かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

誤解された岡倉天心の思想

2014年07月20日 | 歴史、過去の語り方

1903年、日本が大陸へ徐々に手を伸ばしはじめていた頃、岡倉天心が『東洋の理想』の冒頭で、「アジアは一つである」といったことが多くの誤解を生みました。


しかし、天心の真意は、以下の言葉のなかにこそあると思います。

 

「西洋人は、日本が平和のおだやかな技芸にふけっていたとき、野蛮国とみなしていたものである。

だが、日本が満州の戦場で大殺戮を犯しはじめて以来、文明国と呼んでいる。

・・・もしもわが国が文明国となるために、身の毛もよだつ戦争の光栄に拠らなければならないとしたら、われわれは喜んで野蛮人でいよう。

われわれの技芸と理想にふさわしい尊敬がはらわれる時まで喜んで待とう。」

 

いま読むと、なんとすばらしい予言の言葉でしょう。

いまだに「文明国」となるために必死の安倍内閣。

 

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未だ米のなる木を知らず

2014年04月03日 | 歴史、過去の語り方

鈴木牧之の『秋山紀行』のなかには、
深く閉ざされた山奥で暮らす人びとの、
おれは未だ米のなる木をみたことがない、
といったような縄文時代さながらの暮らしが描かれています。

「米のなる木をみたことがない」という表現は、
こうした山奥の暮らしを象徴する言葉と思っていました。

ところが森崎和江『奈落の神々・炭坑労働精神史』(平凡社ライブラリー)のなかに、

「わたしゃ備前の岡山育ち 
 米のなる木はまだ知らぬ」

という唄のことが紹介されていました。

これは子を孕んだ女が監獄に入ってそこで子を産んだ、
その子は監獄で成長したから米をみたことがない、
ということを唄ったものだそうです。

はたして、どちらが先なのか。


しかし、この言葉の生まれる背景から考えると、それは重要な問題ではない。

米を見たことが無い
米を食えない、
ということがどういうことなのか、

その現実を森崎和江『奈落の神々・炭坑労働精神史』は、
さらに深く見事に描いています。

 

それは明治から昭和初期にかけての日本の姿ですが、
小作農の多くは米が食べられないばかりか、
麦飯すら容易には食べられない生活をしていました。

二毛作が可能な温暖な高知ですら、
農民はトウモロコシをすり潰したものを食べていた。

いや、日本中、多くの農民は稗、粟、雑穀を日常食にしていた。

そうした貧しい農民が炭坑に働きにくると、
ぷーんと米炊く匂いが流れてくる。
それが、胸にずうんときた。という。

落盤や爆発事故などで多くの命が消えて行く危険な仕事でありながら、
そこでは米が食えるということがどれだけ得難い喜びであったか。

かつての貧農史観の多くは見直されて来ている現代ですが、
こうした厳しい現実が日本各地にあったことも事実です。

 

現代から振り返ると、なぜそれほど過酷な環境下から逃れることなく、

人々はその土地で暮らしていたのか疑問に思えることが多いものですが、

多くの場合は、それ以上過酷な環境からそこに逃れてきた人たち、

以前の場所には戻ることのできない事情をかかえた人たち、

その場から逃れる自由を持ち得ない人たちなど、

様々な「そうすることしか出来ない」人びとであったことが見えてきます。

 

 

他方、現代では残念ながら、

いつでも腹一杯お米を食することのできる都会人が、


その米がどのようにして作られているのか知らない喩えのように


「いまだ私は米のなる木をみたことがない」と


使われだしている悲しい現実があります。

 

日本のお米も、いつになってもなかなか報われず、苦労しますね。

 

 

 

蛇足だながら、「米」の字源は以下の解釈が正当なのでしょうが、

http://gogolesson.jugem.jp/?eid=41

この話の流れだと「木」という字の上に点々がついて出来た字に思えてくる。

 

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昭和の時代区分(メモ)

2014年01月23日 | 歴史、過去の語り方

 

「昭和ラヂオ」で昭和についていろいろ話すようになったけれど、
毎度、テーマの選定には苦慮をしています。

 

ひと口に昭和といっても、あまりにも様々な異なる時代を包摂しているからです。

 

そこで、大まかな時代区分と節目の出来事をメモしておきます。

項目の優先順位は、まったく主観的な印象によるものです。

 

 

1、大戦に至る不穏な時代       人口およそ6千万人

   1923(大正12)年 関東大震災

   1930(昭和5)年 昭和恐慌  (自殺者1万5千人)

   1932(昭和7)年 『のらくろ上等兵』島崎藤村『夜明け前』

   1936(昭和11)年 二・二六事件  吉川英治『宮本武蔵』

   1937(昭和12)年 日中戦争開始

   1938(昭和13)年 火野葦平『麦と兵隊』M・ミッチェル『風と共に去りぬ』

   1941(昭和16)年 治安維持法、真珠湾攻撃 三木清『人生論ノート』

2、太平洋戦争~敗戦

   1942(昭和17)年 食料管理法

   1943(昭和18)年 ガダルカナル島撤退

   1944(昭和19)年 東京へ初めての空爆

3、敗戦、焼け野原、占領下、復興

   1945(昭和20)年 ポツダム宣言受諾 農地改革  

             8月敗戦の翌月9月15日発売『日米会話手帳』3ヶ月余りで360万部

   1946(昭和21)年 労働攻勢  サルトル『嘔吐』

   1947(昭和22)年 二・一ゼネスト中止 日本国憲法公布

   1948(昭和23)年 帝銀事件 東京裁判 A級戦犯25被告に有罪判決

   1949(昭和24)年 下山・三鷹・松川事件 1$=360円 湯川博士ノーベル物理学賞 

   1950(昭和25)年 朝鮮戦争 谷崎『細雪』ローレンス『チャタレー夫人の恋人』

   1951(昭和26)年 サンフランシスコ講和条約、旧安保条約調印、マッカーサー解任

   1954(昭和29)年 ビキニ水爆実験 菊田一夫『君の名は』

   1955(昭和30)年 55年体制 神武景気 三種の神器(テレビ、洗濯機、冷蔵庫)

   1956(昭和31)年 日ソ国交回復 国連加盟

   1957(昭和32)年 ソ連人工衛星打上げ成功 深沢七郎『楢山節考』

   1958(昭和33)年 五味川純平『人間の条件』井上靖『氷壁』 

 

4、成長期

   1959(昭和34)年 皇太子婚礼  (かみつけ岩坊誕生)

       1954(昭和29)年~1973(昭和48)年 高度経済成長

          まだ日本製品も、安かろう悪かろうの時代  団地族

         1954(昭和29)年~1961(昭和36)年 設備投資主導の時代

         1962(昭和37)年~1965(昭和40)年 転換期

         1965(昭和40)年~1973(昭和48)年 輸出・財政主導型 

                             GNP世界第2位に

      60年安保   巨人・大鵬・卵焼き

   1961(昭和36)年 松本清張『砂の器』 小田実『何でも見てやろう』

   1963(昭和38)年 日本初の原子力発電 ケネディ暗殺

   1964(昭和39)年 東海道新幹線開通、東京オリンピック

   1965(昭和40)年 赤字国債発行開始 ジョンソン北爆指令(ベトネム戦争)

   1967(昭和42)年 美濃部東京都知事 小笠原諸島返還 第3次中東戦争

   1968(昭和43)年 三億円事件、ベトナム反戦運動

   1969(昭和44)年 東大安田講堂事件 水俣病、四日市ぜんそく、エコノミックアニマル

      拡大する需要にエネルギー資源が国内供給の拡大では追いつかない不安拡大

          人口 1億人突破

      70年安保

   1970(昭和45)年 大阪万博 光化学スモッグ 三島由紀夫自殺 高田好胤『心』『道』

   1971(昭和46)年 ドルショック I・ベンダサン『日本人とユダヤ人』

   1972(昭和47)年 札幌オリンピック あさま山荘事件 日中国交回復 沖縄返還 

             有吉佐和子『恍惚の人』田中角栄『日本列島改造論

   1973(昭和48)年 第一次オイルショック 小松左京『日本沈没』

   1975(昭和50)年 ベトナム戦争終結 有吉佐和子『複合汚染』

   1976(昭和51)年 ロッキード事件 村上龍『限りなく透明に近いブルー』

   1978(昭和52)年 日中平和友好条約 イラン・イスラム革命 第2次石油ショック

   1979(昭和53)年 サッチャー政権発足 スリーマイル島原発事故

   1980(昭和54)年 イラン・イラク戦争 光州事件 山口百恵『蒼い時』

   1981(昭和56)年 黒柳徹子『窓ぎわのトットちゃん』田中康夫『なんとなくクリスタル』

   1982(昭和57)年 ホテル・ニュージャパン火災 フォークランド紛争

             森村誠一『悪魔の飽食』鈴木健二『気くばりのすすめ』

   1983(昭和58)年 土光改革と官業民営化 東京ディズニーランド開園 大韓航空機撃墜事件

     1979(昭和54)年~1985(昭和60)年 技術主導型イノベーションの時代

     サラ金地獄、家庭内暴力、カラオケ、インベーダーゲーム

 

5、バブル期  1986(昭和61)年~1991(平成3)年

   

