引合茶屋とはなにか?『そんなに色っぽい茶屋ではない』と佐藤雅美は書いている。江戸奉行所の同心はたった二十人。これだけで江戸の警察業務は取り仕切れない。その下には手先、岡っ引き、下っぴきが計千六百人ほどいて、同心の下で働いていた。正規の役職ではないから給料はわずかだ。副業を持った者もいたがほとんどが“引き合いをつけて抜く”ことで収入を得ていた。“引き合いをつけて抜く”とはどうすることか。江戸の犯罪のほとんどが“窃盗”、泥棒である。泥棒は癖のもので、捕まるまであちこちで盗人を働く。あちらの店頭で商品が盗まれた、こちらの店で無銭飲食があった。さて、捕まった泥棒が、御白州で裁きを受けるとなると、被害者たちは皆で出頭しなければならない。一日がつぶれてしまい、同行する町役人にもいくらかの謝礼と供応が必要だった。額が大きければ話は別だが、大した被害でもないのにそれは勘弁してよ!と、張り切る岡っ引きには袖の下を渡して、穏便に事を済ませた。これが“引き合いをつける”ということである。しかも集まって采配する“茶屋”までが出来ていた。
高麗屋
新材木町の岡っ引き半次は、引合茶屋の高麗屋で用を済ませるとその足で常吉の営む小料理屋 瓢亭(ひさごてい)へ向かった。
高麗屋を出ると牧野家(切絵図では松平和泉守屋敷)の屋敷の正門前に抜けてもと来た道を海賊橋、江戸橋と渡り、さらにその先の伊勢町堀に架かっている荒布橋を渡ろうとして足を止め、くるりと踵を返した。
半次は、何処を歩いたのか?左やや下に「タカサゴシンミチ」の文字が
振り返るとそこは魚河岸である。江戸橋から日本橋までの、日本橋川北岸の、通りの両側には魚問屋、魚仲買、魚店がずらりと軒を並べていて、ここ石町(こくちょう)には江戸中から買い求めに人が集まる。このところの長雨で魚の入荷は減っている。魚河岸がいつもより活気がないように見えるのは、一つには魚の入荷が少ないせいかもしれない。半次はそんなことを考えながら、ぬかるんだ道を歩いて行って横丁を右に曲がった。
通りは両側とも本船町だ。続いて両側とも安針町(あんじんちょう)、安針町の背後はともに長浜町、さらに両側とも本小田原町とつづく。魚河岸という場合川岸の通りだけでなくこの一帯もさし、俗に日に千両の金が落ちるといわれている。半次は安針町にさしかかったところで左手の、高砂新道(たかさごじんみち)といわれている、両側に魚店、塩乾物屋、食い物屋などがずらりとならんでいる新道を左にまがった。二十軒ばかり入っていくと左手に魚店と乾物屋に挟まれた、縄暖簾を下げている一膳飯屋がある。夜は小料理屋に姿をかえるので縄暖簾の上には瓢亭と墨書きした軒行燈も掲げてある。半次は縄暖簾をかき分けた。