最近、たて続けに子ギツネに出会ったせいか、身近に様々な動物たちが生き続けていることを感じられる喜びをひしと感じています。
そんなことを思い出しながら、朝、車で仕事に向かっていると、外から聞こえる小鳥の鳴き声のひとつひとつが心にしみる。
日ごろは意識もせず、目にも見えないけれど、この地上にはわれわれ以外のたくさんの生命にあふれている。
今朝の車中で、妻とこんな話をした。
たくさんの異質な生命に囲まれていることで、このように心がなごむことを思うと、
未来の理想の人間社会は、このような社会なのではないかとふと思えた。
つまり、現代のわがままで頑固なオヤジ、騒音の固まりとなって襲いかかってくる主婦の集団、自分の世界にのめり込み社会性を喪失した若者、敬語で会話し子どもの天分を喪失したような小学生など、わたしの理解に苦しむ人間たちが、先の理想の自然界を思うと、これら異質と思える人間たちがみな、異質であるほどそれが心なごむ人間に見えてくるのが、未来の理想社会像なのではないかと。
こんな話をしたら、妻は、自然界の動物たちで感じられる気持ちが、どうして人間では感じられないのかという一点にこだわっていた。
動物たちに対するような気持ちを、人間に対して持てない様々な理由、人間の存在そのものの業のようなものを含めた問題について話し続ける。
他方、私の方は、自分にとって異質に感じられる存在が、自分の価値観にあわせることなく、それぞれの存在が「あるがままで心がなごむ」ということにこだわる。
そもそも自然界は、個々の存在からはコントロールの及ばないもの同士の共存環境で成立っている。
それはとても微妙なバランスのうえに成立った奇跡の連続のようなものだけれども。
たとえ正義であろうが、人間であろうが、自分の側の価値観で統一管理する発想ではなく、異質で多様なもののバランス、共存のうえでこそなりたっている。
これこそが、明るい未来社会像の鍵なのではないかと思う。
あたかも病原菌を駆除すればするほど、免疫力が衰え、より大きな被害を被る弱い存在になっていくのと同じように、「より良い」を狭い思考でとらえてしまうと、正しいことを追求しているようでいながら、豊かな幸せからは遠ざかってしまうのではないだろうか。
かつて脅威の存在であった熊やオオカミが、同時に神として崇められていた。
それだけの存在の価値を感じていたということは、単なる信仰の問題ではない。
異質性や多様性の問題が、人間と他の生物との関係でだけはなく、人間社会内部でも、あるいは自分の身体内部、精神内部の異質性の許容まで含めて考えることがどれだけできるだろうか。
私の一貫したテーマでもあるけれども、モノを計るには「量」によってしか、計れないかのようになってしまった現代に、「質」や「価値」による表現こそ、ものごとのはじめであることをふまえ、たくさんの異質なものの存在の認め方のなかにこそ「豊かさ」の大事な鍵が潜んでいるように思えてならない。
人を育てることが上手い人をみると、なんかこんな思考ができている未来の人のお手本のようにも見えます。