   1985(昭和60)年 筑波万博 日本航空123便墜落事故 プラザ合意 ウインドウズ

   1986(昭和61)年 チェルノブイリ原発事故 スペースシャトル「チャレンジャー」爆発

   1987(昭和62)年 国鉄分割民営化 日米半導体摩擦 俵万智『サラダ記念日』

   1988(昭和63)年 リクルート疑惑 村上春樹『ノルウェイの森』

   1989(昭和64)年 昭和天皇逝去 消費税スタート 天安門事件 ベルリンの壁崩壊

   1990(平成2)年 バブル崩壊 イラク・クエートへ侵入 東西ドイツ統一

 

 

 

   1995年 阪神淡路大震災 地下鉄サリン事件

  (1996年 経済統計数値のピーク 右肩下がりへの転換点)

 

ふりかえって見れば、今でこそ日本製品は高品質で信頼性が高いなどと言われますが、

今、中国製品に対して騒がれているような国際市場で粗悪品と言われるような商品は、

昭和30年代までは日本が言われていたことです。

北朝鮮の信じがたい国内統制や国際社会からの孤立は、昭和10年代の日本の姿でもある。

 

昨日の自分の姿を忘れて、安易に他人を批判するよりも、

自分が経験したこと、それをどう乗りこえ解決したのか、

または未だに解決できないのかをしっかりと見据えることが大事ですね。

 

また、世の中の変化のスピードがどんどん早くなっているような気はしますが、

戦前・戦中・戦後の30年、

焼け野原、復興、高度経済成長、バブルとその崩壊、

いつの時代でも10年もたてば、まったく違う時代の中に生きていることを痛感させられます。

 

「昭和ラヂオ」への出演させていただくことで、とてもいい勉強ができました。

 

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當麻寺 梅原猛に学ぶ世阿弥の世界(ノート)

2013年12月13日 | 歴史、過去の語り方

2013年5月に行った当麻寺、高野山、斑鳩の里の雑感は以前書きました。

http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/ecec0200b5904f93c63e75178042a321

そこでは当麻寺についてはほとんど詳しく触れなかったので、ここにおさえておきたい資料と

梅原猛の世阿弥観にでてくる「当麻」の関連事項を、ちょっと面倒な引用が続きますが、

大事なところなので書き記しておきます。

 

 

『当麻曼荼羅縁起』 二巻本 鎌倉市光明寺蔵

 

一、「大炊天皇(淳仁天皇)」の御代、「よこはきのおとと」という人の姫、

  深く仏の道を尋ね、仏法の悟りを求む。

  それで「称讃浄土教」一千巻を書いて当麻寺に納める。

二、姫、出家。天平宝字七年(七六三)六月十五日のことである。

  そして生身の阿弥陀如来を拝したいと切に願うが、六月二十日、一人の老尼(化尼)が現れて、

  それならば、その御姿をお見せしよう、と言い、まず蓮の茎百駄を集めよと言う。

  姫は忍海連(おしぬみのむらじ)に命じて近江国からそれを集めさせる。

  老尼はその蓮の茎をたちまち糸とする。

三、初めて井戸を掘る。すると水が満ち、そこへ糸を浸すと糸は五色に染まった。奇瑞である。

  またこの地の奇瑞といえば、天智天皇の御代、井戸のほとりに、夜な夜な光を放つ石あり。

  その石の形、仏に見える。刻すると弥勒三尊であった。

  それで精舎一堂を建立、糸を染めた井戸の奇瑞によって、寺の名を「そめ(染)寺」とした。

  またそこにはかつて役行者が植えた一本の桜があった。

  その桜は霊木であったが、世々を経て朽木となった。

  しかしその霊験は残って種を残して花を咲かせる。

四、四月二十三日、若い女(化女)がやって来た。天女の如く美しい。

  この女は、灯火や織機を要求した。

  そして戌の時(午後七時)より始まり寅の時(午前三時)までのたった八時間で、

  縦横一丈五尺の曼荼羅を織り上げると、たちまちに、五色の雲に乗って去って行った。

五、そこには「九品浄土」の有様が見事に描かれていた。

  姫は、老尼に「あなたはいったい誰ですか」と喜びの涙を流しつつ聞く。

  老尼は、「我こそは西方極楽の教主(即ち阿弥陀如来)と言い、曼荼羅を織った織姫は、

  私の弟子の観音菩薩である」と言う。

  そして姫の涙もかわかぬうちに老尼も姿を消す。

六、それから十三年後、光仁天皇の御代、宝亀六年(七七五)三月十四日、姫往生す。

  そして姫を迎えに現れた二十五菩薩が、歌舞を披露しながら、姫を「極楽」へ連れてゆく。

 

これが「当麻寺建立縁起」の大まかなストーリーである。神仏の申し子である姫が、

念仏に依って往生したという奇瑞が哀しく美しく描かれている。

             (以上、梅原猛『世阿弥の神秘』角川学芸出版より)

 

 

「当麻」も「西行桜」と同じく甚だ花やかな美しい曲であるが、

    「西行桜」よりはるかに宗教性が深い。

「西行桜」を美の夢物語とすれば、「当麻」は美と宗教が一体となった夢物語と言えよう。

                                     梅原猛

 

 

役行者この仏庭に、末代の法苗のため一本の桜樹をうへられたり。

人みな霊木といへり。花のいろ芬ぷくせり。

そののちおほくのよよをへて、かけのくちきとなれり。

しかれともそのたねおひかはりて、はるやむかしのいろをのこせり。

かの霊地にあひあたりて、この井をもほられたるにや。

         (光明寺本『当麻曼荼羅縁起』)

 

ワキ 〽げにありがたき人の言葉、即ちこれこそ弥陀一教なれ

   「さてまたこれなる花桜、常の色には変わりつつ、

    これもゆえある宝樹と見えたり

ツレ 〽げによく御覧じ分けられたり、あれこそ蓮の糸を染めて

シテ 「懸けて乾されし桜木の、花も心のあるゆえに

   〽蓮の色に咲くとも言えり

ワキ 〽なかなかなるべしもとよりも、草木国土成仏の、色香に染める花心の

シテ 〽法(のり)の潤ひ種添へて

ワキ 〽濁りに染まぬ蓮の糸を

シテ 〽濯(すす)ぎて清めし人の心の

ワキ 〽迷ひを乾すは

シテ 〽ひざくらの

地  〽色はえて、懸けし蓮(はちす)のいとざくら、懸けし蓮のいとざくら、

    花の錦の経緯(たてぬき)に、雲のたえまに晴れ曇る、

    雪も緑も紅も、ただひと声の誘はんや、

    西吹く秋の風ならん、西吹く秋の風ならん

 

 

                 梅原猛『世阿弥の神秘』角川学芸出版

梅原猛のうつぼ舟シリーズ。

この『世阿弥の神秘』は、秦河勝をめぐる『うつぼ舟、翁と河勝』『うつぼ舟 観阿弥と正成』ほどのダイナミックな論理展開はないけれど、読んで良かった。

これまでの能楽の専門家たちが語ってこなかった世界。

お能についての専門書を何十冊読むよりも、このシリーズを読む方がずっと広く深く理解できる。

 

 

 

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遠い日の戦争

2013年08月15日 | 歴史、過去の語り方

今日は終戦記念日でした。

また黙っているわけにはいかないので、思うところをつらつらと書いてみます。

 

70代以上の年寄りでなければ、もう太平洋戦争の現実を体験した人はいない時代になりました。

にもかかわらず、「戦後」はまだ終わっていない、と言われます。

それは、主に以下のふたつの理由によるのではないかと思います。 

ひとつは、あの戦争そのものが何であったのかという「総括」がきちんとできていないことによるもの。

 もうひとつは、敗戦後の「占領下」という特殊環境でつくられた戦後日本の姿が、そのまま現代にまで引き継がれ、未だに独立国としての実態を持ち得ていないということによるもの。

 

 

「戦争」という事実そのものは、まぎれもなく悲惨で憎むべき出来事ですが、いつの時代でも、その紛れもないかの事実そのものは、その時々の人の感情に大きく左右され、変わりゆくものです。

 生々しい記憶が薄れれば、感情に左右されず冷静な判断ができるのではと期待したいところですが、歴史は必ずしもそうではありません。

 

 以下の二つの本は、BC級戦犯をとりあげたもので、敗戦直後か否か、生々しい記憶の大きな憎しみが背景に色濃くあるかどうかで、「客観」的判断が大きく変わる姿を描いています。

 

 

ながい旅

  大岡昇平 著
  新潮社(1982/05)  定価1,200円
  新潮文庫(1986/07)  角川文庫(2007/12) 定価 本体590+税


 B級戦犯として起訴された東海軍司令官、岡田資(たすく)中将は、自らの指揮下において、米軍の爆撃機B29搭乗員を処刑したことの罪を問われるが、それら搭乗員は国際法上の捕虜ではなく、日本の非戦闘員を意図的、計画的に無差別爆撃した戦争犯罪人であり、現場ではその判断の上で処刑をおこなったとし、当時裁かれる一方の日本側の立場のなかで、米側の戦争犯罪をひとり追及する戦いをはじる。なおかつ、米搭乗員を処刑した責任は指揮官たる自分にすべてあると、部下の生命を救うための戦いもおこない、スガモ・プリズンで信念を貫き通す。

 

 

遠い日の戦争
 吉村 昭 著
  新潮文庫(1984/07) 定価438円+税 

 敗戦後、軍人はA級戦犯、BC級戦犯などの運命をたどるが、十分な裁判などを受けないBC級戦犯ほどそれはしばしば、あやふやな証言、敗戦時にいた環境や地域、またはつかまった時期によって大きく左右される運命にあった。
 終戦の詔勅が下った昭和20年8月15日、福岡の西部軍司令部の防空情報主任・清原琢也は、米兵捕虜を処刑した。それは無差別空襲により家族を失った日本人すべての意志の代行であると彼には思えた。
 しかし、敗戦とともに連合国軍の軍事裁判を回避するために清原琢也は、長い逃亡生活の道を選ぶ。
 敗戦時の戦犯裁判の姿を知る作品としても一級の作品。

