かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

教科書のデジタル化のゆくえと展望 その1

2009年10月21日 | 出版業界とデジタル社会
同業者のみなさんの感想を拝見して、わたしたちは情報というものをただニュースリンクの紹介にとどまるだけではなく、きちんとその情報の持つ意味を整理して伝えないといけないのではないかと強く感じました。

そこで、タイミングは少し遅いかもしれませんが、うちも経営の4分の1を教科書に依存している店なので、教科書のデジタル化、電子ブックへの移行の見通しについての問題を私なりにこの機会に整理してみたいと思います。





1、現在、すでに起きている変化


 すでに紹介されていますが、今年アメリカで高校の教科書にアマゾンが開発した読書端末キンドルが導入されました。
 アメリカの場合、教科書版元の独占が進んでいるので、今回導入した大手三社で全体の教科書市場の6割を占めると言われます。


 このニュースは、日本でも衝撃的に伝えられましたが、にもかかわらずまだキンドルは英語版しか出ていないことや、日本のメーカーが過去、電子ブックで失敗していることなどから、日本で同様な変化が起きるのはまだ先のことになるかの憶測もされています。
 しかし、以下の項目で説明するような理由で、すぐではないといっても、それは決して遠い先のことでなく近いうちに必ず起きる変化であることも間違いがないのではないかと思います。


 電子ブックというかたちではなくとも、すでに教材のなかには印刷製本せず、ダウンロード版のみというものも出だしています。


 それと見過ごせないのは、教科書問題とはまったく別次元で実際の教科書取り扱い店が経営難に陥り、その業務を受け継ぐ場所がなくなる問題が多発している現実もあります。
 今、扱っている書店の延命・保護も大事ですが、外部からみると衰退しつづける教科書取り扱い店の延命を考えることよりも、「既得権にしがみついている業者」は、これを機会に整理してしまおうとの意見も時代の流れからすると無視できないものがあります。


 取り扱い書店と教科書取次ぎを除くすべての業界関係者が、教育現場、子供と父兄、版元などどの立場からもデジタル化することの方がメリットがあるとデジタルアレルギーの精神的な抵抗感以外は、世論の多くがまとまってしまう流れは否めないのではないでしょうか。



2、デジタル化の持つ意味への根深い誤解
 
 それでも、紙の良さはデジタルに変えられるものではないという意見は、教育現場でも根強く存在し続けます。
 事実、デジタル化が進めば進むほど紙ならではの良さの再評価も高まることも間違いありません。
 しかし、受験勉強などの学習方法の効率を問う分野ほど、その差は歴然と開いていきます。
 デジタル化とは、ただ紙の情報をデジタルに置き換えたコンパクトで便利なものということではありません。
 学習の方法が革命的といっても良いほど大きく変わるのです。
 既に電子辞書の普及は、英語学習において先生以上に正確なネイティブの発音で単語にとどまらず例文や問題まで生徒がいつでも聞ける環境になりました。
 昔の「アイ、キャノット、スピーク、イングリッシュ」などという先生はもう生徒からも相手にされない時代なのです。


 こうした音声機能とともに、画像表現や画面の拡大縮小機能、情報のリンク、ジャンプ機能、快適な操作性などの進歩にはこの数年を見ても目覚しいものがありますが、これらは今後日々さらなる進化を遂げていくものです。
 
紙の良さはあります。またそれゆえに残るものもあります。
しかしそれは、高価な特殊付加価値商品ということです。
圧倒的部分は、デジタル化することで、経済的でエコでもあるゆえに多くの人が恩恵を受けることができます。


3、出版社側の事情


 日本では光村教育図書が、デジタル教科書の開発をすでにすすめて商品化していますが、そうした開発を急ぐ最大の理由は、出版社自身の延命策としてなによりも有効であるからです。


 児童数の減少により市場そのものが縮小し続けるだけでなく、大判教科書の比率が増たり、カラー刷りページもどんどん増えていながら、 定価は簡単に上げることの出来ない今のままでは、出版社の自助努力の範囲ではとても対応しきれない現実があります。
 そこに紙の印刷と製本、物流のコストを省けるデジタル教科書は、版権製作料部分の純利益比率を上げても、 最終商品価格を下げられる競争力をつけられる有望な商品になります。


 これまで長い歴史のあるつきあいをしてきた書店に対して冷酷な発言をすることはできない立場ですが、こうした事情をみると出版社がたやすく書店を擁護できるわけではありません。



4、ハードメーカー側の事情


 電子ブックは、かつていくつかの日本メーカーが参入しながら失敗に終わった苦い経験がありますが、amazonのキンドルがアメリカで急速に普及したことで、完全に仕切りなおしがされたといえます。

 これまで普及の障害になってしたのは、
  1、コンテンツの絶対量不足
  2、液晶画面の見にくさ
  3、バッテリー寿命
 などがありましたが、すでにこれらの問題はどれも日本メーカーはその気になれば十分解決できる時代に入っています。


 さらに決定的なのは、電子辞書の普及で経験したことですが、児童・生徒へのこうしたハードの普及は、一般市場のヒット商品を産むことよりもはるかに「大きな市場に化ける」ということです。


 小中高の全校採用ともなれば、電子辞書とは比べものにならないほどの大きな需要が、一気に見込めるのです。
このことに気づいたメーカーが、文部科学省、教育委員会をはじめとした教育機関に相当な営業をかけることは間違いありません。
そして児童・生徒のそうしたデバイスの利便性を体験させたならば、さらに社会人への需要開拓の大きな布石になることも期待できます。


パソコンメーカーと、カシオやシャープなどが競って、これからamazonやMacの商品と開発を競いあう時代がはじまっています。




5、文部科学省、教育委員会など行政の対応


 一般にこれらの問題に対して行政は、保守的である場合が多いものですが、上記のような環境から各メーカーが競って営業をかけることが予想され、一部の先進的行政マンやその長がそれに気づけば一気に様相が変わります。
 本来であれば、教育現場でどのように活用されるべきか、しっかりとした現場との協議を経て決定されるべき問題ですが、過去のこうした問題の経緯から推測すると、トップダウン式にある日突然その決定がなされることもおおいにありえます。


 これはどのような可能性があるか推論の精度を争うよりも、まず、最悪の事態にいち早くそなえることを優先することが求められます。


5、当面の予測

 次回の教科書改訂は、すでに目前になってしまうので当然間に合わないと思いますが(ヘタをするとそれも・・・)、おそらくアメリカほど教科書会社の独占は進んでいないので急激でなないかもしれませんが、まず高校の進学校からデジタル教科書の普及がはじまることと予想されます。

既に電子辞書の普及率が有名進学校ほぼ100%に近い実態になっていることから、受験校であれば、デジタル化によるメリット、学習効率の違いに真っ先に注目すると思います。

その次に他の高等学校や中学校が続くと考えるのが自然ですが、この段階になると、もしかしたら徐々にということではなく、文部科学省などの行政判断によって、ある日突然、全国一斉にということも十分考えられます。


教科書のデジタル化が実施される前に、様々な教材類がデジタル化され、その利便性などが現場に実感されていくことと思います。

これが次の次の教科書改訂時期、つまり5年後までの間に大勢の流れは決まるのではないかと思います。

運良くか悪くか、最も長引くことを予想しても10年(2回の改定機会の範囲)はかからない話なのではないでしょうか。




教科書デジタル化のゆくえと展望 その2

教科書デジタル化のゆくえと展望 その3

補足 デジタル技術への抵抗感について

モノの記憶
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市場規模で支えられる「国民文学」からの脱却

2009年01月26日 | 出版業界とデジタル社会

前に紹介した水村美苗さんの『日本語が亡びるとき』
筑摩書房 定価 本体1,800円+税
この本が、あまりにも多岐にわたって示唆に富んだすばらしい著作なので、数回にわたって本書を通じて考えたことを書いてみたくなりました。

 以前、アメリカドルの力が衰退したことで、世界の多極化が進行すること。
アメリカの圧倒的優位は無くなるものの、大国として、アメリカ、中国、ロシア、インドの優位とその覇権争いは残ること。
 日本はそれらの国々のような広大な国土こそ無いものの、生産力人口の規模などにおいては、先進国のなかでは1億人以上もいる国であることを考えると、日本が決して小さな国ではなく、もともと大国といってもよいほどの力を持っていることなどについて書きました。
  http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/5fbd81f2711d41f01c6a5aad127a9fc1

 この印象を、水村さんの著作では言語の問題を通じて、一層明確に感じることが出来ました。
 英語と中国語、ロシア語を除いたならば、世界中の様々な言語で、一億人以上が使用している言語は、いったいどれだけあるものでしょうか?
 植民地時代のフランス語圏、スペイン語圏を除いたならば、一億どころか、世界の国ぐにの圧倒的多数の言語は、5~7千万人以下の需要しかない国ぐにのなかで使われているのが実体のようです。

 それだけに、普遍語、公用語としての英語が広まるにつれて、それらの僅かな需要しかない国語、現地語は、いかに国家の保護のもとにおかれたとしても、多くの国では瀕死の状態にあるといえるのではないかと思います。
 この問題には、今回はこれ以上深入りはしません。
 今日は日本の問題に限定します。

 わたしたち出版業界が、1996年頃をピークとして、この10年間でおよそ二割、市場が縮小してきたこと、さらにこれからの10年でピーク時の半分以下にまで縮小することが必至であることを私はこれまで何度か書いてきました。
 ところが、この深刻な事態も、水村さんの本で世界の国ぐにの国民文学の実体を見ると、まだまだ贅沢な悩みであるように思えてくるのです。

 水村美苗さんは、英語の堪能な小説家として文学関係の国際会議に出ることが多く、そこで出会う世界各国の文学者、小説家の実態を現実に知る機会もとても多いようです。
 そうした国際会議で同席する各国の小説家は、国民文学作家として活躍する場合、その国の言語の使用者の数の大小にかかわりなく、自国の民族語を使用して書くことそのものを誇りとしている場合が多い。

 ということは、
 英語、ロシア語、中国語を除いたならば、
 世界の圧倒的多数の国ぐには、
日本が日本語の使用者を1億2千万人以上持っていることに較べたならば、
日本語の使用者人口の半分以下の規模の言語利用者しかない国ぐにであるとういことを再認識するべきだと知りました。

 主要先進国のなかでも、ドイツですら人口は8200万人程度、イタリアが5800万人、フランスが6800万人といった程度(いずれも旧植民地諸国は除く)で、圧倒的多数の国ぐには、日本の半分以下の市場規模です。

 生産力人口の規模を考えたら、日本の製造業以外の生産性がいかに低いかということを私たちはもっと自覚しなければなりません。

 今、国際的な不況で外需の落ち込みが深刻な問題であるといわれていますが、これまで経済発展に出来ることはなんでもしようとする姿勢自体は問題ではないとしても、外需に依存しなければ国が支えられないという発想は、これらの数字からいかに根拠のないことであるかはわかるのではないかと思います。

 つい経済問題に話が広がってしまいますが、世界の国ぐにの国民文学作家たちは、そのほとんどが、日本の半分以下の規模の言葉の通じる読者しかもっていない環境で活動しているということを知らなければなりません。
 半分とか3分の1どころか、世界に存在するあまたの少数民族からすれば、数千から数十万人しか、その民族の言葉が通じない社会で活動している作家も少なくないのです。

 日本のように、有名作家でなくとも、なんとか自国の言語で小説を書いて食っていけるなどという環境は、国際社会のなかではむしろ異例のほうの部類に属するのだと思います。

 こうした国際的な前提にたったとき、
もちろん、だから誰もが英語で書いたほうが得であるとか、国民に英語教育を徹底したほうが良いなどということになるのではない。
そもそも、潜在的な利用者、あるいは読者規模に左右される構造そのものに依拠した発想そのものが、「不合理」であると考えることが、これからの国民文学の復興を議論するうえでは大事なのではないかと考えるのです。

 3,000人しか利用者がいない少数民族の言語と8,000万人が利用している言語の間に、数の大小で優劣があるわけではない。
 このことは、比較的誰もがすんなりと理解してくれることだと思います。

 ところが、3,000人にしか読まれない小説と20万部売れた小説とを比較した場合には、
どうしてもそれは作品の力の差として受け止めてしまいがちなものです。

 これに断固、ノー!と言える社会のしくみや考え方が、これからの時代は大事になってくるのではないでしょうか。

 3,000人の市場では食べていけないから、外需を拡大するとか
 よりマス市場が期待できる英語圏に参入するとか、といった発想では、
そもそも世界中の国ぐには成り立たないのです。

 世界の圧倒的多数の国ぐにから較べたなら、はるかに有利な条件に恵まれた日本です。
水村さんの『日本語が亡びるとき』とは、だいぶ論点は異なりますが、日本語という1億人以上が利用しているメジャー言語の国の出版業は、ピーク時の半分以下にまで市場が縮小したとしても、世界の国ぐにの標準サイズにやっと近づいた程度の問題なのです。

たしかにこれから多くの書店や出版社が潰れていくことは間違いありません。
だからといって、やっていけないという理由にはならないのです。
「わたしたち」は、これからもやっていきますから。

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出版市場は、どのようにで縮小していくか?

2008年09月03日 | 出版業界とデジタル社会
このところ、名の知れた雑誌の廃刊、休刊が相次いでいますが、広告収入を当てにしている雑誌を筆頭に、出版市場の縮小化の傾向はさらに加速するばかりです。

この流れのなかで、一般読者は気づかないうちに徐々に馴染みの本が手に入りにくくなっていく。
たしかに、書店の数が減ってもネットで購入できるかもしれませんが、販売ルートの減少とともに、製作側の採算も加速的に難しくなっていきます。

ネット情報への依存が増し、書店に頼らない人も確実に増えていくでしょうが、日常的に本を読む人たちをめぐる環境が、気づかぬうちに大きく変わろうとしています。

それで、この本が好きな「普通の」ひとびとの環境とは、どのようなものなのか、
勝間和代さんがわかりやすい数字を引用していたので、それを紹介してみたい。


雑誌の市場:1.3兆円
書籍の市場:9000億円
(これは書籍・雑誌への一人平均の支出額は、月に1,000円に満たない)

この規模は携帯電話の5,000~6,000円に比べて圧倒的に小さいことがわかる。

それでも新書はよく売れていますが、新書のちょっとしたヒット書籍で5~10万部、
大ヒットで本のファンならほぼ題名を知っているというレベルで30~50万部です。
一方、『女性の品格』のように100万部以上売れる本というのは年に数冊、あるかないかです。

これはなぜかというと、どの年代も90%くらいの人が書籍を読む習慣があるとしていますが、実際に購入頻度を尋ねると、月に1回以下の購入頻度しかない割合が50%以上を占め、毎週本を購入するようなヘビーユーザーはわずか10%しかいないためです。

そうすると、成人人口は約1億人ですから、1億人に書籍を読む人が90%、
そのうち、ヘビーユーザーを10%とすると、

1億人 × 90% × 10% = 900万人
という潜在市場が出てきます。

さらに、このなかで漫画、小説以外のジャンルを買う人は10~20%しかいませんので、
大目に見て20%を掛けても、900万人×20%=180万人がおおまかな、本のヘビーユーザーの潜在市場規模になります。

10万部のヒットというのはヘビーユーザーの5%以上の市場シェアを目指すということなので、実はかなりハードルが高いのです。

     勝間和代『勝間流「利益の方程式」』東洋経済新報社より



この数字から見えてくるのは、
誰もが好きで買っているように見える本の市場の実態というのは、多くの人が想像しているよりは、かなり狭く小さいものであるということです。

私が何度となく書いていることで、これから10年で出版市場の規模は
ピーク時の半分以下にまでなるというその実態は、

縮小する大半部分は、現状の市場の3分の2以上を占める雑誌、コミック、実用書の分野で加速的に規模が縮小するということだと思います。

それに対して、純粋書籍ともいえるような領域は、ネット情報にも頼りながらも
はじめらか本ならではの高付加価値の情報も必要とするヘビーユーザーの比率が高いので
減少の幅は、他のジャンルに比べたら低いものであると思われます。

わたしたち零細書店は、ここにわずかな商機をみています。

平均的な書店は、売り上げの半分程度を雑誌とコミックに依存しています。
ところが、うちのようなタイプの零細書店の雑誌コミックの構成比は3割程度です。

書籍の構成比が、雑誌・コミックと比べて高くなるのは、
うちのようなタイプの零細書店と200~300坪以上の大型店です。

しかし、厳しいかな大型店ほど、市場規模がこれからピーク時の半分程度まで縮小していく時代には、相当な効率化して採算点を下げる努力をしないと経営を維持することはとても困難な時代になります。

なので、
残るは、うちのような雑誌・コミックよりも書籍の比率の高い零細書店。

もちろん、同じく市場規模の縮小する時代での生き残りですから、経営体力も一定度ないと持ちこたえられないでしょうが、それでも、大型店よりははるかに有利な立場にあるといえます。

この間経験しているころですが、周りの目上の競合店のほうが先に落っこちてくるのです。
そのおこぼれだけでも、零細書店にはかなりの恵みになるのです。
もちろん、それを受け入れる器を用意してあればのことですが。

出版市場そのものは、大幅に縮小していきますが、
全体に比べてこのコアの紙の本の部分は、減ることは間違いないのですが
他のジャンルに比べたら、それほど劇的な縮小はおきないのではないかと思うのです。

でもこのコアの市場のお客さんを相手にするのは、
これまでの取次ぎから送られてくる在庫をおくだけの書店は、退場してもらわなければなりません。

これからの書店はここをターゲットにした採算の取り方を考えるべきだと思うのです。
「そういう特殊な本は、大型店やネット注文にしてください」
ではなく、
「そういう本こそ、うちにおまかせください」
とならなければならないのです。

自分が市場の平均的な消費者だと思っている日常的に本を読む人たちの半分以上は、紙の本に頼らなくても他の媒体の情報で事足りるようになると思います。

しかし他方では、かなりのお客さんが、10年たっても
かといって近くにいい大型店がない、
ネットの注文、決済、宅配はいやだ、と言いながら
紙の本を求めて来るのではないでしょうか。

10年後には、
いまどき本屋なんて絶対に儲からないよといわれる時代になって
ありがたや、ありがたやと
この紙の本のコアのお客さんを相手にビジネスをしていたいものです。

そして20年後には
書籍に限らず、地域のひとたちの求めるあらゆる情報が得られる拠点として
新しい姿で生き残っていたいものです。

もちろん、いづれにしても険しい道のりであることに間違いないのですが・・・・
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「分散」と「集中」ロングテールの実体メモ(その4)

2008年07月24日 | 出版業界とデジタル社会

前編、後編で終わるはずのものが倍の長さになってしまいました。
もともとメモ書き程度のつもりで書き出したことですが、問題の広がりが見えてくるにしたがってどうしても長くなってしまいます。
これではどうもきりがなさそうなので、その問題の広がりを確認してメモのまま一旦打ち切らせていただくことにします。


「分散」と「集中」というこの一対の概念は、姿かたちこそ変われども形があるうちはこの一対の関係がどちらかに解消されるようなことはありません。
終わりのときとは、分散力が強まり四散して消滅するときか、集中力が極限まで達して爆発崩壊するときかです。

こうした構図は宇宙銀河レベルでおきてるかと思えば、それを構成しているひとつの太陽系などのレベルでもおきていて、かと思えば、地球レベルでの自然界や経済関係のなかで「分散」と「集中」は繰り返され、さらにそれらを構成する国家や一地方、あるいは一業種、一○○のなかで・・・・

と、繰り返されるのですが、それでも人間界においては、かつてない変化が起きました。
それは人間界はニュートン力学的な世界から量子力学的な世界に踏みこんだということなのかもしれません。

これまでの私たちがイメージする「分散」と「集中」という概念は、政治でも経済でも文化でも「中央」への集中は同時にピラミッド型の下からの積み重ねによる集中であり、その三角形(中央集権)に組しないものは、あくまでもアウトサイダーの地位に甘んずるのが常であったと思います。
ですから、たとえ複数の渦があったとしても、それは必ずといっていいほど、中央の覇権争いに収斂していく性格のものでした。

ここに、私がもうひとつの連載を続けている「『近代化』でくくれない人々」のテーマの根拠があります。
いままでの長い歴史を通じて「近代化」、あるいは「中央への一元化」でくくれなかったり、組しなかったりした人々は必ず、アウトサイダーたる地位を必然とさせられていました。

ところが、現代とこれからの時代の「分散」の広がりは、これまでになく薄いながらも広く大きく広がった社会で、その分散の仕方がピラミッド的な階層構造をもった三角形になるようなものではありません。
それは、水平の広大な広がりであるという意味において、必ずしも平等であるとはいえませんが、少なくともピラミッド的な序列構造には無い特徴を持っています。

なおかつその水平構造のなかでは、順番がないばかりか、ジャンプしたり、ワープしたりもしながら場所はしばしば飛び越えて移動することもありうるのです。
また、ある渦の中に属していながら、同時に他の渦に属していたりもします。

このような性格をもった個人(粒子)が飛び交っている。
Aに属したり、Bに属したり、ありときは、DとEそれぞれに属したりする自由な運動をする個人(粒子)たち。
これらの複数の運動を支える中心軸のエネルギーも、一元的なものではないので、絶対的な地位にはありません。

大きなビジネスを成功させるには、分散せずにかろうじて遠心力のなかにとどまれるだけの磁力をもって、出来るならばたくさんの渦を繋ぎとめる力が求められるのですが、他方、個々の粒子(個人)の側からすれば、中央集権的な一つの中心軸に頼ることはせずに複数の中心軸を渡り歩きながらでも生きていければよい構造が出来上がっているともいえます。

つまり、ここに至っては、アウトサイダーという概念がもはや成り立ちにくいのです。
別の見方をすると、中央に組みしなくても「自立」した関係を築くことが可能な社会であるといえます。
もちろん、それは決して中央への「集中」していくエネルギーが消えたわけではありません。

ビジネスの世界でいえば、水平統合型ともネットワーク型ともえいる組織イメージです。





このテーマの広がり

・こうした分散を背景にした極度の集中が進んだことで、集中した領域(資本)は、私企業的性格の事業であっても公的性格が高まり、社会の共通インフラとしての性格も強まる。
(悪い例では、銀行や大企業は公共性が高く他への影響が大きいから、いかなる問題があっても公的資金をつぎ込んで救済する)
(良い例では、パソコンのOSなどの共通のプラットホームになる技術などはリナックスのように完全オープンソース化し、利益の対象にしない。逆にこうした領域こそ、ビジネスにすれば莫大な利益が得られるともいえる)

・水平型の分散は、デジタル社会の進展とともに低コスト化とお金のかからない社会(経営努力による低コストやデフレを意味するものではなく)を必然としており、個人の自由の拡大の大きな条件ともなる。

・水平分散型社会のビジネスや組織形態は、複雑でわかりにくい側面があるだけに、ひとつの商品の売れ方の分析よりも、一人の人間(消費者)の全体像をつかむことがとりわけ重要になる。

 一つの本、雑誌という商品は、ひとりの消費者にとって、書店で買うこともあれば、コンビニで買うこともあり、大型店で買う場合もあれば、顔見知りの零細書店で買うこともある。同時に古書店に行くこともあれば、ネットで購入することもある。

