かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

高めてはいけない「安全」性

2011年07月13日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜
また誤解を恐れずに書きます。


原子力の平和利用、緊急のエネルギー対策のためにも、原発は危険だからといって安易に廃止はせずに、安全性を高める技術やしくみを改善することこそが必要だという意見は、これだけの被害に直面している日本ですら、まだかなりの人々が持っている考え方です。

安全基準の見直し

ストレステスト


根底には科学技術に対する信頼の問題がみかけでは横たわっていますが、

現実には、それよりも重大な、単純に核というものに対する理解の問題があると思います。




1975年のことです。


アメリでは政府が組織して原子炉の安全性の研究「RSS」と言われる研究が行われました。原子力規制委員会の管轄下で75年に「WASH-1400報告」が出され、俗にこれはチェアマンを務めた教授の名前をとって「ラスムッセン報告とも言われていますが、この報告によって安全神話を確立させたきらいがあります。

「WASH-1400報告」は、たとえばチェルノブイリ級の大事故が起こって、内部にたまっていた放射能が一気に外部に放出されて、大量の人が死ぬ、そして何百万という人が多かれ少なかれ影響を受けるような大事故の可能性は、確率的にどれくらいで評価されるのかとうことを、膨大なデータベースと費用と作業時間を使って解析的に行った研究です。膨大な報告書が出ていますけれども、一般的に原子炉の巨大事故が起こる確率は、きわめて低いというのが結論でした。


その結果は、広告書の正確な数値的表現ではないのですが、広告書の作成者であるラスムッセン教授たちによって、原子炉の巨大事故が起こる確率は「ヤンキーズスタジアムに隕石が落ちる確率よりも低い」と表現されました。
(その後この報告は、くじに当たる確率論議のような数字は、そもそもあてになるデータとはいえないといった批判にさらされますが、1979年にスリーマイル島事故が起きて信頼度を失います。)

しかし、その後も、政府関係も含めていろいろば報告が出され、何千年とか何万年に一回の事故確率ではないかというのが、より真実に近い状況として想定されるようになりました。

何千年に一回、たとえば千年に一回というと非常に低いように思いますが、これはひとつの原子炉についての確率です。

現在、世界には四百基以上の原子炉がありますから(研究用のものを除く)、一つ当たりが千年に一回の大事故を起こす可能性があるとすると、2.5年に一回は世界のどこかで大事故が起こるということになってしまうわけで、千年に一回という確率は大変な数字になります。それよりは多くなくて数千年に一回ぐらいの確率ではないかとも言われています。



1979年にスリーマイル島事故。チェルノブイリ事故が1986年。

50年代、60年代にも巨大事故は起きています。

そして日本では、東海村JCO事故や「もんじゅ」や柏崎刈羽事故と今回の福島第一。


そういうことを考えると、だいたい今くらいの原発の数だと、十年に一回くらい大きな事故が起こるのではないかと思われます。だから一基当たり数千年に一回ぐらいの原子炉の事故の確率というのは、案外真実をついているのではないでしょうか。


(高木仁三郎 著 『原子力神話からの開放』 講談社+α文庫)


学者が信じている安全神話は、このようなデータをもとにしていることが多いのでしょう。

では、これから私たちは、どのように考えていかなければならないのでしょうか?


千年に一回ではいけないので、5千年に一回、あるいは1万年に一回程度にまで引き上げる努力を重ねることが大事なのでしょうか?


今、私たちに問われている問題は、決してそのようなものではないということが、多くの人に見えてきていることと思います。





また古い事例で恐縮ですが、かつて米ソの冷戦時代に、核などを装備した大陸間弾道ミサイルの開発が、米ソの緊張を高め、さらにそれらに対する迎撃ミサイルの開発が国際間で論議されたことがありました。

驚いたのは、そのときに出された国際間の結論が、迎撃ミサイルの開発は抑制しよう、というものでした。

つまり、迎撃ミサイルの開発というのは、それぞれの国の防衛能力を高める側面よりも、そうした設備が出来ることで、より核のボタンを押しやすくなってしまう危険が増すというのです。

「より危険な驚異」を与えることでこそ「抑止」力の効果は増すという論理です。

それが「使いやすく」なってしまうこと自体、「抑止」力の効果が減ってしまうという考えです。


そこに、万が一でも迎撃ミサイルをくぐりぬけて相手国に到達してしまったら、とか、今の迎撃ミサイルの能力では命中確率などそもそもあてにならない、などといった問題は二次的なことなのです。


「とてつもなく危険」なものは、その自らの論理で「使いやすく」なってはいけないのです。


この核兵器の問題と同じ構造が、原子力の平和利用の場合でもいえます。


「安全」性を高めて「使いやすく」することは、今の技術の延長では、

「使いやすく」なり「普及する」ことで、危険度を増すことにしかならないのです。


それでも、科学技術の進歩によってそれらは克服されるはずだ、またそうした努力をするべきだ、との意見がまた聞こえてきます。

科学技術の耐えざる進歩に対する信頼は、確かに否定されるべきではありません。

だとすれば、なおさら、その考えで今優先させられなければならないのは、安全性を数千年に一度のレベルから5千年、1万年に一度のレベルに引き上げることではないはずです。


それは、まず、消せない火(核分裂)を消す技術の開発であり、水による冷却以外の方法で急速に使用済み燃料棒を冷却する技術であるべきです。

また放射能をひたすら何重もの壁で防御することや、地中深くに埋める技術ではなく、放射能そのものを無害化するような技術の開発(ゴジラの研究のようなもの)であるべきです。


もちろん、そのようなことは、とても簡単にできることではありません。


だからこそ、この世のいかなる有害物質よりも危険なゴミを出し続ける原子力発電のゴミ問題を先に解決することなく、事故の確率だけを下げるだけの努力は、ほとんど無意味ともいえるだけでなく、極めて危険な考え方であると思うのです。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする