花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

市井からの眺め 国産振興成功の秘訣は?

2020年04月17日 | レモン色の町

二・二六事件が起こり、軍の政治介入が一層強まってきた昭和11年の3月25日から5月13日までの50日間、“国産振興四日市大博覧会”が開かれた。『新視点 三重県の歴史 毎日新聞社刊』 より

 四日市港施設完成の事業として、国産振興・輸出の進展を目指して行われたもので、当時の市の一般会計に匹敵する70万円という巨額の費用が投じられた。入場者数は当初予想の40万人を大きく上回り、約125万人という大盛況となった。

 さて、富くじではなくて、何を目玉に客を呼んだのか?

 四日市商工会議所を母体に組織された協賛会には、総予想額の30%が充てられ「余興部の事業が博覧会中最も華やかなる部門を代表せるもの」として協賛額の54%を割いた。国際演芸場(別途 有料)のプログラムには「埃及(エジプト)人ハジアリーの謎の胃袋」「米国人ビーカイル嬢の空中よりの大飛び込み」(高い梯子の上から、油に火がつけられた桶に飛び込んだ。どうやらマジックではなかったようだ)「露西亜(ロシア)人イワンカロロフの怪力」「インディアンバーンの大危険術」「名犬の学術的実験と曲芸」と記録されている。まだまだ外人が珍しかった頃である。

 もう一つの誘客の目玉として「生鯨館」があった。和歌山県太地町と提携して長さ3メートルと2メートルの鯨二頭を持ってこようとしたが輸送途中で死んだ。会期半ば過ぎに再び2頭運び込まれたが、またまた到着までに死んだので、このまま観覧に供し4万人近くが入場したと報告されている。

以前、知人が死んだ鯨を見たと言っていたが腐臭がすごかったそうだ。


市井からの眺め 富くじ

2020年04月15日 | レモン色の町

大正11年の“平和記念東京博覧会”。来場者が1100万人と『大賑わい』の評判だった一方、東京日日新聞には『例の福引を無茶苦茶にやり、欲で入場者を釣ろうとする算段、どうせ警視庁御免の富くじ式』とあり、集客目当ての苦肉の策。現金抽選会で数万円を手にする人もいたようだ。

 天下の博覧会に泥を塗る卑劣な手と思っていたら、昭和27年開催の“講和記念四日市大博覧会”でも抽選会はやっていた。

 『前売り入場券に抽選券を添えたことは、最近多く用いられる商法であって、一般大衆の関心も強く反映しているので今回もその方法を採用して、その購入意欲の高揚を図ったのである』

 予算を1500万円計上したが好評につき景品が追いつかず、出店者から寄付を募っている。当選は品物で東京に比べるとおとなしい。

1等 優待乗車証付(近鉄・名鉄・三交)2千株

2等 A賞:北海道温泉空の旅御招待、精米機

   B賞:高級電蓄、高級ミシン、冬外套、嫁入道具、脱穀機、茶箪笥

3等 熱海温泉アベック御招待、純毛洋服地、藁切機、焼酎1甕、豚1頭

4等 A賞:定期預金(千円)、醤油5升、噴霧器、ナイロン手提袋

   B賞:醤油3升、婦人サンダル、旅行用セット、茶摘鋏、過燐酸石炭

5等 タオル、日本手拭、ほうじ茶、高級石鹸

6等 記念品

 急遽、出店者から景品を募った様子が出ている。豚1頭貰ってどうするのだろうか?


市井からの眺め 博覧会大好き日本人②

2020年04月14日 | レモン色の町

四日市港の第2埋立地ができた昭和11年、企業誘致のために国産振興四日市大博覧会が開催され、そして戦後の復興に見通しが立った昭和27年には講和記念四日市大博覧会が開かれた。

博覧会大好き日本人!ある時は、国の繁栄を祝い あるときは振興を願って博覧会が開催されている。帝都東京では大正3年の東京大正博覧会、大正11年の平和記念東京博覧会が、上野と不忍池周辺で開かれた。

第一次世界大戦終結後の平和を記念し、日本産業の発展に資するため開催された平和記念東京博覧会は、大正バブルがはじけ長い不況に入ろうとする大正11年3月10日から7月31日まで開催、来場者は約1100万人と空前の人出になった。(四日市の講和記念大博覧会の約10倍)しかしこれは、入場者を増やすため福引を付けるという苦肉の策の結果である。

第一会場には、染色館や平和館、化学工業館、農産館、美術館が並び、第二会場には、外国館や北海道館、樺太館、満蒙館、朝鮮館、台湾館が設置された。四日市の博覧会と同じく時代背景が色濃く出ている。

樺太館

蚕糸館(兵隊が目に付く)

呼び物となった「文化村」では、あめりか屋などによる中流階層向けの住宅14棟が展示された。販売価格は6千円台、当時の年収の4~5倍で求めやすい価格だった。ここから文化住宅という言葉が広まったと言われる。

文化住宅の展示

              <ウィキペディアより>


市井からの眺め 博覧会大好き日本人①

2020年04月13日 | レモン色の町

博覧会大好き日本人。欧州では第1次世界大戦が起き、日本はドイツに宣戦布告を行った。つかの間の好景気が訪れた大正3年、東京大正博覧会が3月20日~7月31日まで、当時の東京市の上野公園地をおもな会場として開催された。入場者数は、およそ750万人。

 会場内では芸妓の存在が目立つもののひとつとなっており、「博覧会新曲の題目や出演者、稽古の様子の写真、博覧会 出演をめぐる芸者組合同士の争いなど」が盛んに新聞で報じられた。芸妓たちは場内の演芸館に出演したほか、園遊会などにも姿を見せ、これを捉え、また後述の美人島旅行館の存在も踏まえて、この博覧会を「美人博覧会の観」があると批判する議論もあった。