 また著者は、この主人公の目を通じて、同時期におきた九州大学医学部による捕虜の実検手術(一種の処刑)についてもふれています。





誰もが、あんな戦争は二度と起こしてはならないと思っていたはずですが、アメリカのイラク侵攻に反対出来ない人が多かったように、日本が戦争をしないという保証は、残念ながら今、わたしたちの手元にはありません。

東日本大震災と原発事故が起きたとき、それまでクリーンなエネルギーとして原発も必要であると言っていた人の多くも、脱原発への道を選択したかに見えましたが、いつのまにか再稼働もやむなしの声がジワジワと広がってきています。


いついかなる時代でも、意見は分かれるものです。

それは間違いないと思いますが、では、私たちができる「選択」とは何でしょう。

わたしは、いつもこのことを考えます。


止めることが出来ない戦争が起きてしまう。

やめることが出来ない原発、どうしてやめることができないのか。


今回の選挙結果をみても、「平和」や「安全」が、

なにか「遠い日」の戦争かのごとく手の届かないところに行ってしまうような不安にかられます。

自分の目の前に起きている現実に対する、自らの「選択」が、どうしてかくも「無力」に見えてしまうのでしょうか。


今の政治家たちの勉強不足や責任感のなさを責めることは簡単です。

でも、それは国や政治の問題である以上に、止められない現実を冷静にみると

目の前の仕事や職場で日々起きている現実を、

変えられない、

やめられない

ひとりひとりの「選択」の積み重ねであることがよくわかります。


 

どこへ行っても、

 

話の通じない人、

言ってもわからない人、

 自分とはまったく違う価値観の人、

 どう転んでもやる気の出ない人、

     ・・・・などなど

自分のコントロールの及ぶ範囲外の人は必ずいます。



常に「背に腹はかえられない」という判断の積み重ねの結果で起きている重大な結末も周りにはあふれています。


まだ作成途上ですが「かみつけの国 本のテーマ館」のなかの「仕事は楽しいかね」のページは

下記の言葉の引用を軸に組み立てています。



「スタグフレーションという言葉を僕が考え出したのは、この言葉ができるまでずっと、経済学者たちが、
インフレと景気停滞とは同時には存在しないと主張し続けていたからだ。

起きるのはインフレか景気停滞のどちらかであって、両方がいっぺんに起きることはない、とね。

 だけどきみの話から、この国の経済が新たな双子の要素を生みだしたことがわかった。

今度の双子は社員レベルで生まれている。
"退屈"と"不安"という双子だ。

きみは、この二つは、同時には生じないと思うだろう。
 だけど、違う。

 

 人々は、したくもない仕事をし、
同時にそれを失うことを恐れているんだ」

 

「仕事は楽しいかね」http://kamituke.web.fc2.com/page141.html 

 

 

自分の納得のできない現実に直面したとき、

誰もが、本来はそれを変える「権利」や「権限」、

たとえそうした権利や権限が十分ない状態であっても、

 そこから「抜け出す」、あるいは「逃げ出す」権利や権限を持っているはずです。

 

しかし、戦時統制下になったら、とても怖くてそんなこと容易にはできない環境になってしまうでしょう。

確かにそうです。歴史はそうでした。

 

でも、今の日本は、戦時統制下にあるのですか?

 もしかしたら、今も戦時統制が行われているのではないかと思うようなマスコミの情報も確かにあります。

 

 だからといって、「私」や「あなた」が勇気をもって「選択」することを妨げるものはそれほど強固なものではありません。

 

「戦争」の問題、「原発」の問題を

今の自分の仕事(職場)の選択の問題に引き下げて考えれば、

決して「遠い日の戦争」の話でも、手の届かない「原発」問題でもないことに気づくと思います。

 

自分が勇気を持って世間の相場判断ではなく、自らの意思で「選択」できるかどうかにこそ、

ほんとうの答えが常に自分の目の前にあるのだという実感を感じることができるかどうかの分かれ目なのではないでしょうか。

 

確かにこれは誰もがすぐにできる容易なことではありません。

でも、自分のその一歩を抜きにして、国や政治家の無能さを責めてばかりいてもしょうがないような気がしてなりません。

 

また、「意思」と「選択」は、「コツコツ」と積み重ねる「真面目な努力」だけでは絶対に出来ません。

それは、強い意志を持つことよりも、

もっと「面白く生きる」選択をすることの方が、間違いがなく、かつ近道のような気もするのですが。

 

 

 


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対米従属をのぞむ人びと (加筆)

2013年05月23日 | 歴史、過去の語り方

 

今回取り上げる本は全国的によく売れている本ですが、タイトルだけからはなにが評価されて売れているのかはわからないまま、売れる本だからとりあえず必要な数は仕入れておくというレベルのものでした。

こうしたことは、お恥ずかしながら本屋ではよくあることです。

ところが、本書は自分で読んでみてはじめて、売れる理由を知り、もっと目立つ置き方をしていなかったことをとても後悔させられた本です。

孫崎享『戦後史の正体 1945-2012』創元社

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4422300512/ref=as_li_qf_sp_asin_il_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4422300512&linkCode=as2&tag=kamituke-22

 

本書を通じて、かつては保守政党のなかにも、自主独立路線、アメリカに偏らない外交や経済を目指した首相や官僚などが数多くいたこと。にもかかわらず、その後の大平、中曽根、小泉と続く首相の系譜を通じて、対米追随の流れが「日米同盟」の名のもとにかつてないほどに不動の軸になってきてしまったことを知りました。

日本が太平洋戦争に負けて占領下にあった時代や、米ソ冷戦時代に西側に組していた時ならばまだわかります。

でも今は日本の輸出相手国の比率が、2010年時点で、米国15.3%、TPPの対象でない東アジアが39.8%(中国19.4%、韓国8.1%、台湾6.8%、香港5.5%)という時代です。

他の国々を敵にまわしてまでアメリカのみに肩入れするメリットが、いったいどこにあるのでしょうか。もちろん、アメリカと縁を切るべきだなどと言っているのではありません。

日本の国力からしたら、国連の常任理事国入りを目指すのは当然かのような世論もありますが、世界の多くの国々からはアメリカの票が一票増えるだけのことが見えみえの日本の常任理事国入りなど、多くの国々にとって応援する理由がありません。

しかし、にもかかわらず日本国内では、安保条約、「日米同盟」を否定するような発言をしたら、現実をなにもわかっていないと攻められ、どこでも一蹴されることが多いのです。

 TPP論議、普天間基地の移転問題やオスプレイ配備の問題、あるいは原発の再稼働問題も含めて、日米同盟を不動の柱に位置づけて論陣をはる人びとは、政治、経済の領域のみならず、マスコミにおいても現実論として圧倒的主流を占めています。

しかし、本書を通じて、アメリカの意向そのものが時代によって大きく変わること。それは敗戦後の占領下の統治政策から朝鮮戦争勃発後の転換のように、180度反転することすらありうることがよくわかります。

孫崎氏は、アメリカの戦略の真意がどこにあるのかを知らずに、ただ親米路線に走ることがいかに日本の国益をそこねることになるのかを、丹念に外交文書や法律条文を示しながら解説してくれています。

なかでも、敗戦直後の占領下の政策をそのまま戦後政治の流れとしてしまった吉田茂の功罪にかんする記述。安保反対運動の目の敵とされていた岸信介が、安保反対勢力によってよりも、保守派内部の反自主独立派によって引きずり下ろされたこと。安保闘争そのものが、一面では政権内の岸信介おろしを望む勢力によって利用され現実に支援もされていたことなど、戦後史の大きな結節点の見方を大きくかえる記述が随所にあふれています。

 

 http://www.youtube.com/watch?v=vIiWJdCFF3Q

 

上記の孫崎享の本に続いて「戦後再発見」双書の第2巻として出された

前泊博盛『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』創元社 も

単なる特定の事実暴露にとどまるようなものではなく、日米関係の根幹構造を解き明かしてくれるすばらしい内容のものでした。

日米同盟の真の実態については、2009年に孫崎享『日米同盟の正体』にわかりやすく書かれていますが、本書では普天間基地移転やオスプレイの強行配備などを軸に、日米構造が何によって決められているのか詳細にわたって解き明かしてくれています。

竹島や尖閣列島、あるいは北方領土問題なども含め、アメリカの世界戦略を軸に冷静に見るとマスコミで多く語られている事実も、いかに誤解だらけのものであるかがわかります。

日本国内の広大な土地、空域、海域が未だに戦後占領下と変わらない国権の及ばない領域として今も現存している日本の姿は、先進国どころか世界の独立国のなかでも異常な姿と言えます。

そんな実態から見れば、もう過去の人なのかもしれませんが、石原元東京都知事が対中国で弱腰に見える政府に替わって強硬なパフォーマンスを見せているかのようにみえても、首都であるだけでなく極度の人口密集地帯でもある東京周辺に、米軍の世界戦略の重要基地、横田、厚木、横須賀をおき、危険な低空飛行訓練があっても何も言えない姿は、茶番も甚だしい姿にみえます。