こうした傾向が強まるときは、商品の属性よりも、消費者の行動属性の分析の方がはるかに大事である。それらの選択肢のなかでいかに選ばれるかということを考えなければならない。
(この先に見えてくるものは、小売業はメーカーや作り手の代理人である時代から、買い手・消費者の代理人になる時代に入っているということ。)

 

次に書かなければならないのは、「分散」の側のエネルギーに属する私たちの課題のことです。

 

その1 http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/d6849961bd583b9dc851ad074e812adf

その2 http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/f82e08f492d2f3e6289027b4a2317c7d

その3 http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/818b1e7f42b3efdd6c1a48c4bd13e649

 

 

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本ほど効率的な情報はない

2008年07月21日 | 出版業界とデジタル社会
勝間和代著
『効率が10倍アップする新・知的生産術--自分をグーグル化する方法--』
  ダイヤモンド社 定価 本体1,500円+税

なんでもグーグル検索すれば情報が出てくる時代だからこそ、
大事な情報は本でなくてはならない理由がここに書かれています。

勝間さんは、なぜ本を読むことで本質にたどりつきやすくなるのか。
次の3つの理由をあげています。

・理由① 多くの本の企画の中から厳選・編集された良質のコンテンツであること
・理由② 著者が自己実現のために書いている場合が多く、採算度外視で安価なこと
・理由③ 一覧性にすぐれており、かつ携帯性が高いこと

「本1冊書くのに、日本語だと約10万~20万字の原稿が必要です。私はかなり原稿を書くのが早いほうだと思いますが、それでもせいぜい1時間に2000字くらいしか書けません。
そうすると、12万字の本を書くのに60時間かかります。さらに、その60時間の本の材料はおおよそ、20年近くかけてためたものです。
 したがって、読者は私の20年の体験+60時間の労力を、わずか1,575円で手に入れることができるわけです。12万字のすべてが役に立つかどうかわかりませんが、その中に1つでも、2つでも、「なるほど、それは目から鱗が落ちる思いだ」と思える部分があれば、それだけで本代は回収できます。」
              (同書151ページより)

もちろん、これらの長所を生かしているとは言いがたい本もたくさんあるので、
それらはどんどんネットにとって代わられていくことでしょう。
そして紙の本の市場が縮小していくことも間違いないのですが、
それだけに、紙の本ならではの高付加価値の情報がより貴重になるのです。

勝間さんは、月にだいたい50から100冊の本を買って読んでいるという。
その金額は15万円ほどになるそうです。
そのうち手元に残す本は、約1割。

経済的に余裕があるから、そんなことが出来るので、普通の人にそんな真似できるわけないとの返事が返ってきそうですが、よく冷静に考えてみてください。
勝間さんも若いときからそれほどの金額を使っていたのではないでしょうが、先に必要な情報にそれだけの投資を優先していたからこそ、そうした生活が出来るようになったのです。

それに比べたら、私が9割を古本に依存しながら毎年1本ずつ本棚が増えていくレベルなんて甘い甘い!

著者が「自分をグーグル化する方法」とサブタイトルをつけていますが、
ここに、グーグルで誰でも必要な情報にアクセスできる時代に求められる
ほんとうの「知的生産術」の大きな手がかりがあると思うのです。

こんなことも書かれています。

増やしたほうがいい情報
・自分の体験からの情報
・他者の体験からの情報
・良書

減らしたほうがいい情報
・テレビ
・一般雑誌
・目的意識のないコミュニケーション

そうだ、そうだ!ヨシ!
もっともっと本を買って、もっともっと書かねば。

              (正林堂店長のブログより転載)
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「分散」と「集中」ロングテールの実体(その3)

2008年07月16日 | 出版業界とデジタル社会

もう一度、恐竜の姿をイメージしてみましょう。
前回書いたように、ロングテールといわれる尻尾の長さが長くなったことは間違いありませんが、もう一方で恐竜の首、頭の部分にあたるベストセラー商品も、尻尾が長くなっていることに劣らず、細く長く上に伸びているのも今の特徴です。

ベストセラーのなかでミリオンセラーと言われる商品が、書籍に限らずCDの売り上げなどでも同じように市場が縮小していると言いながら、過去10年20年前のいかなる時期よりも最速で次々とその記録は塗り替えられています。
次々と塗りかえられているそれらの記録の商品は、昔であれば日本国民の誰もが知っている歌であり、誰もがその話題だけは知っている本でしたが、今、私たちがそれらのCDタイトルを聞いてもまったく知らないことが多いのです。
100万部を超えるベストセラーと言われても、その作者も書名もまったく知らないもということも、読書家を称する人々の間ですら珍しくはありません。
これは必ずしも、そうした情報を見ても知らない人々が年配者だからそうだということでもありません。

あっという間にミリオンセラーの記録を塗り替えるそれらの商品は、瞬く間にトップの位置を占めるようになるのですが、同時に、瞬く間にヒットチャートのなかから消えていくのも今の特徴です。
つまり、それらの商品は先の恐竜の姿でいえば、昔以上に限りなく細く長く伸びた首としてその姿をあらわしているのです。



尻尾も限りなく長く伸びた。
首も限りなく細く長く伸びた。

これは、最初の「分散」と「集中」という台風の渦のエネルギーの考えかたからみたら、どういうことでしょうか。

求心力、遠心力ともに最大限まで発達した回転する駒のような形がイメージできます。
それは、回転する軸の部分が細く上下に長く延びている一方、駒の胴体の輪の部分も限りなく薄い円盤状に拡大している姿ということになります。



このいかにも壊れやすそうな薄く細いかたちは、経営資本のかたちととらえても同じです。
アマゾンやグーグルに代表される現代の最先端企業の姿をみると、パソコン画面上にあらわれるそのシンプルな姿からは想像もつかない莫大な研究技術開発費を投入し続けています。
ところが、そこには昔の重厚長大型の大企業のイメージからは遠い、これまでは想像もつかなかった世界があります。

そこの経営を支えているのは、莫大な技術研究開発の部門とともに、アドワーズ、アドセンスといった無数の小口の広告スポンサーたちであり、ひとつひとつは小口でありながら、世界市場をターゲットにした大企業の要望にも応えられるものです。

また、アマゾンの書籍データを開くと、そこには同時に新刊情報とともに、その書籍の古本出品情報が出る。定価1,500円の本と同時に下は1円から600円、800円と、絶版品切れ本であれば時には5000円、7000円といった情報が同時に表示されて、ワンクリックでそれを買うことができる。
それらの出品者は、必ずしも古書店とは限らず、個人の蔵書でも登録さえすればそこに出品することができます。

私の管理サイト「かみつけの国 本のテーマ館」も書誌情報はアマゾンのデータをリンクしていますが、それを通じて購入されるものの9割は新刊の定価販売商品ではなく、「古書」です。

こうした法人、個人を問わず、世界中のユーザーを簡易なシステムで取り込んで、既存のいかなる巨大書店よりも大きなビジネスを築き上げているのがアマゾンです。

これらの例のどこをとってみても、かつて私たちが高度経済成長時代に学校で学んだトラスト、カルテル、コンツェルンなどのイメージはありません。
強いて言えば、出資から販売まで、小さな個人を寄せ集めた裏(闇)カルテルのようなものでしょうか。

まさに、これらの姿は、細く長く伸びた軸のまわりを、これまた薄い円盤がとてつもなく大きく広がった駒のかたちであるといえます。
もう少し正確に言うならば、その円盤は土星の輪のような形というよりは、銀河系の広がりのような薄い層や厚い層のムラのある円盤状の広がりといったほうが近いでしょう。


この広がりこそ、現代の「分散」の特徴なのですが、残念ながらこれも、分散一方の優位というわけではなく、軸に集中する設備投資や技術開発の領域で桁外れの「集中」を前提として成り立っていることを見落としてはなりません。

