花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

一枚の写真 ⑯ 解決編

2024年12月30日 | レモン色の町

「答えっ 日本海員掖済会でーす」

「正解でーす。数年前、明治40年5月の地図を見た時、稲葉翁さんの旧四日市港の北側に錨のマークがありました。凡例には“掖済会”とあります」

「早速調べてみました。『腋(わき)から手を添えるという意味で、明治13年 前島密(ひそか)が、船員の医療や宿泊施設として立ち上げたのが掖済会である。』明治期までは海水浴というレジャーはなくて、海水に浸かる行為は医療用とされていました。四日市では、三滝川口の南岸から旧四日市港の防波堤にかけての砂浜が海水浴場として開かれた場所で、明治41年、この浜に海員掖済会の建物が出来たことから、市民は掖済会前の海水浴場と呼んで親しんでいた、とありました。

「名古屋に掖済会病院という名前で現在も存在しています」

「へえーっ」

「数年前、納屋プラザで航空写真を見せていただきました。大正13年10月12日撮影とあります。港地区連合自治会蝶さんが所有されていたもので、納屋プラザに展示してあったのです。」

「記録には、『大正6年5月、米国の飛行家アートスミスが、旧港とこの海岸を中心に曲芸飛行があり、のちに海軍の水上機が離水着水を演技したのもこの海水浴場の砂浜であった。』なやプラザで見せていただいた航空写真では、二枚羽の飛行機が浜辺に着水しており、多くの人が集まっていました。海員掖済会の洋風建物の隣には、船大工の造船所が望めます。この時気付いたのですが、掖済会の西側が真っ黒になっています。これは牧場です。そこでは乳牛が飼育されていました。牛乳は体に良いということが周知され始めた時代でした。」

明治44年の地図より この時には「掖済会」と書かれています

「大正5年に四日市でペスト騒動がありましたね。この時も掖済会は検疫所として大活躍していますね。」(文字をクリックしてご覧ください)

大正ペスト騒動① - 花の四日市スワマエ商店街

2021年8月1日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街

2021年8月2日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街

「岡野先生が中心となって編集された“旧四日市を語る”には、金津さんがおじさんのリヤカーで掖済会前の浜に“軍艦由良”の見学に来ています。大変興味深く読ませていただいたので、ブログに掲載させていただきました。」

2022年2月1日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街

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2022年2月5日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街

2022年2月6日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街

2022年2月8日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街

『大正後期になるとここは旧港の防波堤で潮流が澱むためか、ヘドロが多くなって海水浴に適さなくなった。』とありましたが、石灰工場の影響もあったのではと思われます。」

「掖済会周辺は、歴史的に見ても大変 興味深い地域ですね。」

「今年の2月、金津さんの足跡の潤田から掖済会までを辿ってみました。重複しますが、よろしければご覧ください」

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2024年2月13日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街

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一枚の写真 ⑯ 問題編

2024年12月29日 | レモン色の町

四日市市立博物館発行 写された四日市 より

ヒントなし!伊勢湾に浮かぶ 帆船に人が立つ 左の建物 なーんだ?

<押し付けユーチューブ>リカルド・サントス楽団の 真珠とり これまた懐かしい!

Bing 動画

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一枚の写真 ⑮ 解決編

2024年12月28日 | レモン色の町

辻俊文さんが撮った写真 昭和32年11月10日 19時頃か 当店西にあった 北京飯店  テイクアウトのまんとう しゅうまい の看板 ここは二階にも客席があった。西隣は 笹井屋 奥はレストランだ

 昭和43年のゼンリン地図

下総人様御用達の自作マップ

我が家の横で 猫を抱く自分 この奥左に早川薬局 その奥 西隣が北京飯店と笹井屋と並ぶ

当店前から北 諏訪神社に向かってのスワマエ通り

31年夏まつりのスワマエ通り

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一枚の写真 ⑮ 問題編

2024年12月27日 | レモン色の町

ここは昭和何年の何月何日の何処でしょう?ヒントは看板に、あるが、よう分わからん!

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一枚の写真 ⑭ 解決編

2024年12月25日 | レモン色の町

明治29年設立の 四日市商業学校です。明治49年にドイツ人技師の設計で浜一色に新校舎が建設されました。空襲に遭い その後、塩浜の第二海軍燃料所跡に移転、現在は尾平町の高台に建つ四日市商業高校が現在の姿です。<市立商業学校>で合っているのか?