アメリカは決して日本を守るために基地をおいているのではない。それはある程度はわかってもらえることだと思います。

しかし、にもかかわらず、どうして日本の主権を放棄してまでかくもアメリカにすり寄る人がかくも多いのでしょうか。

この疑問は、この優れた2冊の本を読んでもまだ打ち消すことはできませんでしたが、歴史を語り日本のこれからの選択を考えるうえで、「戦後再発見」双書のこれからの続巻には、期待が高まるばかりです。 

 

http://www.youtube.com/watch?v=AoBW5pXrMBs

 

 

 

正林堂にて「お隣りの国とのつきあい方」フェア展開中。

出足なかなか好調です。

といっても、もっぱら孫崎享さんの本が引っ張ってくれてる感じですが。

 

 

 

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浅間山 信州vs上州 そして善光寺

2013年02月22日 | 歴史、過去の語り方

先週、上信越道を長野に向かって走っていたら、群馬県側から浅間山の白く光る美しいシルエットが見えました。 

県境を越え長野県佐久市や軽井沢周辺では、いっそう間近にその雄大な姿がみれます。 

ところが、上田をすぎると浅間の姿は近いにもかかわらず手前の山に隠れて見えなくなってしまいます。 

考えてみると、両県にまたがる浅間山でその多くは長野側に属しているといってもよいような山ですが、長野県側からその姿を見れる場所は意外と限られています。 

車の中で家内と、浅間山は噴火のたびに群馬側にばかり多大な被害をもたらしているから、せめてその美しい姿をみせることだけは、群馬県にサービスしてくれているのだろうなどと話していました。 


この写真は嬬恋・万座方面からみた浅間山 


ところが・・・ 
この信州と上州にまたがる浅間山、ふたつの土地の境界に位置することの因縁には、かなり深いものがあることを知りました。 

よく知られているのは、碓氷峠にある熊野神社が、群馬県側と長野県側それぞれが別に管理していてお賽銭箱も別々に投げ入れるようになっていること。 
なにか、お互いに相容れない事情があるのか? 

この神社のことはよくわかりませんが、どうも互いに相容れがたい事情がいろいろあるようなのです。 

まず、両県にとって大きな事件は、なんといっても天明の浅間山大噴火です。 
世界史的にみても、被害規模の大きかったこの噴火ですが、その被害はもっぱら群馬以東の地域にもたらしてます。 

これは単純に風向きによるとも言われますが、溶岩や火砕流の被害は、風向きとは関係ありません。 

このことを江戸時代の人々は、上野(こうずけ)信濃両国にまたがる浅間山でありながら、噴火による被害が信濃国に少なかったのは、戸隠権現と善光寺如来のおかげであると思った。 

そして善光寺信仰をさらに広めることにもつながった。 



さらに、信濃側でも軽井沢と追分、沓掛の中山道三宿だけが大きな被害にあった。 

この三宿は、いずれも遊女のいる町であったから被害にあったのだと。 

善光寺で正月七草の行事がある際、善光寺に行く途中でこの三宿に泊まった東国からの参詣者の中には、女郎たちにだまされて長逗留することになり、七草に参加せずに空しく帰国するものが多かった。 

このように、参詣の妨害をした罰として、三宿は大きな被害を被ったのであると。 


神様のご利益に関しては、さらにこの前段がある。 

それは噴火に数年さかのぼる天明元年のこと。 

このところ仏教の隆盛に比べると神の威光の衰えは、見るに見かねる状況がある。 
そこで、諏訪明神のもとに、上州、信州から赤城権現、榛名権現、妙義権現、浅間権現、戸隠権現などがあつまり会議が開かれた。 
この神の威光が衰えた原因は、ひとえに浅間権現がたびたび暴れることにあるのではないかとなった。神の威光の衰えの原因を、ひとり浅間権現の責任にされたのでは腹の虫がおさまらない。そこで我慢しきれず爆発したのが天明三年の大噴火であったらしい。 


この他にも、噴火の原因は田沼意次の悪政に対する天罰であるとか、いろいろな話があるようですが、どの話も単なる迷信と片付ける人が多いにもかかわらず、多くの人に受け入れ語り継がれるのは、物事には必ず「因果」というものがあるのだということと、その因果を知ることで人々に日頃の善行を促す効果があるといえます。 

なにも無理に信じる必要はないけれども、こうした話を語り継ぐことは、とても価値があるのではないかと思います。 

 

 

 

小西聖一/著 小泉澄夫/画

 『浅間山 歴史を飲みこむ 天明の大噴火 ものがたり日本歴史の事件簿8』  

           理論社   定価 1,260円

渡辺尚志    『浅間山大噴火』 吉川弘文館 定価 1,785円

 

関連サイト

  かみつけの国 本のテーマ館

   立松和平 『浅間』から天明の大噴火を考える  http://kamituke.web.fc2.com/page158.html

 

 

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近代産業遺産をどう活かすか? 富岡製糸場と足尾銅山

2012年09月29日 | 歴史、過去の語り方

富岡市へお仕事で通う機会を得て、何度か世界遺産登録を目指す富岡製糸場に足を運ぶことができました。

審査が厳しくなった世界遺産登録は、かなりハードルが高いもので、まだまだ現状を見る限り多くの課題を乗りこえていかなければならないと予想されますが、この機会に多くの人、モノ、お金が動くのでなんとか、良い方向に持って行ければと思います。

実のところ、私は世界遺産登録自体は、必ずしも良いこととは思っていません。

世界遺産に登録さえされれば、観光で地元が潤うかの幻想、何を伝えるべきなのか勘違いしたような事業に塗り固められるのは、なんとか避けたいものです。

しかし、そうした議論も含めて、自分たちの暮らす街をどのようにつくっていくのか、市民レベルで大きな議論の渦が巻き起こることは、とても良いことです。

地域の本屋がどのように生き残って行くのかも、まさにそうした課題のただ中でこそ展望が生まれてくるものと思います。

日本全国どこへ行っても瀕死状態ともいえる地域をどのように立て直すのかは、おそらく例外無く共通の課題であると思われますが、残念ながらハード中心の思考から抜け出した例は、極めて稀であるといえます。

予算がないから、人材がいないから、誇れるものがないから、ではなく
今あるもののなかにどれだけ魅力あるものがあるのか、それをどう発見し、表現して行くか、あるいは自分達の財産として磨き上げていくか、そんな運動を広げていけたらと思います。

まだ完成途上ですが、そんな魅力を本屋で発信するツールとしてスライドショーをつくってみました。

昨年、東北支援ツールとして遠野の原風景のスライドショーをつくりましたが、映像の評価にくらべて、他地域でのリアリティーにやや欠けるのか、身内の評価ばかりでいまひとつ広がりを見せませんでした。

そこで、今度はローカルの話題はローカルに徹するべきと、群馬向けの視点でまとめてみました。

まだ動画部分が三脚を使わないブレまくりの映像であったり、素材不足のためピンぼけ写真をそのままつかったりしてますが、徐々に撮り直して完成させる予定です。

安くなった32型テレビのサイズが調度、本屋の棚2段分なので、5万円相当の在庫を減らして、3万円程度の液晶画面の投資をする提案をしているのですが、まだまだ提案内容をブラッシュアップしていかなければなりません。


スライドショー 「富岡製糸場と荒船風穴の魅力」 #mce_temp_url#
 


それは、コンサルの提案頼みの行政活動ではなく、今、街で暮らすひとり一人の実態に即し、言葉を聞き、時間がかかっても自分たちの力で一歩一歩をすすめる環境づくりをはじめていくことに他なりません。

そんなことをなんとか伝えられたらと思ってつくったもので、下手をすると世界遺産登録を真剣に目指している人からは文句を言われかねない内容です。

地元では、同じ近代産業遺産といえる足尾銅山の場合は、富岡製糸場以上に廃墟しか残っていないところですが、こちらの場合は、かつてそこで働いた人びと、その町で暮らした人々が実に多くのことを語り伝えています。本もたくさん刊行されています。

それに比べて富岡製糸場の場合は、製糸場の概要を伝える文献は豊富にありながらも、そこで働いた人びと、ともに暮らした町の人びとの語ったものがほとんど見当たりません。

製糸場に隣接した片倉北通りの写真をいくつも載せてますが、この廃れた光景が、そこに暮らす人びとの生活が、どれだけ変わるかこそに、世界遺産登録を目指す運動の真価が現れるものと思います。

楽しい作業が、これから始まります。

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『北越雪譜』のなかに出てくる幽霊の毛塚

2012年09月16日 | 歴史、過去の語り方

記憶力は悪い私ですが、高校時代の国語の先生が、鈴木牧之の『北越雪譜』のなかの幽霊の話をしてくれたことを今も覚えています。

不思議と授業はなにも頭に入っていなくても、こうしたことだけはよく覚えているものです。

北越雪譜 (岩波文庫 黄 226-1)
鈴木 牧之
岩波書店

私は中学3年から高校3年までの4年間は、新潟県の六日町で過ごしていました。地元ゆかりの鈴木牧之のことは学校で多少のことは聞いていましたが、当時はそれほど興味を持てたわけではありませんでした。

ところが、天明の浅間山噴火から天明の飢饉、菅江真澄や同時代の良寛さんのこと、あるいは秋山郷などの山村の暮らしをたどっていくうちに、最近になって鈴木牧之がわたしにとって外すことのできない重要なキーパーソンになってきました。