にもかかわらず、この水平方向に広大な広がりを見せた「分散」こそ、これまでにはなかったものだといえるのです。

もう少し続けなければならないので、また次回に続けます。

 

その1 http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/d6849961bd583b9dc851ad074e812adf

その2 http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/f82e08f492d2f3e6289027b4a2317c7d

その4 http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/9ec1a58f2db44441d85e30781400e9a3

 

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「分散」と「集中」ロングテールの実体(その2)

2008年07月13日 | 出版業界とデジタル社会

 

前回「分散」と「集中」のエネルギーを内包した台風のような渦が、常に生成、死滅を繰り返すことが必然であることを書きましたが、その巨大なスケールの渦を私たちの感覚でとらえることはとても難しいものです。 


台風、ハリケーンの姿は、わたしたちはテレビの気象図を見て知っていますが、現実の強風や大雨を見てその大きさを知るわけではありません。 
同じように恐竜の姿に例えたロングテール理論の場合も、その恐竜を見ているのは人間ですが、現実のその恐竜に例えた巨大市場の規模からすれば、恐竜の足元や背中にのっかった小さな蟻のような立場で全体を想像しているにすぎません。 


つまり、理論上「ロングテール」を語ることはできても、その当事者たちは、巨大な恐竜の背中にのった小さな蟻のような存在にしかすぎないので、自分の立っている場所が、恐竜の背中なのか、左足の爪の上なのか、尻尾の付け根にいるのかはまったく検討もつかない、ただ広い大地の上にたっていると誤解しているようなものです。 




実は、これこそ顧客の真実の姿なのです。 


よく、金太郎飴化する書店というたとえも昔から話題になりますが、どこにいっても同じような本しかないと感じる顧客のほんとうの姿は、実際にどこに行っても同じような本しかなかったということを言っているのではなく、それは、どの店に行っても自分の興味のある本が「1冊も」見当たらなかったという体験の別表現であるのだと思うのです。 


大半の現実は、何万、何十万とある在庫のなかから、ピンポイントで自分の興味のある本が「1冊」おいてあれば、その店はいい店に見えるものです。かなりの読書家でも数十冊や数百冊もの在庫情報を見て判断しているということはまずありません。 


この説明をするためには、ここであらためてamazonの登場とともににわかに注目されるようになった「ロングテール理論」のことをちょっとおさらいをしておきましょう。 
こらからの時代、まだまだ話題になりつづける言葉だと思うので。 



ことのきっかけは、2004年10月、米「ワイアード」誌の編集者クリス・アンダーソンが書いた記事だ。 
「1988年、ジョー・シンプソンという英国人登山家が、ペルー・アンデス山中で死に迫る体験を記した『死のクレバス――アンデス氷壁の遭難』(岩波現代文庫)という本を上梓した。同書はよい書評を得たものの、売上的にはそこそこであり、いつしか忘れ去られていった。それから10年後、おかしなことが起きた。ジョン・クラカワーが登山の悲劇に伴う『空へ――エヴェレストの悲劇はなぜ起きたか』(文春文庫)という本を書き、その本はセンセーショナルに売れた。すると、突然『死のクレバス』が再度売れ出したのである。  

                     (「ワイアード」誌より) 


 その謎を解く鍵は、アマゾンのリコメンデーション・システムにあった。 
 アマゾンで『空へ』を買ったユーザーの中にたまたま『死のクレバス』を買ったユーザーがいた。その結果、アマゾンのリコメンデーションで『死のクレバス』が紹介され、そのリコメンデーションを見たユーザーがまた買うことになり・・・・・・というループが起こり、市場から忘れられていた『死のクレバス』は10年の時を経て再び読まれることになった―――という次第だ。 


 アンダーソンは、このように埋もれた商品が見つけ出されるのが、ネットのニュー・エコノミー現象のひとつだとし、アマゾンでは、自社のランキングで13万位以下の売上げが、実に半分にまで及ぶと述べた。 


 同社の本の在庫は米国で200万点以上(日本は50万点)。売り上げの半数が13万位以下となれば、縦軸に売り上げ冊数、横軸に売り上げ順位をおいた場合、横軸は右へおそろしく長く伸びることになる。その反比例のような関数曲線を恐竜の姿に照らし、もっとも売れているベストセラー系を「ヘッド」、果てしなく右に伸びる売り上げ下位の書籍群を「 
ロングテール」と呼んだのである。
       森健『グーグル・アマゾン化する社会』光文社新書より 

 このアンダーソンが発表した「13万位以下の売り上げが半数を占める」という記述は、間違いであることがわかり、2005年春の彼のブログで、アマゾンにおける13万位以下の書籍の売り上げに占める割合は、全体の三分の一だとされた。 

 よくあることながら、もう遅い。 


 それで、このようなアマゾンの登場とともに、どうしてロングテール理論が注目されるようになったのかというと、よく誤解されやすいのですが、ロングテールに位置する商品群は、昔から存在してはいたということを見落としてしまっていて、アマゾンの凄いところは、そのロングテールの商品群をローコストの管理システムで顧客に手軽に見つけても らい、なおかつ手軽に手元に届けられるシステムをつくったところにあるのだということです。 


 最近流行りの500坪以上の巨大書店であれば、どこもそのアマゾンのロングテールにあたる商品群は、程度の差こそあれ店頭に持っています。 
 ところが、それを顧客が同じことをしようとするならば、広い店のなかから探し出し買うこと、もしその本が店に無かったならば他の大型店にまであるかどうかの確信のないまま行き、広い店内からまた探さなければならりません。 
 もちろん、店員をつかまえて聞くことも出来る、勝手知る店ならば、まっすぐにその棚に行って本を探しだすことも出来る、実際の棚を見ることでこそ他の面白い本を見つけ出すこともできる。 
 それら副次的なメリットがいかにたくさんあろうとも、アマゾンの場合は、どんな大型店よりも経費をかけずにピンポイントでお客の探しているものを素早く提供することが出来るのです。 


 もちろんそれだけの便利なネットシステムは、膨大な技術開発経費と設備投資資金をかけてこそ実現できているのですが、ピンポイントで探すものにたどりつけて手軽に購入できるという点においては、いかなる巨大書店であってもかないません。 


 この点から、先の恐竜の上にのった蟻のたとえを思い出すならば、顧客からすれば、恐竜の高い背中の上に這い上がる苦労をせずに、ワンクリックで背中のその場所に自分が立っていることが出来、それが尻尾の先であろうが、頭のてっぺんであろうが、その手間は関係ないどころか、まったく意識されていないということです。 


 ここまできてようやく「ロングテール理論の実体」というものが見えてきたでしょうか。


 のちに半分ではなく3分の1だったと訂正されながらも、その理論がもっともらしく普及している理由は、長い尻尾の部分が経営を支えているのだということにあるのではなくて、尻尾であろうが、胴体であろうが、頭であろうが、どの部分に位置する商品であっても手間とコストの負担を変えることなく、手軽に顧客のもとに届けられるシステムということにこそ、その核心があるのです。 


 このことを見逃して、店舗の巨大化だけをはかってロングテール部分を網羅しようとしても、アマゾンには勝てるはずがありません。増してや市場規模が、これから10年でピーク時の半分にまで縮小しようとしている時代でのことです。 


(前編、後編で終わるつもりだったのだけど、もう少し書かなければならないので、また次に続けます)

 

その1 http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/d6849961bd583b9dc851ad074e812adf

その3 http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/818b1e7f42b3efdd6c1a48c4bd13e649

 

 

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「分散」と「集中」ロングテールの実態 (その1)

2008年07月13日 | 出版業界とデジタル社会

前にクローズアップ現代での商品ランキング依存のことを書きましたが、
今も尾を引いている大事なとこなので、もう少し補足しておきます。

ひとつは、ランキングのいったい何が問題なのだろうか、ということです。

市場競争のもとにおかれる限り、公表するかどうか、それを見るかどうかにはかかわりなく、ランキングがあること、またそれへの否定的な見方があったとしても、それが無くなることはありません。

