という意味もあって

そこからお寺を司る人

という意味で管長さんと

呼ぶのでしょう

 

これが只管となると

ただそのことばかりに心を

用いる、という意味になり

ひたすらそのことに向かう

という、

また、打座というのは

打ち座るという

ただ座るのではない

打ち座る

座るということを強める

ことが打ちという語です

打ち進むということもあり

そこには

覚悟して座れよ、という

メッセージの様な

意味も込められているようです

 

それから、唯という言葉は

「唯識」という経典もあり

お経の中には

「識のみあって境なし」

という言葉があり

この場合の「唯」は

いろいろあるんじゃない

ただ「意識(識)」だけだ

という

他の考えを否定しています

 

ですから、

「唯」という字には

すぐさま返事をする声

という意味があり

ただ、といっても

「それだけ」という強い

意味合いがあります

お釈迦さまがお生れになって

七歩歩いて天と地を指さし

「天上天下唯我独尊」

と声を発せられたと

ありますが、

この時の「唯」も

ただ我一人という

一人の人間の尊厳性

ただ一般的な人間ではなく

人は誰でも唯一無二の存在

その尊さを宣言された

ということです

他を否定して自分だけが

という意味ではありません

 

「人間は自分の心に

   自分が迷う」

ということをいいます

その迷っている自分の心を

明かにしていくのが

『唯識』という経典です

ですから、

先生が仰るには

「直感の鋭さよりも

 厳密性が大事だと」

ということです

 

そこの人間の意識を

唯識という経典の立場が

あるようです。

ですから、このただ(唯)には

只と違って(ただひたすらに)

ということではなく

人間の意識の迷いを

明かにしていくという学問が

唯識という経典です

 

人間の煩悩の微妙な変化まで

見逃さないという

面倒なほどの厳密性が

あるように思います

 

ただ、といっても

いろいろな意味があるのは

非常におもしろい。

 

 

 

 

 

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本当の仏は行仏としてある

2021-09-02 17:56:02 | 十地経

連日のパラリンピックの応援

なかなか忙しいのです

とても面白く感動すること

しきりなのですが

先日は車いすラグビーで

銅メダル

昨夜は

車いすバスケットボールで

オーストラリアに勝ち

準決勝へ進みました

今日はボッチャの応援で

見ているとはまってきます

 

「みんなちがって

  みんないい」

 

という言葉のように

それぞれがそれぞれの

役目を果たしチーム一丸で

勝利をものにしていく

また、

ボッチャの競技も

見ごたえあるものです

チームプレーとなると

頭脳戦でその作戦を練るのが

こちらも一緒に考えたり

ワクワクドキドキするものです

 

そんな中『十地経講義』で

その『十地経』のもとになる

『華厳経』というお経があり

華厳ケゴン華でもって荘厳する

という意味でしょう

荘厳ということも

普通には飾り付けるというか

本堂の内陣の荘厳とか

そういう整えられた空間です

 

華厳経ということも

雑華経ともいわれ

名も無い草花で飾られた

という意味もあるようです

「雑」という字には

いろいろの布を集めて作った

衣服という意味があります

ですから

華厳ということも

そこらにある花々で荘厳された

世界ということでしょう

 

花には胡蝶蘭の様な

王様のような花もありますが

やはり身近にある草花が主役

というのも

華厳という意味なのでしょう

 

人というのは皆違っています

誰一人として同じ人はいません

今のパラリンピックを見て

手が不自由、手もないという

そういうハンディーを持っても

同じように一緒に出来る

人は皆唯一無二の存在

ということを思い知ります

 

ボッチャの

筋ジストロフィーの選手

段々筋肉が萎縮していく

いつまで出来るか分からない

と、

でも今の一瞬を

精一杯プレーすると

話しておられます

 

講義の中で

 

「本当の仏というものは

行仏ギョウブツなんだ。

行としてある。

仏が行ぜられとるという

ことが本当の仏なんだと。」

ですから、

仏というものがあるのではなく

行じるところに仏という

進行形が仏なのでしょう

形あるものではなく

行じなかったら仏ではない

 

そこで先生は入院

ということを通して

「死ぬるとか、治るとか

そんな妄想を描く。

それで死んでもいいじゃないか

治るか死ぬるかは

あなた任せだと。

誰にも分らん。

医者にも分らん。

そういうものは人間が

決めるものじゃないんです。

つまり、

死ぬるか、生きるか、

治るか治らんかを超えて

行ずると。

そこに安住があるのでしょう」

 

と結んでおられます

なんだか選手の方々を

見ていると、そういうような

明日はどうなるかとか

そういうことを考えずに

今の一瞬に全精力を傾ける

そのような姿に見えます

 

精一杯の応援しています

その姿がとても美しく見えます

 

 

 

 

 

 

 

 

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