乙「答えっ 日本海員掖済会でーす」
甲「正解でーす。数年前、明治40年5月の地図を見た時、稲葉翁さんの旧四日市港の北側に錨のマークがありました。凡例には“掖済会”とあります」
甲「早速調べてみました。『腋(わき)から手を添えるという意味で、明治13年 前島密(ひそか)が、船員の医療や宿泊施設として立ち上げたのが掖済会である。』明治期までは海水浴というレジャーはなくて、海水に浸かる行為は医療用とされていました。四日市では、三滝川口の南岸から旧四日市港の防波堤にかけての砂浜が海水浴場として開かれた場所で、明治41年、この浜に海員掖済会の建物が出来たことから、市民は掖済会前の海水浴場と呼んで親しんでいた、とありました。
乙「名古屋に掖済会病院という名前で現在も存在しています」
丙「へえーっ」
甲「数年前、納屋プラザで航空写真を見せていただきました。大正13年10月12日撮影とあります。港地区連合自治会蝶さんが所有されていたもので、納屋プラザに展示してあったのです。」
甲「記録には、『大正6年5月、米国の飛行家アートスミスが、旧港とこの海岸を中心に曲芸飛行があり、のちに海軍の水上機が離水着水を演技したのもこの海水浴場の砂浜であった。』なやプラザで見せていただいた航空写真では、二枚羽の飛行機が浜辺に着水しており、多くの人が集まっていました。海員掖済会の洋風建物の隣には、船大工の造船所が望めます。この時気付いたのですが、掖済会の西側が真っ黒になっています。これは牧場です。そこでは乳牛が飼育されていました。牛乳は体に良いということが周知され始めた時代でした。」
明治44年の地図より この時には「掖済会」と書かれています
乙「大正5年に四日市でペスト騒動がありましたね。この時も掖済会は検疫所として大活躍していますね。」(文字をクリックしてご覧ください)
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甲「岡野先生が中心となって編集された“旧四日市を語る”には、金津さんがおじさんのリヤカーで掖済会前の浜に“軍艦由良”の見学に来ています。大変興味深く読ませていただいたので、ブログに掲載させていただきました。」
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『大正後期になるとここは旧港の防波堤で潮流が澱むためか、ヘドロが多くなって海水浴に適さなくなった。』とありましたが、石灰工場の影響もあったのではと思われます。」
乙「掖済会周辺は、歴史的に見ても大変 興味深い地域ですね。」
甲「今年の2月、金津さんの足跡の潤田から掖済会までを辿ってみました。重複しますが、よろしければご覧ください」
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