以下は、中沢新一著 『 純粋な自然の贈与』 講談社学術文庫についての文ですが、書評ではありません。
わたしの雑感です。
以前、モースの『贈与論』の紹介を書いたことがありますが、中沢新一氏のこれまでの著作も含めて、どうも私は
「贈与」の問題を社会学や文化人類学的観点よりも純粋・経済的観点の延長からのみとらえる傾向にありました。
その傾向は今でもあまり変わらないのですが、モースの『贈与論』や中沢新一氏の著作をそうした意味で正しく読むことをせずに、自分の論点に都合のよい部分のみに着目していたと思います。
そうした私の誤読が、どのようなものであったのかを今回の講談社学術文庫版『純粋な自然の贈与』では、だいぶ整理することができたような気がします。
わたしは常々、人間の経済活動というものを人間の労働からのみとらえ、大自然からの贈与の部分が計算に入れられていない問題をこれからどう位置付けたらよいのかといったことにこだわっていました。
それを経済的な観点からのみ考えると、水や空気、植物や地下資源などに対する対価をメーカーには払っているかのようでありながら、現実にはその企業は大自然に対しては何も払っていない今の社会構造の問題があります。
企業は、土地の所有者や、鉱物などの資源を掘り出す労働者などへの代価は払っていますが、それらを供給してくれている大元の自然にたいしては、まったく何の対価も払わずに、その占有権のみを根拠に略奪を繰り返してしています。
この不足している部分を、ボランティアや国家助成、環境税などで補完されるに留まっている限り、社会は健全な姿にはなりえないと思います。
人間に対して対価を要求せず、常に無償で与え続けてくれる大自然に対して、後に取り返しのつかないその損害に気付いたときのみ、我われはなんらかの代価を払う必要性を感じることが多いものです。
人間の経済活動のしくみをこれからどう変えていったら良いのか、環境税などの手段だけでは根本解決にならない根源の生産の在り方から見直さなければならないと思っていました。
ところが、本書で述べられていることや中沢氏が一貫して論究していることは、そうしたことよりも重点は、もう少し別のところにあります。
それは、この「大自然の贈与」そのものの価値を人間がどう受け止めてきたのかということです。
確かに、大自然は無償のものとして自らを様々な富として人間に与えてくれますが、それを人間がなんらかの有用な富と感じる限りにおいて、必ずそこには「魂」の交換といったような営みがなされていました。
その「魂」の営みとしての交換は、大自然が与えてくれる富そのものの価値を人間が感じれば感じるほど、なんらかの返礼を伴ったものでした。
その返礼とは、計量、計測できないものであるからこそ、その価値を感じるだけの「なんらかの」返礼であったわけです。
そもそも価値とは、主観的なものであるという本質的な姿がここにはあります。
それを計量、計測可能なものとした瞬間から、その行為は経済行為となります。
どちらも「交換」なのですが、交換の相手が「不特定」の対象になったときから、計測、計量可能な価値として表現する必要が生まれたように思えます。
もともと計測不能で「主観的」であることを本質とする「価値」を、異なる主観と交換すること、より不特定の異なる主観と交換し合うことが、「主観的なもの」のなかに「より客観的なもの」を増やしていく必然性があったわけです。
中沢氏の考察は、この「使用価値(質)=主観」が「交換価値(量)=客観」に変換される前の段階、つまり「価値がそれぞれ固有の主観的価値(使用価値)として計量しがたい意味を持っていたときの「交換」の姿を、様々な観点から検証しているのです。
大自然の側からは、絶対に返礼を要求していない、母親の無償の愛と同じようなものであるという意味で、それはあくまでも「贈与」であるのですが、それを受け取る人間が与えてくれたものの価値を感じる限り、なんらかの「返礼」が必然的におきるわけです。
これはどこまでも、「経済的交換」とは言いがたい、「返礼」、「お布施」、あるいは祭壇への「捧げもの」といったようなもので、互いに計量できないもの同士で、それぞれ与えられたものと返礼するものとが等価であるかどうかは判断しがたいもの同士であるが、それが「魂」の交換といった表現で語られると、計量できないかもしれないが等価に近いものとしてバランスを取っていることに間違いはないことがわかる。
今まで、人間が経済行為以外に、なんらかのものと等価の交換をしていた社会があったとすると、多くは遠い古代社会の話であるか、未開社会の行為としてしか見られませんでした。
しかし、「価値」というものの本質を「主観的なもの」、個別具体的な「使用価値」としてとらえると、量や客観性に置き換える前の段階というものが、必ずしも未開社会特有の経済の未成熟段階のこととは言い切れない現実に気づき始めたように思えるのです。
そうしたことを中沢氏は、本書の目次の表現では
「すばらしい日本捕鯨」
「日本思想の原郷」
「バスケットボール神学」
「ゴダールとマルクス」
「バルトークにかえれ」
「新贈与論序説」
「ディケンズの亡霊」などの独立した小論で書いているのですが、この目次表現ではおそらく想像はつかないでしょう。
私も、最初もくじを見たときはそうでした。
しかし、読み始めると、その一見独立した小論それぞれが、どれも宝の山でした。
(けっこうたくさん仕入れたのですが、まだ店頭ではそれほど動いていません。)
経済行為以前に、自らが価値を感じた分だけ、その対象との間で自分自身の内のバランスがとれるように、なんらかの返礼を行う。
これがすべて「魂」の交換というものなのかどうかはわかりませんが、すごく納得できる論理です。
最近になって、私は特別の信仰心があるわけではないのですが、神社・仏閣に行くことがとても増えました。
その多くは、歴史への興味関心からだったのですが、いつからともなく神社にいったときは、大自然の生命力への感謝を強く感じるようになりました。
お寺にいったときは不安にくれる人間への慈悲の心に感謝するようになりました。
それが積み重なるにつれて、次第に、ただ手を合わせる(それすらも最近までしていませんでした)だけでは気持ちがすまなくなってきました。
こんな本を読んだこともありますが、今年の初詣では、お賽銭にお札を投げ入れるまでになりました。
それでようやく私自身の「魂」の交換のバランスが、少しだけとれるような気がするからです。
「贈与」とは、返礼をしたくなければそれでもかまわない。
価値を感じたらそれだけやればよい。
そうした関係で、なにも強制するものはありません。
しかし、その価値を感じたものを表現した返礼の分だけの、相手のバランスが保たれ、価値相応の関係が生まれるのを感じます。
この本、冒頭の「すばらしい日本捕鯨」のところだけでも、あるいは「新贈与論序説」のところだけでも
多くの人に読んでもらいたいと思っています。
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