そこであらためて手元にある1冊の『北越雪譜』を開いてみると、その本の現代語訳著者は、六日町中学校の田村賢一先生となっていました。残念ながらその先生の名前の記憶はないのですが、私が六日町中学校に1年だけいた時期には確かにその先生も在籍していたらしいのです。もしかしたら授業もしっかり受けていたのかもしれない。

私が六日町にいたころは、まだ今のように立派に整備された鈴木牧之記念館にはなっていなかったはずなので、仮に興味を持ってもその先のことはそれほどできていなかったかもしれません。

 

                             (上の写真の本は絶版です)

 

           ◆ ◆ ◆ 幽霊の見せ場部分 あらすじ ◆ ◆ ◆

 

あるお坊さんが、落ちて亡くなる人の多い橋のたもとで供養のためにお祈りをしていると、30歳ほどと思われる青白い女性が黒髪を乱し、濡れた着物姿で立っていました。

これは幽霊だと思い心をしずめて念仏をとなえると、女の人はスーッと寄ってきて、

「私は菊と申します。夫と子どもに先立たれ、ある村からこちらへ親戚を頼ってまいったところ誤って川に落ちて死んでしまいました。

今夜はちょうど四十九日ですが、この黒髪が邪魔をして成仏できずにいます。どうか、この黒髪をそっていただきたいのです。」

と頼む。すると坊さんは、髪をそるのは簡単なことだが、今はかみそりも持っていないので明日の夜、私の庵へ来なさいといって別れる。

 

坊さんは友人に証人として見届けてもらおうと、紺屋七兵衛に仏壇の下に隠れていてもらう。

ところが幽霊はなかなか現れない。

ついうとうとしてはっと気づくと幽霊はもう目の前に坐っている。

坊さんは心をしずめて長く濡れた髪をそり始める。

なんとか証拠の髪を取ろうとするが、髪はそり落とすと、糸に引かれるようにするするとお菊の懐に入ってしまう。

(ここが語りでは見せ場となるポイントで、高校の先生はおそらくそうした表現も上手かったので、記憶に残ったのだろう。先生の話につられ岩波文庫の『北越雪譜』をすぐに買ったのですが、読んだのはこの幽霊の場面のみでした。)

なんとか少しだけ坊さんの手に残すことができたが、お菊は白い手をあわせて静かに消えていった。

 

怖い気持ちもありましたが、ふたりはこれもなにかの縁ではないかと、お菊さんのために明日この庵で村の人も呼んで百万遍念仏をしようということになりました。

そして翌日、盛大な仏事が催されるなか、誰かがこの髪の毛を埋めて石塔を建てれば、お菊さんの心も安まるだろうと提案し、石塔を建てることにしました。 

 

                ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 

 

この供養のためにたてられた毛塚が今も残っているというので、今回は鈴木牧之記念館をへ寄って、その場所を受付の人に訪ねてみました。

周辺の観光地図には出ていないので、わかりにくい場所なのですかと聞くと、奥から別の人が来てくれて地図を広げ一生懸命探してくれるのですが、なかなかみつからない。

当初は五十嵐橋のそばにあったものが、丸山スキー場近くの大儀寺というところに移されたという。

こちらは、だいたいの検討がつけばナビで調べてみるつもりでいたのですが、どうもはっきりしない場所らしい。

とりあえず「大儀寺」ということがわかればなんとかなるだろうと、その時は鈴木牧之記念館を後にしました。

ところが、わが車の安いナビでは、どうにも出てこない。近くまで行けば案内看板かなにかあるだろうと思ってとりあえず出発してみましたが、とうとうそれらしいところは見つけらずに十日町のその日の宿に向かうことになってしまいました。

宿で改めてネットで検索したらそれらしい場所がわかたので、今度はナビにはおよその位置指定をセットして翌日の帰りに再度寄ることにしました。

すると、ナビの案内は石打丸山スキー場は通り越して隣りのスキー場から、ゲレンデ内の細い道をどんどん上がっていく。

心細くなったので、車を降りて近くにいたおばあちゃんに聞いてみると、どうも話が通じない。

この辺に寺などないと。

とにかく、こっちから丸山スキー場へ抜ける道はどれかと聞くと、その上を行けば抜けられるというので、再度、心細い道をどんどん登っていった。

すると、どう考えてもこれは四駆のオフロード車じゃなければ無理だろうといった微かなワダチの残る草の繁った急坂にぶつかってしまった。車を降りて少し登ってみたが、どう考えてもこれは乗用車では無理。

また引き返して別の道に入ると、私たちはなんとか丸山スキー場の中腹にたどりつくことができました。

すると、思わぬところで魚野川が流れる美しい景色が、眼下にぱっと飛び込んできました。

 

 

ここで周囲を見れば、どこかにそれらしいお寺は見えないかと場所をを移動してみましたが、やはりそれらしいものは見つけることが出来ませんでした。

まあ、これだけの景色を見ることができたのだから良いかと諦めて、今度は来た道をは別のルートに挑戦しながら下りはじめたら、ちらっと墓地らしきものが下方に見えた。もしかしてあそこでは、と思い下って行くと確かにありました。大儀寺。

 

 ありました、幽霊お菊さんの毛塚

 

どうやら墓地の集団移転の都合でこちらにきたらしい。

冬は完全に雪の下に埋もれてしまうだろう。

すぐ隣りはスキー客の喧噪があふれる場所で、寂しくはないかもしれないけれど、おそらく誰にも気づかれることはないと思います。

でも、ほとんど諦めかけていたところをここまで導いてくれたお菊さんには感謝。

 

これは鈴木牧之記念館に戻って、毛塚への行き方をきちんと教えて来た方がいいなと思いました。

つまり、これほど魅力ある話の重要スポットを紹介する人、訪ねてくる人があまりいないということなのです。

まあお菊さんも、あまりにぎやかな場所にはならないほうが幸せなのかもしれないけれど、幽霊が実在した貴重な証拠の供養塚のことは『北越雪譜』のクライマックスともいえる話なのだから、もう少しわかりやすくしておくべきでしょうね。

 

どこへ行っても感じることですが、様々な記念館や博物館をつくって大事な資料を保存することはとても大事なことです。しかし、それ以上にそれらの実際の背景になっている場所を自分たちで楽しみながら歩き見てまわれる環境をこそ大事にしてもらいたいものです。

日本中どこへ行っても、普段見ているなにげない景色のなかには、必ず面白い物語がたくさん埋まっているものですから。

 

鈴木牧之記念館 刊行
      『江戸のベストセラー 北越雪譜』
      『そっと置くものに音あり夜の雪 鈴木牧之』
      『江戸のユートピア 秋山紀行』   

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来たわけでもないのにたくさんある芭蕉塚

2011年11月06日 | 歴史、過去の語り方

群馬県は、芭蕉が来たわけでもないのに、なぜか芭蕉の句碑がたくさんあります。 

ある資料によると全国に芭蕉塚は2,442基あるそうですが、そのうちひとつの県内に100基以上あるのは、山形104基、長野227基、群馬221基、埼玉116基の4県のみです。 

これらはどこも山形以外、とりたてて芭蕉との縁が深い土地柄とも思えない。 

私は長い間、これはきっと特定の時代にこれらの地で俳句が隆盛し、句碑をたてることがブームにでもなったのだろうくらいに考えていたのですが、細かく調べると、そこには時代それぞれに様々な興味深い理由があるようです。 

今日、出入りの学校に新任のスタッフと一緒に挨拶に行ったら、帰り際に馴染みのある先生と出くわし、ちょうど見せたい資料があると、その先生がまとめた芭蕉塚の資料をもとに詳しく説明してくれました。 


その先生のまとまめた資料によると、そもそも芭蕉の句碑や塚が建立される経緯を見ると次のような特徴がみられるという。 

1、芭蕉の忌日(きにち)などに、芭蕉を慕って建立したもの 
 ・ 芭蕉の三十三、百、三百年忌(平成5年、1933)などに 
2、芭蕉が訪れた土地に記念して建立されたもの 
3、それぞれの地域や景色、土地柄に似合った俳句を碑に刻んだもの 
4、社中、連中、個人などが愛吟した俳句を碑に刻んだもの 
5、その他の記念に際して、芭蕉の俳句を碑に刻んだもの 

こうした分類をもとに時代を遡ると、その土地ごとにいろいろな縦糸、横糸のつながりが見えてきます。 

ことのはじまりは、江戸の太平の世が長く続き、商品経済が発達するにしたがって、庶民の経済力が高まり、群馬県でも寺子屋などの教育がかなり広く普及するするようになったことなどがあげられます。 

地形があまり水田に適さない群馬県は、養蚕などの換金作物が盛んになったこともあり、貧しいながらも古くから貨幣経済が発達した土地でもありました。 
それは最近の歴史考古学の調査で、江戸時代の農村の生活が予想以上に豊かであたことが確認されていることでもわかります。 

こうした想像を超えた豊かさは、寺子屋の普及や農村歌舞伎や人形浄瑠璃が都市部以外の農村でも盛んに行われていたことからも十分うかがわれます。 

近世の江戸文化が、世界的に見てもきわめて高度な都市文化を持っていたことはよく知られていますが、そうした文化が地方の農村にまで広く普及していたことは、世界史的にみても脅威的なことであったと思います。 

このような土壌が、この地に芭蕉塚を多くつくっていった背景にあったようです。 

もちろん、地域や時代によって豊であったり貧しかったりする条件は様々なので、それらを一律に論じることはできません。 

とりわけ東日本の場合、古来より中央政権からみれば独自の文化基盤がありながら、火山の噴火(古代の榛名山噴火、天明の浅間大噴火など)や震災などを契機にした飢饉など、たび重なる災害で壊滅的打撃を何度もうけてきた歴史があります。 

枕詞のように繰り返されて語られる、中央の支配下にあった東北蝦夷の独自文化の基盤は、これから冷静に見直されなければなりません。 




このような過去を知る貴重な遺産は、日ごろ私たちの身の回りにたくさんありながら、ひとつひとつの由来などは、忘れられたままの場合がとても多いものです。 

ひとつひとつ、いつ誰が建立したのか、誰の書によるものなのか、 
なぜその句がそこに選ばれたのかなどがわかると、どれもが愛着を増す貴重な歴史の史跡であることがみえてきます。 

そんな芭蕉塚のひとつ、金島の旧三国街道沿いの坂道にある石碑をその先生が教えてくれました。 




 此あたり眼にみゆるものみなすゝし 

                       ばせを 



今は、坂の横は杉林で視界が遮られていますが、この坂から昔は、子持山、小野子山、赤城山が一望できたことと思います。 

 

そんなことから、身の回りの風景がまったく違うものに見えてくるのは、とても楽しいものです。

 

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続・古代朝鮮の仏像はどこにある?

2011年09月30日 | 歴史、過去の語り方

2009年に、「古代朝鮮の仏像はどこにある?」

といった記事を書きました。

ここで書いたのは、これほど日本に大きな影響を与えた古代朝鮮の仏教がありながら、わずかな石仏以外にどうして朝鮮本土には日本にあるような仏像が残っていないのかといったものでした。

ところが、この問いにズバリ応えてくれる本が出ていました。

国宝第一号 広隆寺の弥勒菩薩はどこから来たのか? (静山社文庫)
大西 修也
静山社

こつこつと売れつづけている本ですが、ようやく読むことができました。

タイトルは広隆寺の弥勒菩薩に焦点をあてていますが、中国、朝鮮を経て日本に仏教が入る経緯を広範囲な仏像の調査研究の積み重ねによって、その謎を解き明かしてくれています。

そもそも、わたしたちは古代朝鮮の文化が日本に渡来してきた要因は、亡命渡来人がもたらしてくれたものが多いものと思い込んでいた面があります。

勢力を拡大する高句麗や中国に追われた弱小国、新羅や百済から多くの亡命渡来人が日本にやってきたのだと。とりわけ亡命という性格から多くのすぐれた官僚、技術者たち日本にきたのではないかと思っていました。

本書の冒頭で、この見方が歴史のほんの一面に偏った見方であることを知らされます。

しかも、それは、現代の核技術輸出の事例との比較で。

現代でも最先端の技術、とりわけ核(原子力技術)などは、関係機関や周辺国の理解を得られないと簡単に輸出することはできません。

古代仏教は、現代のそれに匹敵するまさに最先端の文化、技術でした。

そんな時代のこと、高句麗の圧迫を受けて国家存亡の危機に直面していた百済は、救援軍の派遣を日本に要請するかたわら、百済外交の切り札として仏教を日本に伝える決心をしたのだと。

もちろん、朝鮮と日本との関係は百済一国との関係で成り立っていたわけではありません。様々な朝鮮半島内部の事情がからみあってうまれています。

最近では私たちも韓国ドラマ「朱蒙(チュモン)」などのおかげで、古代朝鮮の地名への理解があるので、プヨなどの地名がでるごとに、格別の思いもわきます。

そうした日本人にもかなり身近になった古代朝鮮と古代日本の歴史を、ひとつひとつの仏像の衣や台座のかたちの詳細な研究の積み重ねによって解き明かしてくれています。

このような著者たちの長年の研究の情熱が、前回の記事で李氏朝鮮時代にほとんど破壊されたといわれる古代の仏像の残存遺跡のなかから、歴史の脈略を解き明かし、さらには数々の新しい仏像の発見へとつながっていく。

終盤で30年前にわかった対馬の渡来仏の記述にいたると、歴史の積み重ねの謎解きの面白さ一気に増してきます。

奈良の都、中央でのみしか日本古代仏教をみてこなかった私たちに、対馬で90体をこす古代朝鮮の仏像がみつかった驚きは、おそらくまだ多くの人に伝わっていません。

地道な研究と発見の積み重ね立証のうえに、弥勒信仰、阿弥陀信仰から末法思想がどのようにそれぞれの時代に反映していたかなどを解き明かしてくれる本書は、実に内容の濃い1冊でした。

 

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ゴジラが日本へ上陸した年(1954年)

2011年08月07日 | 歴史、過去の語り方

映画「ゴジラ」の第1作が上映されたのは、1954年のことです。

その年3月1日早朝、中部太平洋のビキニ環礁で、米軍の実験用水爆「ブラボー」がきのこ雲をあげ、空を真っ赤に染めました。

そのとき爆心から160キロメートル離れたところを航行していた日本のマグロ漁船「第五福竜丸」に死の灰が降り注ぎ、乗組員23人全員が被爆。
無線長の久保山愛吉さんは半年後に死亡。

翌55年に第1回原水爆禁止世界大会が開催され、反核平和運動が大きな広がりをみせました。

これらは、先立つ53年にアイゼンハワー大統領が国連総会で「原子力の平和利用」(アトムズ・フォー・ピース)を訴えた演説をしたばかりのことであり、アメリカは全世界から非難を浴びました。

第五福竜丸の被曝事件は、アメリカにとって“ラッキードラゴン”の衝撃として大きなダメージとなっていたのです。

広島・長崎の原爆投下、日本の敗戦からまだ10年という時期のことです。


こうした時期に、日本の原発政策ははじまりました。

1954年3月3日、中曽根康弘衆議院議員らが中心となって、当時の保守3党(自由党、改進党、日本自由党)が突如、54年度政府予算案の修正案を衆院予算委員会に上程。翌4日には衆院通過を強行しました。
ウラン235からとったと言われるその原子炉築造予算は、2億3500万円。

第五福竜丸の被曝事実が暴露される約2週間前のことです。

原爆反対運動の盛り上がりを打ち消すには、まさに“毒をもって毒を制す”の諺どおりに、原子力の平和利用を大々的に謳いあげることが必要だと、あからさまに正力松太郎らは考えていました。

このような路線のもとに被曝国日本へ、アメリカからの濃縮ウランや原子炉の提供がはじまったのです。


水爆実験によって生まれたゴジラは、何を目的に日本に上陸してきたのでしょうか。
特撮アクションエンターテイメントとしてシリーズ化されたその後の作品と比べて、はるかに重いテーマを背負って登場した「ゴジラ」第1作は、東宝の歴史を塗り替え『七人の侍』『生きる』を上回るほどの「空前の大ヒット作」となりました。

映画のラストで山根博士(志村喬)は、「あのゴジラが最後の一匹とは思えない。もし水爆実験が続けて行われるとしたら、あのゴジラの同類がまた世界のどこかに現れてくるかもしれない」とつぶやいて終わる。

今、あらためて観なおすべきすばらしい作品であったことに気づかされます。

隔週刊東宝特撮映画DVDコレクション全国 2009年10月27日号

     (創刊特別号990円は、まだ入手できます)

 

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原爆と原発の日

2011年08月06日 | 歴史、過去の語り方

今日、広島原爆の日と9日の長崎原爆の日を迎え、福島第一原発事故の問題とあわせた核・原子力論議が盛んに行われています。

世論の多くは、速やかな原発廃止よりも、段階的な脱原発、つまり原子力への依存度を徐々に下げていく考え方が多いように聞こえます。
その理由は、再生可能な自然エネルギーなどへの転換をはかるにしても、現状のすべての原子力エネルギーを他のエネルギーに転換するには時間がかかることやコストの問題などがあげられています。

聞かれるかでもないことかもしれませんが、わたしは明確に、すぐにすべての原子力エネルギーを他の自然エネルギーに転換することはコストの問題があったとしても(それらの問題をクリアすることは現状でも可能だとも思っています)、今の原発は、即刻すべて停止させ、未だ技術的問題をたくさんかかえている「廃炉」にむけた努力を速やかにはじめるべきであると思っています。

「かもしれない」の議論は、双方の立場で、様々な言い分があることと思います。
しかしわたしは、あらゆる領域で「かもしれない」の問題が多いからこそ、議論のわかれることは、生命の安全を最優先させることが不可欠だと考え、それはゆずりません。

すみやかな廃炉で予想される電力不足とは、いったいどの程度のものなのか。
深刻な電力不足、節電が呼びかけられる夏も半ばにきている今、もう少し具体的にその見通しを推測することが可能な時期にきているように思えます。

前にも書きましたが、緊急に切実で大事な点は、総電力の抑制ではなくて、需要の跳ね上がるピーク電力のカットです。
この点に政策や技術を優先的に振り当てれば、目の前の問題はそれほど困難なことではないのではないでしょうか。

今日の本題はこのことではありません。
広島・長崎の日にあらためて原爆の問題と原子力の平和利用の問題は、あくまでも別の問題として考えるべきたという人たちと、「広島の原爆ドームの向こうに福島第一原発の破壊された建屋が見える」(佐野眞一)といった核問題として同根の問題としてとらえる人たちに分かれます。

わたしは後者の立場なので、その観点でいくつかのことを今日は書いておきたいと思いました。


原子力の平和利用として、とりわけオイルショックを経験してからは、石油に替わるエネルギーとして原発に大きな期待が持たれたこと自体は、歴史の必然の部分もあったと思います。
しかし、他方、核保有の口実としてそれがなされる危険を、私たちは北朝鮮の事例をみて身近な問題として知っています。
それでも、北朝鮮のような特殊な国の問題とは別だと言う人もいます。

