答えは“連鎖街”でした。
昭和32年の聞き取り図(右が北になっております)
昭和43年のゼンリンマップ
1階は小さな間仕切りの店舗が並び、飲み屋さんが多かったようです。中央に階段があって、2階はアパートのように廊下があり小さな部屋が並んでいました。後年聞いたのですが、諏訪神社が焼け跡に、満州からの引揚者の方が一時住んでいた建物を買い受けたと聞きました。昭和31年の中日新聞さんの写真から、連鎖街の建物が望めました。
下総人さんからコメントをいただきましたが、昭和32年頃の聞き取りと、43年のゼンリン地図では、店舗に動きがあったようです。(聞き取りであるため不確実な点もございます)。
名古屋タイムスさんの記事を再々掲載させて頂きます。戦後の諏訪の街が良く出ています。
“聖なる教会”真ン向かい 紅い燈ともる特飲街 そのまた隣が幼稚園(昭和28年 名古屋タイムスより)
〇 諏訪連鎖街を昔は新田町といった。戦前、諏訪神社の境内だった土地に諏訪産業という会社が軍隊の払い下げの建物で建売りを始めたのが戦争直後、ボツボツ人も入り住んだが、一日で二人の通行人しかなかった日もあって最初に店を開いた人は泣いたそうだ。これが一期生。それから順次二期生、三期生、四期生となるころは今のような盛り場が出来上がった。それ以後は新入生と称するそうだ。現在(昭和28年当時)七十六軒、周辺は商店で真ん中の小道はノミヤが多く、客も社用族が多い。僕の家というのは、桑名町で同名の店を出して有名だった。主人は年うつり、いまやまるハゲとなった。ホセ(聞き取りマップにあった)とカルメンは同じ資本のバー、白菊、文楽(この二店も、ホセの通り、連鎖街に確認できる)はよくはやるノミヤ、特徴はヨルバイトをしないこと、だそうだ。街に立つ女もいないし、温泉マークも周辺にあるにはあるが青線的形態ではないらしい。その方の御用は専らこちらと港楽園、春告園という特飲街がある。両方合わせて40軒、女を不当にサクシュするとかいうのでしばしば手入れをされたアブレ赤線業、行き詰まりの狭い路地のズラリと並んで、気の弱い男はとても近寄れない。ほかに諏訪公園前に待合という名の特飲店が数軒、その前にはカトリック教会があり図書館があり幼稚園があり、まことによき対照をなしている。すなわち図書館の窓から干し物が望まれたり、幼稚園の子供が区域へ迷い込んだり、しばしば問題が起こるゆえん、もともとカトリック教会があったのを無理に赤線が出来たものらしい(昭和30年頃までは教会と赤線が並立していた)。かつて、立ち退け、いや退かないでゴタゴタがあったそうだ。(文・川太郎)
この写真はもう1本東の通りかもしれません。ナショナルの看板から、この通りには電気屋さんがったようです。床屋の木戸君に聞いてみます。