今、問題になっているランキングの弊害は、ランキングそのものが悪いのではなくて、
もう少し正確に言えば、その情報がトップ10に集中するということだと思います。

インターネット上の検索でも、検索結果の1位、もしくは最低限でも最初のページに表示されるようでなければ、そのサイトは「この世に存在しないに等しい」とも言われるほど、トップ10以下は圧倒的不利な立場にあります。

検索結果の上位にあることが、その情報の実体や価値以上に決定的に重要なことになってしまっているのです。

これと同じことが、本のランキングでもおきてます。

もちろん、それは総合トップ10だけでなく、ビジネス書、文庫、新書など様々なジャンルごとのトップ10が公表されているわけですが、いかにその分類を増やしたとしても、現実に市場に流通している本のアイテムからすれば、極めて特殊な情報であるとすら言えるほど、本来、トップ10というのは、一部の情報にしかすぎません。
このことは、あとで「ロングテールの実態」のこととして書きます。

これは、一見様々な情報が自由に氾濫しているようになったかに見えながら、その豊富な情報を受け手が整理・識別する能力がないと、結局、情報が自由になり増えれば増えるほど、その膨大な情報を選別して提供するビジネスがおこり、そのビジネス間の競争過程で情報の集中を招く必然性を持っていることのあらわれでもあります。

分野を問わず、自由な競争は、必然的に「集中」「寡占」「独占」を招くことは避けられません。

セブン&アイ・ホールディングスの鈴木敏文氏も、日頃膨大なPOSデータを見ながら、文化・価値観の多様化などと言っているが、実態は、どこをとって見ても、「多様化」などという現実はなく、文化・価値観の集中である、といったようなことを言っていました。

これは確かに資本主義社会のしくみが、こうした傾向を加速させたといえるかもしれませんが、歴史をよくみると決して今に限ったことではなく、「集中」と「分散」のエネルギーは常にどの時代でも存在していました。

それは、古代まで遡っても共通してあったことといえます。


歴史をみると、分散に対する集中という対比が一貫して、「集中」の流れに組しないものはアウトサイダーとしての地位に甘んじざるを得ませんでした。
この構図は数千年の人類の歴史でも大きく変わってはいません。

限りなく「中央」への覇権争いや市場競争への一元的エネルギーが常に働いており、
その流れから外れたものは、限りなく排斥されたり、差別されたり、虐げられた地位に落としこめられるのが必然でした。

ただし、ここにきて突然その構図が、昔とは急激に変わってしまったのです。

それは、あらゆる領域でおきている「集中」と「分散」のエネルギーが、現代ではすべての領域でボーダレス化したということです。
どんな一地方でも、限られた分野の話でも、マネー経済に限らず、食料、エネルギーをはじめあらゆる文化領域までボーダレス化してしまいました。

これまで、一地方や一国のレベルでだけみていた「分散」と「集中」のエネルギーが、まるで気象衛星写真を見るように、低気圧や台風の雲の渦が、ひとつの街、ひとつの地方、ひとつの国のなかだけでおきていたものが、突然地球レベルでダイナミックに地球全体を包み込んだ動きをするようになったのです。


これまでの個々の地域のなかにあった些細な渦は、この地球レベルのダイナミックな渦にすべてが飲み込まれてしまう時代になってしまいました。

いま私たちはこの破壊エネルギーに翻弄され、振り回されていますが、ここに至ってしまった経緯は、自然法則からみても必然であったといえます。
したがって、こうなったことが間違っているという指摘よりも、私たちはこれからどうするべきかをもっと真剣に考えなければならないのだと思います。


この「分散」と「集中」というエネルギーは、あらゆる運動エネルギーのなかでも、つくづく面白いエネルギーだと思います。


上下左右、前進後退などの運動よりもはるかにダイナミックです。

自然界は常に微妙なバランスの上になりたっていますが、そのなかでは絶えず繰り返される運動のもとで、高気圧圏と低気圧圏という対象領域を生み、それぞれの内部で「分散」と「集中」のエネルギーが必然的に拡大します。
しかし、その「分散」と「集中」のエネルギーは拡大を必然としながらも、一定のレベルに達すると必ず崩壊し、消滅します。

遠心力で外へ外へと広がるエネルギーと、求心力で内へ内へと集中するエネルギーが、対立、協調しながら、生成、死滅を繰り返していく姿は、なんとも不思議な世界です。

経営なども、エクセルの表やグラフで表現されるものではなく、こうした「分散」と「集中」の渦のなかでもっととらえるべきなのではないでしょうか。


また、長くなってしまったので、次にこの「分散」エネルギーを象徴する「ロングテールの実体」のことについて書くことにします。

 

 

 

「分散」と「集中」ロングテールの実態

その2 http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/f82e08f492d2f3e6289027b4a2317c7d

その3 http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/818b1e7f42b3efdd6c1a48c4bd13e649

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「出版不況」という見方はおかしい

2008年06月06日 | 出版業界とデジタル社会
「クローズアップ現代」についての記事
http://d.hatena.ne.jp/beniya/20080604

あたりまえのように誰もが「出版不況」と見ているが、今の業界の低迷は、「不況」といった表現の性質のものではない。
今ある現実は、「好況」「不況」といった景気循環のようなものではなく、
出版業界に限らず1995年頃をピークにして、明らかに市場縮小化の構造に転換した結果だ。

まだ業界で改善しなければならないことや、打つべき手だてはたくさんあるが、構造そのものは、「不況」といった性質のものではない。

POSデータによるランク依存の問題も、実態はPOSが悪いのではなく、
データのベスト10にばかり偏重していることが問題なので、
2、300坪以上の大型店でも、POSデータ100位から500位レベルの良書をきちんとマークして仕入れが出来ていない店があまりに多い。

鈴木敏文が昔から強調しているようにPOSデータをきちんと読めば、店は個性化する。

市場縮小の時代に入って、みかけの売り上げ維持のために、売り場面積の拡大と新刊刊行点数の増で、経営数字をごまかしているだけのこと。

業種を問わず、今の現実を「不況」といった表現で見ている人たちは、いったい何を待っているのだろうかと思ってしまう。
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群馬県立図書館の公開書肆情報

2008年05月23日 | 出版業界とデジタル社会
これだけネット検索技術が進歩した時代でも、
グーグルやアマゾンをいかに駆使しても、
検索にかからない大事な書肆情報というのは、けっこうあるものです。

こと地元の本に関しては、
群馬出身や在住の作家、
自費出版などで流通にのらない本、
タイトルなどに関連キーワードが何も含まれていないものなどで
大事な本の情報というのがたくさんあります。

そうした問い合わせに、書店も出来るだけ答えられるようにしたいのですが、
こうした分野で最も頼りになるのが、やはり群馬県立図書館です。

その都度、電話で問い合わせるわけにはいかないのですが、それだけに
ホームページで公開している下記の情報は、とても役に立っています。

群馬の本http://www.library.pref.gunma.jp/g_book/index.html


このページは「かみつけの国 本のテーマ館」
http://kamituke.hp.infoseek.co.jp/
群馬県・郷土出版案内リンク集のなかにも貼っていますが、
お店では、勝手ながら全文プリントアウトしてファイルしたものを
正林堂の店内におかせていただいてます。

最近、たまたまこの資料を担当されていた方が、出入りの高校の司書として転任されてきて、
いろいろなご苦労もあることをお伺いしました。

世の中、こうした人手を経てこそ得られる情報というのが
まだまだたくさんあるものです。

なかなか数字的な成果は見えにくいものですが、
こうした人のお仕事というのは、応援したいですね。


補足

これだけの情報も、元はワープロ入力しているわけだから、
公開情報もPDFファイルではなく、テキストデータとして読めるようにして、
検索カテゴリータグなどをつけてもらえれば、そのまま検索にもヒットすると思うのですが、いつかそんな改善をしてくれる日を楽しみにしてます。
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すでに起こった未来

