このところ電子書籍(青空文庫)の利便性をとても感じています。
出かけたときなどは特に便利で、車のオイル交換の待ち時間に、家で読みかけの続きをタブレットですぐに読める。主だった古典は、ひとつの端末を持っていれば、かなりのものがいつでも開くことができる。
岩崎灌園『本草図譜』にも感激しましたが、牧野富太郎の『植物知識』も最近、電子書籍で読んだもののひとつです。
その冒頭で、蘭学者の宇田川よう庵の著書を引用して、
「すなわち花は誠に美麗で、且つ趣味に富んだ生殖器であって、動物の醜い生殖器をは雲泥の差があり、とても比べものにならない。」と言っています。
私の家も春になると、ほとんど手入れもしていない庭にもかかわらず、次々といろいろな花が咲きだします。
それらの花々が「露出した性器である」ことは、バラの花ビラの妖しい美を写し撮った写真家の大野純一さんも言っていました。
あまりにも日常に目にしている世界のなかにある、非日常の表現にびくっとしますが、この牧野富太郎の表現によってさらに、植物と動物の差異について、びくっと考えさせられます。
動物の生殖器は、なぜ美しくある必要がないのか、
なぜ露出する必要がないのか。
まあ、なんという問いだろう。
同じ生命の核心部分の営みであっても、植物と動物とではまったく生殖の方法が異なることの意味。
それはすぐに気づきます。
自ら動かす身体を持たない植物は、受粉、受精を、昆虫や鳥など他の生き物の力を借りなければなりません。
他方、動物は同一種内であれば、同じ行動生活圏のもの同士が出会い、自らの力でほぼ自由にSEXできる。
つまり、植物は異質なものの力を借りるがゆえに、より目立つ生殖器であることが必要となる。
動物は同一種内で自ら動くことが可能なので、ひと際目立たせる必要はない。
ここにただ興味、感心をひくことと「美しい」と感じるかどうかの分かれ目もある。
同一種内の合意記号のみではなく、異質なものをも説得できる力のあるものが
「美しい」
ということか。
同質なものの間では、コミュニケーション、記号は発生しても「美しさ」は磨かれないということか。
このところ、地域づくりの関係で地元の人たちへの説明の仕方で、
「他所の人たちからみて分かりにくいものは、
地元の人にとっても多くの場合、よくわからないものである」
といったことを、
説明文のまとめ方、チラシのデザインなどで如何にわかってもらえるか、ずっと考えています。
そんなせいか、文章のことはとても人に言えた立場ではありませんが、
妙にこの植物と動物の生殖の違いにこだわってしまいました。