原発と核兵器開発が、どの程度密着しているのかということについては、1974年のインドの例をあげなければなりません。
インドは1974年5月18日、研究用の原子力施設としておもにカナダから導入したサイラス炉というのを使ってプルトニウムを作り、再処理をしてプルトニウムを取り出して、そのプルトニウムを使って核実験に成功したのです。このときにインド政府は、「ブッダは微笑む」という暗号で実験の成功を伝えたといわれます。

このときのインドは、いわゆる平和利用のための施設、まったくの研究施設から核爆発装置を作り出して核実験を成功させたわけで、世界中、とくにアメリカにとっては大変なショックでした。(のちにアメリカの重水が冷却水として使われたこともわかり、アメリカは二重のショックをうける)

もちろん、だからといってどの国の原子炉も簡単に核兵器に転換できるわけではありませんが、無関係、別物であるといえる根拠はきわめて希薄であることは確かです。

http://vimeo.com/23185260


ここに、ごく一部の人たちではありますが、先進国としての国力を持つためには日本の原子力技術開発は、絶対に不可欠であると考える人たちの根拠があります。またアメリカは、その他の一般諸国とは異なり、日本に対してはそれを容認して支援し続けた様々な背景もあります。
皮肉にも、アメリカ国内で原発がそもそもコストにあわないことが明るみになって、米国内の新規原発開発がとりやめられてから、その技術を海外に売ることで利益を確保しようとしだし、もちろんそれだけが理由ではありませんが、日本の原発開発も加速しています。

原発推進政策を、明確な意図をもって推進してきた人たちに石原慎太郎や、わが郷土の中曽根元首相などがいますが、彼らに共通しているのは、「国民(個人)」よりも「国家」を上におくという姿勢です。

先進国として対等に他国とわたりあうには「核」の保有は絶対条件であるという考えは、口に出せる人と思っていても口には出せない人の差はあっても、根強く一定層の人たちの間に存在し続けています。
「核」の力なくして対等な国際協調など、絵空事にしか過ぎないとの論理は、身近な人たちの間にも広く流布しています。
おまえらそれで何が守れるのだと。

これは、今のエネルギー問題の議論の構造でも同じです。
古くは産業革命後の世界が直面した人口爆発や食糧問題にはじまり、最近では水問題でも同じ構造が持ち出されます。
軍事だけではなく食料、エネルギーを含めた安全保障の根幹の問題が、ここにあります。

そこで今日こそあらためて問いたいと思います。
ふたつの世界大戦の惨劇を経験して、広島・長崎の悲劇を体験して、私たちは何を学んできたのか。
もう一度、考え直すべきではないでしょうか。
歴史から世界が学んだことはなんだったのか。

ふたつの世界大戦から、人類はその教訓を学びその後の世界は、ようやく最近再評価されだした戦勝国たちの横暴はありながらも、確実に一歩前に平和への決意を踏み出したことは間違いないと思います。

それでも世の中には、「核」の力なくして、アメリカの「核の傘」なくして、おまえら現実になにが守れるのだ!
同じように「原子力」への部分依存なくして、生活や産業の安定は、どう実現できるのだと声を荒げて主張する人たちがいます。

わたしは、それも現実には決して難しいことではないと考えているのですが、その議論はおいても、それらの考えの先に実際におきているのは、「国家」の利益を優先して「国民(個人)」の犠牲は当然のこと、あるいは多少は避けられないといった論理であり、また「より強い」国家があってこそ、国民の平和は保障されるものとの論理のもとに、それが「弱い国(者)を力で捩じ伏せる論理」であることを見逃してはなりません。

必ずその後に残るのは、広大な焼け野原であり、不毛化された大地と取り返すことのできない傷を負った人びとの姿です。

国を主語にした「力」によってだけ守られる「平和」は、私たちの「力」によってその欺瞞を暴露し続けなければなりません。

現実に「力」がなければ守れないではないか、という人たちの「狭い」力観。
「正義」のためには、他国の犠牲、自国民の多少の犠牲はやむをえないという「正義」がこれまでもたらしてきたことを、この時期は思い起こすべきでしょう。

もちろん、いかなる場合でもこうすれば絶対安全などという方法はありません。だからこそ、今、どちらの方向に向かうべきなのかを真剣に問わなければならないのです。

取り返しのつかない犠牲を避けることのできない実質の「弱い」力は、私たちの力でなんとしても押しとどめなければならないことを発信し続けたいと思います。

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日本の原爆開発と福島

2011年07月17日 | 歴史、過去の語り方

最近、原発関係で、高木仁三郎以外に私が読む機会の多い人としてジャーナリスト武田徹があげられます。

武田徹氏は5月末、新聞社の取材で福島県石川町を訪ねています。
東京新聞の7月17日(日)に石川町のことを取材した同様の記事が出ていましたが、こちらの取材の署名は秦淳哉となっていました。

私は小学校2年から中学2年までの間、福島県の喜多方市に住んでいたのですが、石川町と聞いて、すぐにはその場所がわかりませんでした。
文章から郡山の南、いわき市に向う方向、いやもう少し南といった印象ですが、磐越東線をたどったのでは見つからない。郡山から水戸へ向かう水郡線をたどることでみつけることが出来ました。

この石川町。実は日本の原爆開発の重要拠点であったのです。
日本の原爆開発と聞いただけで、えっと感じる人も多いのではないかと思われます。私も知りませんでした。


1928年にオットー・ハーンがウランの核分裂実験に成功。
そのハーンのかつての研究仲間でナチスの迫害を避け、デンマークに亡命していた物理学者りーゼ・マイトナーはその実験結果を物理学的に検証し、二つに分裂した原子核の質量を合計すると元のウランよりも軽くなり、減った質量分が強力なエネルギーとして放出されることを計算で示した。

この研究がたちまち世界に広がり、第二次大戦がはじまろうとしていたときに核爆弾開発競争が一斉にはじまった。
こうした世界の流れに対して後に被爆国となる日本も決して例外ではありませんでした。

理化学研究所の仁科芳雄博士が陸軍航空技術研究所に「ウラン爆弾」の研究の進言したと言われるが、1943年1月に仁科を中心に研究がはじめられた。相前後して海軍も京都帝大理学部の荒勝文策に核爆弾の開発を依頼している。

(以下、引用)
この新型爆弾お原料になるウランの入手先として白刃の矢が立ったのが、福島県石川だった。旧制私立石川中学校(現在の学法石川高校)の創立者・森嘉種が石川で採掘される鉱物について明治30年代に紹介し、ペグマタイト(巨晶花崗岩)の産地として注目されるようになる。以後、多くの研究者、学者が石川で産出される多彩な鉱物についての研究を重ね、その中には放射性の鉱石が混じっていることが早くから知られていた。44年12月に日本陸軍は石川町でのウラン採掘を決定。45年4月から石川中学校の生徒を勤労動員して採掘させた。   (以上、武田徹 「原発報道が見落としてきたもの」講談社広報誌より)

(石川町の原爆開発や勤労動員の実態については、石川町史編纂専門委員らが地道な調査を重ねています。)

原爆の製造には何段階もの行程が必要。
ウラン鉱石を精錬し、不純物を取り除いたイエローケーキと呼ばれる粉末にする。これを六フッ化ウランに転換し、ここからウラン235を分離する。さらにウラン濃縮を高め原爆に使用するウランができる。
ウラン抽出には最先端の技術が必要で、日本の研究はまだ基礎研究の段階。
原爆の完成にはほど遠いものであった。

この石川町の他に55年に岡山、鳥取県境の人形峠でウラン鉱山が発見され、本格的な採掘がはじまったが、これも採算割れで中止になる。
こちらの鉱山採掘跡地は、今も立入禁止区域になっており、その影響が問題となっている。

このあたりの問題については、武田徹『わたしたちはこうして「原発大国」を選んだ』中公新書ラクレ に詳しい論及があります。


日本でのウラン採掘は、これらすべてあわせても原発一基を1年稼働させるほどにもならない量であるらしいが、問題はそれではない。

かつて唯一の被爆国として世界平和を訴えていた日本にも、未熟ながらも原爆開発の歴史があったこと。
こうした原爆開発の拠点として福島があったこと。

こうした事実を知ると、今の原子力発電の事故というものをとらえる文脈が大きく変わってくるのではないかということです。

そもそも、原子力の平和利用といっても「核」という「とてつもなく危険」なものの本質は変わらない。
野坂昭如が言っていたように、原子力の平和利用と軍事利用に差があるわけではなく、平時の「核」と戦時の「核」の違いにすぎない。

実際に多くの人々が「核」の平和利用によって人類の明るい未来が切り開かれるかのように思って努力を重ねてきたこと、すべてを否定する気はありません。
しかし、また一方で、「核」という本質からは、それを平和のために区別しようとする努力とは関係なく「軍事」と不可分のものとして存在してきたこと、さらにそうした意志をもって原子力開発の歴史がつくられてきたということを、今あらためて確認する必要があると思うのです。

多くのマスコミが、東北の震災・津波被害の取材にくらべて、こと原発問題となると、政府・東電の広報から踏み込んだ取材がなかなかされないトーンダウンした論調が目立つのは、必ずしも単にスポンサーがらみのがんじがらめの構造によるものだけではない。

