皆さま、信念!おめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
いつもなら、年頭の所感めいたことを書きたいところなのですが、書きたい書評なども溜まったままで年を越してしまい、遅れ遅れのだらしのない新年を迎えてしまいました。
生まれてきたついでに生きているわりには、昨年までは、運よく恵まれたわが身に感謝しつつ、今年も初詣は4つの神社に御礼参りをしてきました。
運の良さだけに支えられている私の信念を上手く書ければ良いのですが、まずは目先の二つの話題から片付けなければなりません。
そのうちのひとつは、もう一つのブログに年末に書いたのでそれを一部加筆訂正してここに転載させていただきます。
このところ文章を書くこと、つづることの意味を考えされる話題が続いています。
ひとつは渋川市在住の教師、飯塚祥則先生の本で
『田中の家に犬がくる』(本の泉社)952円+税
地元なので、直接先生が本を届けてくれました。
最初にお会いしたときに、私も「手作り本・小冊子活動」を少しばかりはじめている旨お話したところ、先生も本の本の紹介時にそのことを記憶にとどめていてくれて、その活動とはいったいどのようなことなのか先生の方から聞き返してくれました。
私の方は、文章を国語・文法的に正しく表現することよりも、そのひとらしさの発見と、誰に伝えるかを絞り込むことにこそ力点をおくものであることを話すと、先生のやっていることもまったくそのとおり同じことであると、立ち話ではありますが意気投合することができました。
すばらしいと感じたのは、先生は国語の先生としてこうした作文活動を行っているのではないということです。飯塚先生の専門教科は体育だそうです。
国語の授業で必要な作文としてではなく、子どもと教師が教育現場で向き合うために必須の、というよりはとても有効な手段として作文の力を知ったということのようです。
本書の「あとがき」には次のように書かれています。
「私が作文の指導法を大きく変えたことによって、現在の子どもたちは、以前の私には想像もできないほどの表現意欲に支えられ、教師が手を加えない「自然でありのままの表現」が可能となりました。
その中で子どもたちは、受け止めてもらえる安心感と分かってもらえる満足感が膨らんでいき、作文を書くための豊かな土壌となっていくのだと私は考えています。」
教育の力をどこに求めるのかということで、とても大事な視点を飯塚先生は経験を通じて提起されているように思えます。
2年くらい前だったと思いますが、フィンランド方式として『競争をやめたら学力世界一』(朝日新聞社)という本の紹介で、そもそも教育というのは、既存の知識の体系を子どもに教え込むことよりも、子ども自身が興味を持ったことを集中的に学ばせて、教師はそれをバックアップ、サポートする方が実際の学力も伸びるという話を書いたことがあります。
飯塚先生の視点も、まさに教育の力を「与えるもの」としてよりもこうした子ども自身の側から発揮されるものとしてその条件作りを試みてくれたといえます。
このことを飯塚先生は、教師が題材や内容に応じてこどもの持っているものを「引き出す」作文ではなくて、こどもの持っているものを「受け止める」作文の価値といったものを、体験を通じて感じたらしいのです。
当店では入荷が遅れて、先生の持ち込みでようやく店に並んだところですが、わかりやすいように専用オビを勝手につけさせていただきました。
もうひとつの話題は、昨年末の上毛新聞に掲載された記事で知ったのですが、以前、私も県庁の企画でお世話になったことのある方、前橋で塾を経営されている立木睦己さんの活動です。
不登校や引きこもりなどの若者や保護者との交流経験を積み重ねてきた立木さんが、そうした若者たちが文章をつづることで、自分と向き合う経験をし、そのことが自立や就業支援にもつながると感じ、新しく「通信」を発行することになったとのことです。
今の子どもたちに限らず、私たち大人も含めて、自分と向き合うことの難しさといものを、私も手作り本の活動を通じてつくづく感じています。
そうしたことを小さい頃に飯塚先生のような方に巡り合えなかった子どもが、大人になって取り戻すというのは、とても難しいことです。
それを立木さんは、不登校や引きこもりの若者たちの間で取り組んでいます。
