今年は、昨年のようなドカ雪こそなかったものの、雪の融ける間もない冬が続きました。
それも2月も末になると、ようやく軒下の雪まで融け、春の訪れを感じさせてくれました。
かと思うと一昨日は、3月に入ったにもかかわらず、榛名山、子持山、赤城山が白く染まる雪が降りました。
さらに今朝は、10センチ近く雪が積もりましたが、昼はみるみる気温があがり、上着を着ていては暑いほどの陽気になり、朝の雪はすべてその日のうちに融けてしまいました。
着実に春の気配は近づいてきているものの、まだ冬と春の激しいせめぎ合いがなされています。
まさに3月こそが、春の訪れのはじまりの月だといえると思うのですが、学校や役所の基準をとると入学、進学の4月こそが春の始まり月となります。二十四節気では「立春」が、年賀状では元日が春の始まり。
いったいどこを春の起点にしたら良いのでしょうか。
最も早い時期に春の起点を求める考えは「冬至」かもしれません。
太陽が最も低い位置から照らす日であり、昼間も最も短い日といえます。まさにこの時こそ「陰極まれば陽となる」最初の日で、これこそ春の起点であるともいえます。
長野のあるりんご園農家は、リンゴの新年は冬至からはじまると言います。
「リンゴのせん定作業はふつう、正月明けての1月中旬からはじまるのですが、地球歴を使いだしてから、リンゴにとっての新年は冬至に始まるのではないかと思い、私は冬至を初日として、せん定を開始するようになりました。
収穫を終えた12月は農家にとっては一休みできる時期ですが、リンゴ目線で見ると、立冬(11月8日)、小雪(同23日)が過ぎて落葉が始まり、日照量が一番少なくなる冬至(12月22日)のころにはすっかり葉も落ちて、深い眠りにつきます。ここを新年の始まりと捉え、せん定作業を開始することで、リンゴにとって最も大切な光環境を整えるわけです。おかげで、春の摘花時期にまでずれ込んでいたせん定が、余裕をもって終えられるようになりました。」
(長野県宮田村 杉山栄司さん「現代農業」2015年4月号より)
しかし、もうひとつ大事な節目の見方があります。
冬至が太陽の復活を意味し、そこから次第に日照時間が多くなっていくことは確かですが、しかし「冬至冬中冬初め」といわれるように、気候の点からいって、暖かさは冬至から復活してくるわけではありません。気候からいえば、暖かさの復活点は立春です。
「地球が太陽の熱を受けて吸収し、そのため.暖まるのに45日くらいかかり、冬至のとき最も少なく受けた熱の効果は立春のころに現れるので、立春が最も寒いということになる。陰極まり陽萌す原理で立春で寒さも峠を越え、これ以上寒くもならず、暖かさが増してくる。立春はいわば暖かさの復活点といえる。そのため、漢の武帝のとき、年の始めを冬至から立春に改めるようになった。この立春正月の思想は日本にも受け入れられ、日本で用いられた太陰太陽暦は持統天皇六(692)年の元嘉暦から仁孝天皇の天保十四(1843)年の天保歴にいたるまで、すべて年始は立春となった。」
(永田 久 『年中行事を「科学」する』 日本経済新聞社)
なるほど。
でも、「月夜野百景」の季節区分は、春を3月から5月、夏を6月から8月、秋を9月から11月、冬を12月から2月にしています。http://www.tsukiyono100.com/#!spring/component_73913
毎年、正月には「新春のお慶びを申し上げます」と書くのだから、当然、年のはじまりである1月が春のはじまりだろうとも言えます。
しかし、このおかしな習慣こそが月暦、旧暦を扱う「月夜野百景」が最も問題にしたい感覚です。
そもそも、いま世界に普及している太陽暦には、季節の表現はありません。
「西暦は1年から2000何年というように、時間を直線軸で捉えます。前へ前へと時間が進んでいくという考え方です。これに対し、干支十二支に象徴される時間の捉え方は、十二年で生まれ年が一巡する、六十年で一巡して還暦を迎える、というように、時間の流れを循環として捉えているものなのです。」
(志賀勝『月的生活』新曜社より)
四季の移り変わり、月の満ち欠けなどは、まさにこうした見方で私たちは感じとっています。
それに対して太陽暦は、季節の節目にはかかわることなく、ただひたすら1年365日を均等に分割してすすめるだけの考え方です。
こうした思考ゆえに、一年のはじまりの1月と一年のはじまりの春が、元日といった発想がまかり通るのでしょうが、それは実態にあわせる時間感覚ではなく、数字で表現することに重きをおく思考です。
片や旧暦は、ひたすら自然の実態をみつめる発想の暦なので、春はいつのなのか、どのようにはじまるのかといったことがそのまま表現されています。
野菜などの作物の栽培で、日々植物の生長に接している人は、それぞれの生命の芽吹き、成長、熟成の変遷のなかに、絶えざる生命の循環の節目としての春が浮かび上がってきます。
自然界で、寒い冬を乗り切るために、ビタミンをたっぷり補給し、風邪をひかないように人間の体を守ってくれる冬野菜の季節。それは12月から2月です。
大根、ホウレンソウ、小松菜、キャベツ、ブロッコリー、カリフラワーなど免疫力を高めて、冬の寒さを克服する作物の季節です。
これらは、地中や地面に接した場所の作物が中心です。
やがて芽吹きの季節、春になると、大地から勢いよく顔を出すパワフルな野菜たちがあらわれます。
タケノコやフキノトウ、ウド、コゴミ、ウルイ、コシアブラなどの山菜類です。
これらの芽吹き野菜の特徴は、厳しい冬を耐え抜いた生命力があふれんばかりにみなぎっています。
そして虫や鳥たち外的から実を守り抜くために身につけた苦みや渋みが、人間にとっての体の代謝を促すサプリメントとなっています。
この冬野菜と春野菜の境目を考えると、私たちの住んでいるあたりでは、まさに3月になります。
(参照 内田悟『間違いだらけの野菜選び』角川oneテーマ21)
太陽暦では、こうした作物の特徴や地域差などの問題や、割り切れない天体の複雑な動きを極力普遍化して、合理的に数字であらわすことを徹底しました。
それはそれで必要な努力であったといえます。でも、そのことによって私たちはどれだけ、本来は見えている自然の変化から切り離された無味乾燥な数字の世界に追いやられてしまったことでしょう。
「月夜野百景」で春を3月からとしたことが大きな間違いではないと思われますが、大事なことは、春は様々なかたちで、冬の名残りとのせめぎ合いのなかで、たくましいエネルギーをどのように現してくるのか、その生命循環の瞬間、瞬間を観察して知ることにこそ、一般論の答えを求めること以上に意味があるのではないかと思うのです。
太陽暦の合理性そのものは、かならずしもすべて否定する必要はありません。
でも、旧暦を意識するようになると、絶えず、こうした生命の息吹を観察して知る暮らしを取り戻し、一日を何倍も楽しめるようになるのではないかと思えるのです。
「月夜野百景」は、まさにそのような暮らしを現代にどのように取り戻せるかを、みなさんと考えて行く活動です。