武田徹はそのことを、「戦前と戦後の日本を断絶させ、両者を異質な社会だとみようとする傾向に安易に乗じて、歴史を真剣に相手取らなかった結果ではなかったのか―――」  と指摘する。

このたび講談社現代新書として出された武田徹『原発報道とメディア』は、こうしたことを鋭く指摘した興味深い本です。(7月17日現在、品切れ中)

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災害と事故『関東大震災』に学ぶ

2011年04月07日 | 歴史、過去の語り方
復興に役立てたい本シリーズ  ②


 災害や事故には、どうしても「運」というものがつきまといます。
 ほんの一瞬の時間の差や、ほんの僅かな場所の違いなどが、人の生死を大きく分けてしまいます。
 しかし、そのほとんど「運」といって差し支えない分かれ目のなかにも、人間のわずかな気配りや注意の差で、「自然災害」といわれるもののなかにも、あるいは「偶然の事故」といわれるもののなかにも、「人災」といわれる側面が必ずといってよいほど潜んでいるものです。

 「天災」、「自然災害」は、常に人間の予想を大きく上回る規模で、突然やってきます。
 さらに「事故」は、通常では考えられないような条件が「たまたま」重なったかのような場面で発生します。
 しかし、その予想をはるかに超えるものでも、通常では考えられないものでも、そこに歴史という時間軸を加えてみるならば、意外と予測可能なものであったり、確率からしても十分ありうるものであったりするものです。
 「災いは忘れたころにやってくる」よいう言葉は、まさにそうした意味からも肝に銘じておくべき言葉であります。


 こうした災害の「天災」「人災」「偶然」「必然」などのすべての要素を、過去の大災害は私たちに見せつけています。
 ここに紹介する吉村昭の『関東大震災』は、まさにそうしたすべてを如実に教えてくれる本です。

関東大震災 (文春文庫)
吉村 昭
文藝春秋


  文春文庫(1977/08)


 関東大震災に関しては、吉村昭の小説にたよるまでもなく、様々な記録、写真集、研究書が刊行されていますが、ひとつの災害をトータルに描きだしているという点で、小説という形態ではありながら、これに勝る本はないのではないでしょうか。


 ぜひご紹介したいポイントは三つあります。

 その第一は、地震予知ということに対する科学者の職責と能力の問題です。
 本書のなかでは、当時の地震学の権威であった東京帝国大学地震研究室の主任教授、大森房吉理学博士と助教授の今村明恒理学博士、ふたりの対比が見事にえがかれています。
 関東大震災の発生前、微震が続いていたとき、ちょうど主任教授の大森は学会で留守にしており、その間、助教授の今村にすべての判断がまかされることになる。
 度重なる地震に、これは大地震がくる前触れではないかとの新聞社からの問い合わせが今村のもとにあいつぐ。今村は、過去の歴史から、ほぼ六十年の周期で大地震が発生している
ことから、記者への表現に気を使いながらも、これが大地震の予兆である可能性が高いと判断する。
 ところが、主任の大森は、科学的な根拠もなくただ周期性だけを根拠にいたずらに危機感をあおるのはよくないとして、今村の判断とマスコミへの発表内容を快く思わない。
 これが世界を代表する日本の地震学界のトップふたりの間に、深い溝を遺すことになる。
 事実上、主任教授の大森が今村助教授に全面的に敗北したことになるが、いつどこで発生するかということを科学的に予測できるかどうかということに関しては、様々な計測技術が進歩した今日でも、この当時とそれほど大きく変わっているわけではない。


 二番目のポイントは、大震災という災害が具体的にどのような災害なのか、小説ならではの表現でありながら、決して虚構や誇張におちいることなく吉村昭がえがききっている点です。
とくに日本の場合、一際顕著なのかもしれませんが、地震による倒壊よりも、その後の火災による被害のほうがはるかに甚大であることを忘れてはなりません。

 これこそ具体的に知ってはじめて驚かされたのですが、避難場所として多くの人びとが集まってきた陸軍被服廠跡で4万4千人にのぼる死者をだしていることです。
 避難してきた少年に医師が大勢の人が死んでいることを聞き、どのくらいのひとかと訊ねられたとき少年は「たくさん」という印象を思わず「5千人くらいは死んだと思います」と答えるが、医師から「法螺を吹くなよ、人が5千人も死んだら大変なことだ」と笑われる。
 ところが、実際にその被服廠跡で死んでいたのは4万人以上であった。

 周囲が火災でみな焼けているとき、広い空き地を求めて多くの避難者が集まってきますが、その場所が、多くの家財荷物や人びとが密集することによって、その一帯で最も燃えやすい危険な地域になってしまっていたということです。
 これは今日でも忘れてはならない重大な教訓です。
 またそのような密集地で火災が発生すると、やがて信じがたい突風が起きることも知っておかなければなりません。
 同じように避難時に人が密集して危険になる場所として橋の上があります。
 避難民に殴打されながらも、荷物を川に捨てさせた巡査の話が紹介されています。

 久松署管内では警察官が荷物を持った民衆の橋を渡ることを禁じたが、社会的地位の高そうな男が警察官と押問答になった。
 男は荷物を背負いながら橋を渡ろうとし、それを阻止する警察官に、
「自分の財産を背負って公道を行くのが、なぜ悪いのだ。そんなことは法律で定められてはいない」
 と、怒声をあげた。
 それにつづく群集も男に同調して、警察官に罵声をあびせかけ橋上を強引に渡ろうとした。そして、暴行にも及びかけたが、突然男の背負った荷が燃え出し、男は炎につつまれ絶命した。
 この光景を眼にしてから、群集は警察官の言葉にしたがって荷物を捨てたという。
                  『関東大震災』 文春文庫 101ページ

 この一文を読んで、はたして、現代にあってはどうだろうか、と思わずにはいられません。
「自分の財産を背負って公道を行くのが、なぜ悪い」と警官に怒鳴るような人間が、増えていないと良いのですが。



 三番目のポイントは、人災として最も際立った朝鮮人虐殺のことです。
 これも私はこの本で初めて詳しく知ったのですが、朝鮮人が井戸に毒を入れたとか、襲撃してくるといったことがデマであることは、警察も早いうちから調査確認し、治安の安定をはかるように努力をしているのですが、本来、警察の補助的役割をはたすべき自警団が、問題の存在になってしまっています。
 警察は朝鮮人を凶暴化した自警団の手から守るために群馬県下に移送することを決定します。ところが、その計画は、無思慮極まりない危険な行為で、それまで警察署内に閉じ込めていた多くの朝鮮人を兇徒化した自警団たちの面前にさらすことになってしまいます。
 移送の話もまた、いつのまにかトラックにのった朝鮮人が来襲するという話になってしまい、埼玉、群馬を舞台に更なる悲劇を巻き起こすことになってしまったのです。
 群馬が、関東大震災にそのような舞台として関わっていたとは知りませんでした。


 さらにこうした事件を引き起こすひとつの原因になった新聞報道のあり方が、これを機に検閲の強化というながれをつくってしまったことも、今につながる重大な問題です。



松尾章一 『関東大震災と戒厳令』
吉川弘文館 (2003/09)  定価 本体1,700円+税


山下文男 著
『戦時報道管制下 隠された大地震・津波』
新日本出版社(1986/12)  定価 本体2,200円+税

1944年12月7日の東南海大地震は、M80  1945年1月13日の三河大地震はM7.1
いずれも戦時下の報道管制下ということで、多くの国民にはその事実は知らされなかった。



 以上大まかにポイントだけを紹介しましたが、このたった1冊の本が私たちに、大災害というものが、人間や社会に与える様々な傷跡を見事に描き出してくれています。
 それを吉村昭は、いつもの表現方法で、特別な主人公にスポットをあてるような小説としてではなく、ひたすら事実そのものの持っている力を引き出しながら耽々と語りかけてくれます。



 いまの科学技術で、次の大震災が、いつ、どこで起きるかを正確に予測することはまだできません。しかし、いつか、どこかで、大震災が必ずおきることは、ほぼ確かなのです。
 このたった1冊の本が、そうした忘れてはならない大事なことを、多くのひとに伝える大きな力になっているのを感じます。


地震や火山噴火の災害に関しては 群馬大学教育学部の早川由紀夫研究室が
継続的にすぐれた研究をされています。是非、ご参照ください。




井上赳夫・大上和博
『特異日の謎を追う「偶然」の真相』
青春出版社(1996/08)定価 本体1,262円+税

 こうした本はなにかと眉唾ものとして見られがちですが、本書は一見「偶然」と見える大災害、大事故の特定日への集中発生という現象の謎を追い、そこに隠された真相に、あくまでも科学という立場から迫ろうと試みたものです。

 誤解のないように付け加えておくと、本書でいう「日付」の、「何月何日」という表記形式にはあまり意味はない。むしろ一年の何番目の日、たとえば二月一日なら1年の32番目の日というように考えてもらったほうがわかりやすいだ
ろう。
 
 月の満ち欠けと交通事故発生の関連性などは、最近よく指摘されることですが、まだまだもっと科学の目を向けなければならない世界はたくさんあります。


手ごろなおすすめ参考文献


小沢健志 編 『写真で見る関東大震災』
ちくま文庫 (2003/07)
定価 本体1,000円+税


   北原糸子 著              野口武彦 著
『地震の社会史 安政大地震と民衆  『安政江戸地震 災害と政治権力』
    講談社学術文庫         ちくま学芸文庫(2004/12)
     定価 本体1,050円+税      定価 本体900円+税

            (以上、「かみつけの国 本のテーマ館」より転載)
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