2008年05月21日 | 出版業界とデジタル社会
著書のタイトルにもなっているドラッカーの言葉
「重要なことは〈すでに起こった未来〉を確認することである。すでに起こってしまい、もはや後戻りできない変化、しかも重大な影響力をもつことになる変化でありながら、まだ一般には認識されていない変化を知覚し、かつ分析することである。」
        P・ドラッカー著『すでに起こった未来』ダイヤモンド社

 今、あらゆる領域で進行しているデジタル化の流れとそのスピードのもたらす変化を、
受け入れない人々、
受け入れようとしない人々、
理解できない人々、
それらがいかに多くいようとも、
いかに彼らのアナログ信仰に説得力があろうとも、
「すでに起こった未来」の現実として、
私たちはもっと真剣に立ち向かって考えなければならない。


このことには度々ふれていますが、
出版、書店業界に襲いかかっているデジタル化の流れを見るにつけ、
これから先、5年、10年といったスパンでの方向転換を
もっともっと真剣に考えなければならないのではないかと常々感じています。

何度でも書きますが、
アナログや紙の文化は、決して無くなることはない。
むしろ価値を増す領域も多いことと思う。

しかし、その市場規模は遅かれ早かれ、
ピーク時の半分以下になることは間違いない。

1995年頃を出版業界のピークとみると、この10年で
市場規模は約2割、縮小している。
これからの10年を考えれば、どう考えても更に2割以上
加速して減少していくことは間違いないと思う。

でも同業者の多くは、未だにピーク時の半分以下になることは想定していない人が多い。

私は、この現実を電子辞書の普及実例を通して、
これこそ、「いまそこに起きた未来」の典型的な例であるといい続けている。

群馬県は電子辞書の普及率が、全国でもずば抜けています。
学校の先生方の話を聞いても、クラスの半分以上が電子辞書を使っているという。
でもこの群馬県の特殊性は、ほんの一次のことと考えるべきだろう。
すでに都内の進学校での普及率は既に100%に近いという現実もある。

未だに先生のなかには、紙の辞書の方が良いという先生もいるが、
現実には、多数の生徒が持ち込み活用している現実を、
そうした先生ですら否定することはできなくなっている。

また、ひとつの辞書を徹底的に使いこなしている先生の指導は、どんなに優れた機能の辞書にも勝ることもある。

でも書店の新学期の紙辞書と電子辞書の販売比率は、もう数年前に完全に逆転した。

ここで起きている現実というのは、
電子辞書が、ただコンパクトに紙の辞書の内容をまとめてあるというだけのことではない。
これまでの紙の辞書ではできない
・辞書相互のジャンプ機能
・履歴保存機能
・英語などの音声機能(単語だけでなく例文も先生の発音より正しい発音が聞ける)
・手書き入力機能(漢和辞書の画数やつくりの知識がなくてもすぐ調べられる)
・画面の拡大表示(高齢者に限らず、画数の多い漢字は、拡大しないと識別できない)

これらの機能が、反射の少ない液晶画面や十分なバッテリー寿命の技術などが実現することで、多くの人の身近なものとなった。
今後、さらにネットとの接続などで便利な機能は増えていくことと思う。

ここで起きていることをみて大事なのは、
新しいハードやデジタルコンテンツの技術により、
「勉強の仕方」がこれまでとは変わったということです。

こうした現実を見れば見るほど、
今、全国の独立系書店が経営の柱にしている学校関係などの外商販売の領域こそ、
ある時期を境にして、デジタル化の流れが一挙に加速する可能性が極めて高いと予想される。

実務的な機能を要求される教科書や参考書の領域こそ、
この電子辞書のように、デジタル化によって劇的に利便性が増すことが考えられるからです。

ノートパソコンに限らす、機能を限定すれば、5万円以下でそうした作業に使える端末は既に実現、普及している。
トータルコストで考えれば、明らかに教育予算や親の負担を軽減、削減しながら、より進んだ教育を実現する条件がそこに見て取れる。

とすると、この領域こそ、ある日突然、
行政判断によって、一挙にデジタル化の流れが加速する可能性が大きいといえる。


この現実は、
(1)、多くの独立系書店は大きく依存している外商分野の学校や官庁関係へ納品している主力商品が、あるときから急激にデジタル化にともない消滅していく可能性が高いということ。

(2)、今ピークを迎えている大型店の出店は、これからのデジタル化の現実にともなう市場の縮小という現実を前にして、急激に危機を迎える。

(3)、より自由な情報の移動が保証された社会では、商品の情報よりも、顧客情報こそ、経営の最大関心事になっていく。

以上のようなことが予想されるので、これからこれらの事柄について継続して書いてみたい。
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分散システムの時代へ

2008年05月14日 | 出版業界とデジタル社会
最近なぜか、かつては見向きもしなかった
三笠書房の知的生き方文庫にお世話になることが多くなった。

古本で結構、衝動的に買い込んでいる。
最近はグーグルやパソコン関係の本ばかり4冊ほど買って読んだ。


そこで、前から時々紹介しているグーグルのコンピュータシステムについての
考え方がまとめられていました。


グーグルが大量の情報を高速で検索するシステムで使用しているコンピュータは、
決して高度なスーパーコンピュータを使用しているわけではない。

台数は非公開らしいが、メインのコンピュータだけで
世界中で10万台以上にのぼると言われている。
バックアップ用のコンピュータを加えたらその何倍にもなるはずだ。


「グーグルは創業当初から一貫して、大型コンピュータを導入することなく、パソコン並みのコンピュータを使いつづけてきたのだ。なぜか。

そのメリットは、大きく分けて四つある。
第一のメリットは、多数のユーザーから一度に検索の要求がきても、処理能力が落ちないということだ。
対応する台数が多いので負荷がかかっても、その負荷を分散できるということである。他社の検索エンジンのように、少数の大型コンピュータを使った場合、強い負荷がかかると検索スピードが落ちてしまうのだ。

第二のメリットは、小型コンピュータなら情報量の増加に合わせて、手軽に増設できるという点だ。今後、ますます情報量は増加すると予想されるが、グーグルの方式ならば、情報量増加のカーブに応じて、一台ずつコンピュータを増設すればいい。
ところが、大型コンピュータの場合は、そうはいかない。安価なものではないため、処理能力の限界まで待ったうえで増設という手順になるだろう。増設直前の状態では、処理能力はかなり落ちてしまう。

第三のメリットは、ハードディスクやコンピュータ本体の交換が簡単だという点。
その部分だけ取り替えることにより、全体への影響は少なくてすむ。バックアップをとりながら進めているので、システムを止めずに処理ができる。

第四のメリットは、データを分散することで災害に強くなるということだ。」
 
             二村高史著『グーグルのすごい考え方』三笠書房


        

次第に、政治も、経済も、文化も
この方向に向っている。





つまり、
わかりやすくまとめると

家族のしがらみなんてとらわれずに
子供は、あちこちに
たくさんつくっておいたほうがいいってことだ。


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最近の出版統計から

2008年04月24日 | 出版業界とデジタル社会
内部の打ち合わせ用に、出版科学研究所の統計資料をみていて、
あらためて衰退産業である書店業界の暗い将来像と、
うちのような小さい店の明るい未来像を浮き彫りに感じることができました。

ここ20年ほどの業界全体のおおまかな数字の推移を見ると
1995,96年頃をピークに、全ての分野の統計データが落ちています。

雑誌・書籍トータルの推定販売金額では、
1986年 17,968億円から伸び続け
1996年の26,563億円をピークに、以後下がり続けて
2006年には 21,525億円にまで、約20%ダウンしている。

とりわけ、市場全体の半分以上を占める雑誌の落ち込みは激しい。
週刊誌にいたってはピーク年の63%にまで落ちています。

実際の販売額以上に、広告収入が、不特定の読者を対象としたペーパー雑誌から、
ピンポイントで広告を届けられるネット市場へ急速に移行していることにより、
今後更に低下の勢いを加速することが予想されます。

昨年あたりからしきりに、百貨店、スーパーを含め
リアルの小売市場が、これから10年以内に
ピーク時の半分程度にまでなると、業界識者が言っていたことを、
多くの人には脅しめいた過激な発言としか聞こえていなかったようだが、
この数字をみても決してオーバーな表現でなくなっていることがわかる。

そんな時代に、今世の中全体は、大型店化を競い合っている。
かつての中心域であった100坪クラスは、ほとんど競争力は無くなり、
いまや300坪以上でないと、版元、取次ぎから相手にしてもらえない時代になってしまいました。

ありがたい。

これから10年のうちに、これらの店がどんどん苦しくなり、
今流行の巨大ショッピングセンターといえども、2番手、3番手になってしまったところは
すべてゴーストタウンと化すことが、もう見え出している。

膨大な在庫をかかえるビジネスはすでに終わっている。
かといって本は現物がなければやっていけない、という面はあるものの、
現物を持っていても情報を管理できていない店は、持っていないに等しいということです。

これまでの10年、ほとんどの店が、積極的な増床や改装を行なわない限り
売上げは落ち続けています。
それはあの勢いのあったコンビニ業界ですらいえることです。

今後10年、運良く景気が上向くようなことがあっても、
既存の業態で売上げがあがるようなことは決してないと思います。

うちのような小さな店が、下の方からチビチビと売上げを伸ばしているあいだに、
上の方が勝手にどんどん落っこちてくる、
そんな構図が見えています。

でも悲しいかな、小さいということは
ちょっとした横風が吹いただけで吹き飛んでしまう危険を常に持っているので何も楽観できないが、
世の中の流れは嬉しい方向に向ってくれている。

しかも!
うちみたいな立地の悪いところで商売していれば、
大きな競合が来る心配もない、ときた。

ありがたや
ありがたや。

この話、ないしょにしておいてね。




     
       正林堂店長の雑記帖 2007/10/27(土) より転載
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著作物の占有権と利用権

2008年04月23日 | 出版業界とデジタル社会
このところ最大大手SNSであるmixiの利用規約 第18条をめぐって
多くの利用者からmixiへの不審へつながる議論が沸騰しています。

私の知り合いのなかでも、WEB上の情報発信に熱心な人ほど
このことへの憤りは強いようです。

mixi側はいろいろな誤解をうんでいることの弁明をしてますが、
この条文の表現が残る限り、誤解は避けられないだけでなく、
やはりこちらが防衛策をとらざるをえなくなる。


mixi利用規約
第18条 日記等の情報の使用許諾等
1 本サービスを利用してユーザーが日記等の情報を投稿する場合には、ユーザーは弊社に対して、
当該日記等の情報を日本の国内外において無償かつ非独占的に使用する権利(複製、上映、公衆送信、
展示、頒布、翻訳、改変等を行うこと)を許諾するものとします。




ただ、こうした論議のとき、いつもぶつかる問題なのですが
「著作権」という現状の権利そのものについては、多くの誤解があるので
議論がどうしても混乱してしまうようにみえてしまいます。

著作権を問う場合、私の考える大前提があります。

誤解を畏れずに言えば、それは
「情報そのものは、本来タダ(無料)である」
ということです。

情報そのものは、本来は人類の公共財であって
アマゾンやグーグルが目指しているように
世界中のあらゆる人びとが、所得や身分(さらには言語によっても)
制約されることなく利用できることがまず基本とされるべきであると思います。

しかし、現状の著作権はそのような考え方は前提とされていません。

わたしもうまく整理できないのですが、
本来無料の公共財であるべき情報は、現状では
それが独占、秘匿されることによってのみお金を取ることができる。
このことを最大命題にしています。

このお金を取るための「独占権」、「秘匿権」を著作権として保護しているのであって
知的情報だからといって、それは必ずしも知的財産の情報価値を表現しているものではないということを忘れないでほしい。

この辺の問題を私はきちんと説明する能力はありません。
しかし、
独占・秘匿ということは、
情報そのものの公共性という本質と相反するものです。

以前、このことは書いたことがあるのですが
(どこに書いたかみつからない)
出版界で著作権を声高に主張しているのは
主にベストセラー作家が中心です。

彼らにとって、何万部の著作によって得られる収入源が減ることは
大きな打撃になることが間違いないからです。

しかし、その隣で、多くの無名作家たちは
タダ(無料)でもいいから、
より多くの人に自分の作品を読んでもらいたい
と思っています(もちろんすべてではありませんが)

こうした違いが出てくる原因に
私はやはり「著作権」というものが
「情報の価値」に対して支払われる代価=権利ではなく
その情報の独占=占有権に対して払われる権利であるということがあるのだと思います。
つまり、独占、秘匿したものの公開度のカウント収入が基本だということです。

したがって、カウント数にこだわる著作活動ほど収入につながり、
量よりも質にこだわる創作活動は、必然的に収入にはつながらない。

情報の価値に対して払われるのであれば、
それは、利用する個人によってその評価はバラバラであるので、
その価値を感じる側によって代価は決められるべきものです。
著作権はこのところには関与していません。

著作権とは、そもそもそうした性格のものではないからです。

しかし、
これまでは、売り手側の製造コストのみによってものの価値は決定されてきましたが、
これからは、それを無視することはできないものの、
圧倒的部分は利用者側の価値判断が優先する時代になってきています。

このことは私のホームページのなかで、まだまとまりきれていない文ですが
「質」は「量」によってしか表現しえないのだろうか
http://kamituke.hp.infoseek.co.jp/page128.html
という文でもう少し詳しく問いかけています。

この点について詳しくはまた改めて書きたいと思います。

このことと、もうひとつ
無料であるべき情報の使い方で
たとえ無料で提供されるべき公共財であっても
その情報の所有権はきちんと保護されるべきだということです。

特定の個人の所有する情報を
無料で利用する権利と
有料で利用する権利に分けるしくみが
もっと原理上から明確にする必要があるのではないかと思います。

たとえ無料の情報であっても
ネット上でリンク、引用元をきちんと銘記するマナーがあるように
有料化の道を選ばなくても
その情報の所有権の所在は明記されることが基本であると思います。

その所有権が、複数の人の手を経ている情報であると
どこに所有権が存在しているのかといったことは、
今回のmixiでの問題だけでなく、公共性の高いプラットホームを個人が利用する場合、
これからさらに難しい問題が出てくるとは思います。

経済的利害に先行されない、個人の知的所有権というものが
とても大事になってくる時代なので、
もっともっとこのことは活発に議論すべき大事な問題ではないでしょうか。



現状では、知的財産、著作権や特許などを個人が所有していても、
その権利を守り抜くことがとても難しいために
個人は企業などにそれを売り渡してしまった方が楽である場合が多いということも聞きます。

現行の著作権法は著作者個人の権利保護より、
組織・団体がそれを利用して利益を上げることを目的に制定されているとしか思えない。




最低限として著作権の帰属は作者本人のみとして
譲渡・相続は認めず一代限り、組織・団体などによる所有は禁止にして
権利代行のみに限定して欲しいと思う。
共産国中国が著作権の存在を認めてしまったのは返す返すも残念な出来事だった。
(私のあるmixiの知り合いはこんな意見を書いてくれました )




情報の所有という概念については、既に次の時代がはじまっているのです。

出来る限りオープンな、情報の「利用権」といった考えに
世の中もシフトしていかなければならないのではないでしょうか。

土地、お金、情報などの問題に共通した大変化が
これから10年以内に起こる予感がします。

また著作権法は5年以内に抜本的な考え方を変えないと
現実の問題に対応できなくなるような気がしてなりません。



ちょっと最低限のことだけ、
メモがわりに記しておきます。


  正林堂店長の雑記帖 2008/3/13(木) より転載
コメント
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