かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

「皇室の名宝」展での収穫

2009年10月18日 | 映画・音楽・舞台・美術などの評
一昨日、八王子の親戚のところへ挨拶に行くついでに、東京国立博物館の
「皇室の名宝」展に行ってきました。
http://www.tnm.go.jp/jp/servlet/Con?pageId=B01&processId=01&event_id=6890

学生時代からあこがれていた狩野永徳の唐獅子図屏風をやっと見ることができました。

実物の大きさに圧倒されるほどでしたが、細部の筆致は大胆、かつ意外と大雑把であることにも驚きました。
この屏風の大きさは、とても普通の家屋の寸法には収まらない。

何度も何度も図版で見てきた作品ですが、意外と大きいものであると頭にあっただけで、
これほどの大きさとは想像していなかった。

当然のことながら縮小された図版と原寸で見るディテールはまったく違う。

あまり時間をかけた作品とは思えない筆致でしたが、かといってこの大きさを一気に書き上げたような感じではなく、
構成はしっかりと計算しつくしたうえで書かれている。

それは安土城などの戦国の立派な建築物が短時間でつくられるのに似ている。
場数を踏んでいるものだけが成しうるスピードといった感じだろうか。

このスケールの「部分」と「全体」の関係は、圧倒的に「全体」が優先されている。

続いてみた伊藤若沖などの、細部へ細部へ集中していきながらの全体バランスとは対照的。

そうした比較では、これまで巧さばかりが鼻につくかの印象だった応挙の迫力は感動的だった。


隣りの本館まで含めて、日本絵画史を一気に概観することができた。

まったく忘れていたことですが、私は日本美術史が専攻でした。
特定のゼミ以外は、あまり授業に出た記憶がないので、とても人前で日本美術史など語れる立場にはない。

そうした知識がないがゆえの思い込みかもしれませんが、今回安土桃山から近現代までの日本画を一気にみてみると、
明治の岡倉天心門下の横山大観、菱田春草、下村観山の作品が、日本美術史上に特別なクサビを打ち込んだ存在として
その他を寄せ付けない価値をあらためて感じられました。

日本画檀の写実への指向と、全体の構図の伝統、日本独特のテーマ性など、日本画の歴史は、
明治の岡倉天心のときに頂点を極めたのではないかと勝手に思ってしまいました。

明治以後の日本画の主流は、東山魁夷や平山郁夫などに代表される
美しい「全体」が優先されて「細部」が消滅していく時代に入ってしまったような気がします。

その「全体」と「部分・細部」の両極が、鋭い緊張感をもって対立しながら、ひとつのテーマに構成されるのは、
明治期の天心門下にこそ、その頂点を極めたのではないかと。

大観は、やや長生きした分だけ昭和や現代に通じる作風が多く感じられますが、観山の作品を見たときにひと際
菱田春草と同じ時代の鋭い緊張感で精神性を押しだす技法を感じました。

もちろんどれが良いかなどは、ひとそれぞれの好みの問題でしょうが、永徳の唐獅子屏風を最初にみることができたおかげで、
日本美術史の思わぬお宝を再認識することができました。

無性に春草、観山の作品が見たくなった。

春草、観山の作品収蔵の多い目白の「永青文庫」に行こう。
コメント
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