市立商業学校 があった - 花の四日市スワマエ商店街

真ん中に三滝川 右に商業学校が位置します その上あるのが 天聖院さんです 明治44年の地図

現在の天聖院さん

天聖院さんの裏庭にある空襲で焼けた木

ついでに 戦後商業高校が移転していた 第二海軍燃料廠のことも紹介させていただきます。

四日市漫歩マップ⑯第二海軍燃料廠 - 花のマエ商店街

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迷子のわたしは、諦めることもうまくいかない

2024年12月24日 | おいらの商店街

あすなろう鉄道の列車が行ったあとに、四日市で見つけた心の乗り換え、

四日市市内ロケ決行! 12月29日 日曜日16時05分より中京テレビでスタート!

休憩所にしていただいた当店で、四日市弁を勉強していただきました。是非ご覧ください!

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一枚の写真 ⑭ 問題編

2024年12月24日 | レモン色の町

さて、クリスマスイブ 本日の問題は?博物館発行の「写された四日市」山田正次様蔵より

田んぼの向こうに見えるのは?

拡大すると 田植えをする人の向こうに 大勢の人が歩いています 白い制服で 学校のようです

さて何時頃で 何処の学校でしょうか?

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一枚の写真 ⑬ 解決編

2024年12月23日 | レモン色の町

昭和29年頃ですか、遠くに諏訪駅の駐輪場?の屋根が見えます。

左に立つのは 諏訪駅取り壊しの看板ではなかったでしょうか?そうであれば真ん中で記念写真を撮る人の姿も納得できます。

諏訪駅は人込みで確認はできません。右の建物は公衆便所で、入口が二つあります。これは駅の便所だったのでしょうか?それとも向かい左手のスワマーケットの便所だったのでしょうか?手前の看板は、諏訪劇場前の角にあった諏訪花園さんの看板です。便所の西隣に看板の骨組みが見えます。昭和30年6月20日の辻俊文さんの写真では、紅屋さんの看板になっていますので、これより少し前、昭和29年ということにいたしました。

逆方向になります

おもしろいものを見つけました。こちらへ歩いてくる女性の傘の先です。向こうの便所の入り口に籠(かご)のようなものが置いてあります。向かって左の入り口ですから、女子便所の入り口でしょう。

勝手の良い想像をすると、新聞紙ではないでしょうか?当時は新聞紙をよく揉んで使いました(ちゃうか?)。新聞紙は万能で、店の包装紙にも使われたものです。

まちの入り口だった諏訪駅も 昭和31年9月に廃止されることになりました。手前には新しいホームができつつあります。中央に川村鉄工所。左端に諏訪神社の本殿。上を通るのは、国道1号線。その先 左には 諏訪新道の入り口が見えます。

 

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一枚の写真 ⑬ 問題編

2024年12月22日 | レモン色の町

これも水谷宜夫さんからお借りした写真です

大勢の人で賑わっています。雨上がりかな? 傘を持つ人が通ります。中央の女性は 財布を開けて向かいの人にお金を渡しているようです。右側の看板「花と植木・・」の文字は消させていただきました。看板の立つこの建物は何でしょうか?さて、ここは 何時の何処でしょう

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一枚の写真 ⑫ 解決編

2024年12月21日 | レモン色の町

昭和31年9月23日 近畿日本鉄道は、短絡化することで諏訪駅を廃止します。諏訪駅に変わって新しい近鉄四日市駅が出来たことで、中央通りを挟んで二つの四日市駅が対峙することとなりました。結果、四日市の玄関であった国鉄四日市駅は衰退することとなります。駅前の角にあったレストランコトブキさんは、昭和35年4月に完成した新しい国鉄四日市駅舎の2階に移ることとなります。

駅前 レストランコトブキさんの1階入り口には、従業員らしき人が立ち 両手を広げてポーズをとっています。中は二人の女性が話をしている様子です。

2階は、植栽が置かれ食堂になっていますね。レストランの賑わいが伝わってきます。ジョッキの形のアサヒビールのネオンサイン

夜の賑わい 噴水がありました 大勢の人が夜の涼を楽しんでいます

コトブキさんの向かい、西側は三和商店街になっていました。昭和43年のゼンリンマップですが、昔の店舗の並びを紹介しておきます。

マップの上が北で 本町通り商店街になります

三和商店街は、現在、ほぼ解体されて駐車場となっています。

フロク:スキねぇ

【荒木一郎氏:空に星があるように】トワ・エ・モア(白鳥英美子さん)の歌で聞く昭和の名曲:是非、概要欄もご覧ください。

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