すでにこうした分野で長年の実践経験のある立木さんですが、ひとりひとり個別の実情に応じた文章との出会いは、また新しい体験であることと思います。
そのひとつひとつの表現と向き合い、またそれを受け止めるということは、下手な資格や学歴をひとつ増やすことよりもはるかに価値のあることだと思います。
教育方針の転換などということではなく、日本各地でこういった流れが生まれつつあるのを感じます。
随分昔のことですが、かつての日本教育界では「生活綴り方運動」といったようなことが流行ったことがありました。その成果を受け継いで、また新しい流れが各世代でおこりつつあるようです。
うれしいことですね。
こうした流れは、欧米型発想の「近代自我の確立」や「個人の権利の主張」などといったものとは、かなり違ったものであると思います。
これは、独立した個人の主張のし合いを目指すものではないからです。
常に、自分と他者との関係性をみつめる作業であるところが大事なところであると思っています。
自分の文章を完成させる作業も、「自我」といったものを確立する作業の場合でも、「私」の内部を固めることだけでできるものではありません。
また、様々な能力で武装することによって確立できるものでもありません。
そのひとそれぞれの固有の環境と、固有の他者との関わり合いのなかにこそ、
「わたし」の実態が見えてくるものなのだと思います。
この辺をもう少し整理して表現できるようにならないと、
私と他者との関係も前には進みません。
今年の大きなテーマです。
(この文章は、店のブログ「正林堂店長の雑記帖」の文章を加筆訂正したものです。)
今年もよろしくお願いいたします。
いつもなら、年頭の所感めいたことを書きたいところなのですが、書きたい書評なども溜まったままで年を越してしまい、遅れ遅れのだらしのない新年を迎えてしまいました。
生まれてきたついでに生きているわりには、昨年までは、運よく恵まれたわが身に感謝しつつ、今年も初詣は4つの神社に御礼参りをしてきました。
運の良さだけに支えられている私の信念を上手く書ければ良いのですが、まずは目先の二つの話題から片付けなければなりません。
そのうちのひとつは、もう一つのブログに年末に書いたのでそれを一部加筆訂正してここに転載させていただきます。
このところ文章を書くこと、つづることの意味を考えされる話題が続いています。
ひとつは渋川市在住の教師、飯塚祥則先生の本で
『田中の家に犬がくる』(本の泉社)952円+税
地元なので、直接先生が本を届けてくれました。
最初にお会いしたときに、私も「手作り本・小冊子活動」を少しばかりはじめている旨お話したところ、先生も本の本の紹介時にそのことを記憶にとどめていてくれて、その活動とはいったいどのようなことなのか先生の方から聞き返してくれました。
私の方は、文章を国語・文法的に正しく表現することよりも、そのひとらしさの発見と、誰に伝えるかを絞り込むことにこそ力点をおくものであることを話すと、先生のやっていることもまったくそのとおり同じことであると、立ち話ではありますが意気投合することができました。
すばらしいと感じたのは、先生は国語の先生としてこうした作文活動を行っているのではないということです。飯塚先生の専門教科は体育だそうです。
国語の授業で必要な作文としてではなく、子どもと教師が教育現場で向き合うために必須の、というよりはとても有効な手段として作文の力を知ったということのようです。
本書の「あとがき」には次のように書かれています。
「私が作文の指導法を大きく変えたことによって、現在の子どもたちは、以前の私には想像もできないほどの表現意欲に支えられ、教師が手を加えない「自然でありのままの表現」が可能となりました。
その中で子どもたちは、受け止めてもらえる安心感と分かってもらえる満足感が膨らんでいき、作文を書くための豊かな土壌となっていくのだと私は考えています。」
教育の力をどこに求めるのかということで、とても大事な視点を飯塚先生は経験を通じて提起されているように思えます。
2年くらい前だったと思いますが、フィンランド方式として『競争をやめたら学力世界一』(朝日新聞社)という本の紹介で、そもそも教育というのは、既存の知識の体系を子どもに教え込むことよりも、子ども自身が興味を持ったことを集中的に学ばせて、教師はそれをバックアップ、サポートする方が実際の学力も伸びるという話を書いたことがあります。
