昭和37年5月発刊の“商連ニュース”より 『四日市祭り』は、稲葉桑太郎氏の記事を“旧四日市を語る”第五集に再掲載されたものであります。その2
上新町の上代人形
上新町の上代人形と東中町の謡曲人形、浜町の傘鉾は釣り練りであって三町内とも各々十数基の釣り練りを人夫が担いで歩きました。南納屋の明神丸と北納屋の勢州組、東袋町の正一丸は鯨船であって金色燦然と輝く鯨船が揃って牽き歩く姿は人目を奪ったものでした。
九六町の大名行列
行列では、比丘尼町と久六町の大名行列、南浜田の頼朝公の富士の巻狩り。北条町の魚行列でした。特に大名行列は、横浜港五十年祭の時に、懇願されて出張し、一等賞を獲得しました。
北条町の魚行列も珍しく、竹籠で魚の形を作り紙や布を貼って彩色してありました。大きなものでは家屋ほどあり、小さなものは三歳の子供がかむる小鯛に至るまで各種百種類あって子供に人気がありました。
北条町の魚づくし
それらの練りが26,27日の両日に全市を音曲入りで練り歩きます。学校も銀行もお休み、通りの商店も休業して表には幔幕を張り提灯を揚げます。店の間を片付け、敷物を敷き屏風を立てて来客には茶菓の接待をしました。奥の間では、酒肴を山積みして親戚や知己を招き酒宴を開いて、全市はお祭り気分一色になったのです。
しかし、昭和20年6月の空襲で、鯨船一艘と大入道を残して総ての練りは焼失しました。その後、人の出入りに加わって、世も世知辛くなり、往年のお祭り気分がしなくなったのは、誠に残念なことです。