飯塚先生の視点も、まさに教育の力を「与えるもの」としてよりもこうした子ども自身の側から発揮されるものとしてその条件作りを試みてくれたといえます。
このことを飯塚先生は、教師が題材や内容に応じてこどもの持っているものを「引き出す」作文ではなくて、こどもの持っているものを「受け止める」作文の価値といったものを、体験を通じて感じたらしいのです。
当店では入荷が遅れて、先生の持ち込みでようやく店に並んだところですが、わかりやすいように専用オビを勝手につけさせていただきました。
もうひとつの話題は、昨年末の上毛新聞に掲載された記事で知ったのですが、以前、私も県庁の企画でお世話になったことのある方、前橋で塾を経営されている立木睦己さんの活動です。
不登校や引きこもりなどの若者や保護者との交流経験を積み重ねてきた立木さんが、そうした若者たちが文章をつづることで、自分と向き合う経験をし、そのことが自立や就業支援にもつながると感じ、新しく「通信」を発行することになったとのことです。
今の子どもたちに限らず、私たち大人も含めて、自分と向き合うことの難しさといものを、私も手作り本の活動を通じてつくづく感じています。
そうしたことを小さい頃に飯塚先生のような方に巡り合えなかった子どもが、大人になって取り戻すというのは、とても難しいことです。
それを立木さんは、不登校や引きこもりの若者たちの間で取り組んでいます。
すでにこうした分野で長年の実践経験のある立木さんですが、ひとりひとり個別の実情に応じた文章との出会いは、また新しい体験であることと思います。
そのひとつひとつの表現と向き合い、またそれを受け止めるということは、下手な資格や学歴をひとつ増やすことよりもはるかに価値のあることだと思います。
教育方針の転換などということではなく、日本各地でこういった流れが生まれつつあるのを感じます。
随分昔のことですが、かつての日本教育界では「生活綴り方運動」といったようなことが流行ったことがありました。その成果を受け継いで、また新しい流れが各世代でおこりつつあるようです。
うれしいことですね。
こうした流れは、欧米型発想の「近代自我の確立」や「個人の権利の主張」などといったものとは、かなり違ったものであると思います。
これは、独立した個人の主張のし合いを目指すものではないからです。
常に、自分と他者との関係性をみつめる作業であるところが大事なところであると思っています。
自分の文章を完成させる作業も、「自我」といったものを確立する作業の場合でも、「私」の内部を固めることだけでできるものではありません。
また、様々な能力で武装することによって確立できるものでもありません。
そのひとそれぞれの固有の環境と、固有の他者との関わり合いのなかにこそ、
「わたし」の実態が見えてくるものなのだと思います。
この辺をもう少し整理して表現できるようにならないと、
私と他者との関係も前には進みません。
今年の大きなテーマです。
(この文章は、店のブログ「正林堂店長の雑記帖」の文章を加筆訂正したものです。)
まず一歩の踏み出しとして、下手でも書いてみることからですか?
不登校、退学者20万人、精神疾患休職教員5400人。こんな学校に通えば、ひきこもり、ニート、失業者となり、四万人の自殺者が出るのは当然です。
日本国民は、なぜこんなデタラメ教育を許しておくのでしょうか。子供の不幸を見て見ぬふりする堕落した日本人こそ、自民党・官僚政治の愚民化政策が作り出した愚民です。
教育現場から愚民化教育のおぞましい実態を詳細に暴露したのが「『おバカ教育』の構造」(阿吽正望 日新報道)です。時代錯誤の文科省官僚は、この知識時代に愚民化教育を行い、若者を貧窮させ、犯罪に走らせ、国家衰退を作り続けています。
これは、薬害エイズや薬害肝炎を起こした厚労省官僚を越える大罪です。悪徳官僚への恨みと呪いの声が、親や教師から聞こえてきます。うらめしや、うらめしやと。
今年こそ親たちは目を覚まし、子供を救うために立ち上がるのでしょうか。それとも、薬害肝炎やエイズ、原爆症患者と同じに、日本人は子供を見捨てるのでしょうか。