正門

 美人島旅行館は、第一会場の中心に設けられており、「美人百名募集」の呼びかけに応じた女性たちが、様々な趣向で扮装し展示、コンパニオン(「女看守」と称された)として接遇にあたった。女性たちの中には「教育あるハイカラ婦人」も少なからず含まれていたとされ人気を博したが、展示の「幼稚」さや、性的な色彩を批判する議論もあった。

 この博覧会では伝染病研究所などが出展した衛生経済館もあったが、これとは別に、二六新報社による通俗衛生博覧会が設けられ、人体の臓器などの実物標本や、模型類、写真等が展示された。中には、東京帝国大学医学部から貸し出されたという「高橋お伝の全身の皮膚」なども展示されていた。

会場内風景

 第一会場と第二会場を結ぶエスカレーターは、「秒速1尺」の速度で動き、料金は10銭であった。高さは10mほどあったと推定されている。来場者の数を増やすためには、見世物的な興行が必須と考えたのだろうか。四日市もこうした東京の博覧会に大いに刺激を受けたはずであるが、子供をターゲットにしたりで、ずっとおとなしかった。そういえば幼少のころ、公会堂で開かれた展示会では、アルコール漬けにされた刺青の皮膚の展示を見た記憶がある。  (ウィキペディア より) 


市井からの眺め 27

2020年04月11日 | レモン色の町

大協石油火災の時は、四日市幼稚園の前で 空へ上る真っ黒な煙を呆然と眺めていました。四日市高校が甲子園で優勝 とか 中部中学校の近代的校舎が完成とか 記憶に残る身近な事柄になってきました。

赤線廃止が33年でした。それから2年後、赤線だった後楽園(訂正:港楽園)跡を縦断して塾へと通っていました。当時は近鉄百貨店の建設工事が始まるころで、映画「ベンハー」が四日市シネマで封切られた時でした。

昭和31年の空撮

 


商店街 これからの役割

2020年04月08日 | 諏訪商店街振興組合のこと

中小企業庁からこんなチラシが届いた

2月初旬から起きた新型コロナウィルスの災禍は、街を変えるのではないかと思われるほどの影響を及ぼしています。

ややもすると自分自身が、街の存在に自信が持てなくなりそうです。稚拙ブログ「市政からの眺め」を作りながら、自問自答を繰り返してきました。街づくりには、先人の方々のご苦労があった。しかし、商店街は必要なのか?コンビニとイオンさえあれば不自由は無いのか?・・・などと。

そうした中、諏訪振興組合では新年度から全国中小企業団体中央会の「課題対応支援事業」に取り組むことになりました。耐震対策のため駐車場の建て替えの必要に迫られ、皆様の意見と駐車場の将来像、そして採算面の検討を行うことになっています。周辺住民の皆様のことを考えると、駐車場のみの考えでは狭く、街の在り方を含めた形で進めていく必要性を感じました。

街は、わたくし達にとって 本当に必要でしょうか?新型コロナの災禍で、街の存在が危機に陥っている今こそ、駐車場再建を含めた形で「課題対応支援事業」に取り組みたいと考えます。

皆様のご協力、よろしくお願い申し上げます。


市井からの眺め 26

2020年04月07日 | レモン色の町

昭和26年から28年までをまとめてみました。(市政80周年記念 四日市のあゆみより)ひたすら復興に向かう様子が年表から伺われます。26年2月の駅前大火は、国鉄駅前であったことに気づきました。当時はまだ諏訪駅でしたから。27年開催の博覧会に出品された平和の女神像は、中央ロータリーの中心に立てられます。そして、やはり四日市には港の発展が欠かせません。

昭和26年 昭和天皇の巡幸

昭和31年 海軍燃料廠での撤去作業の様子


市井からの眺め 25

2020年04月05日 | 諏訪商店街振興組合のこと

昭和20年6月から7月にかけ 四日市は空襲で焦土となる。早朝 米軍の飛行機が市街を撮った。朝日に反射した屋根が白く光っている 下では瓦礫の方付けに追われているのか 疲労困憊しているのか 分からない。札ノ辻あたり 中心市街地の被害が特に目立つ。

店を守るために祖父と親父は四日市に残った 片付けが済んで 再開できるようになったら 疎開先から皆を呼び戻そう 二人はそう考えながら 木材をかき集めていたに違いない

街はすっかいり焼け野原となったが 嘆いていても始まらない 市民は飢えと闘いながら 立ち上がった

軍の土地を利用して民間企業が再建される 軍からもらい受けた資材を使い学校が建てられる 諏訪新道の拡幅工事が始まり 四日市の中心市街地が造られていく 生活用品を求めて周辺の人々は街へ集まってくる

現在のスワセントラルパーキングあたりから東に撮られた写真だ。道の左にはサナダヤ・鈴木屋 南側には岡田屋・靴のナゴヤ屋堂が並ぶ ここは四日市で1番の通りとなる


市井からの眺め 24

2020年04月04日 | レモン色の町

元気だった四日市の産業は、戦況が悪化するにつれ、目に見えて弱体化が進んだようだ。事業所の合併が進み国の方針に従わざるを得なくなる。昭和18年 平田漁網は織物機械を軍に供出している。昭和18年5月、午起海岸(海水浴場)で起工式を迎えた浦和ドッグは、木造の造船所だったので、空襲の際には、火だるまとなった船の形が、まるで仕掛け花火のようだったという。当時の起工式の様子(写真集 四日市の100年より)

浦和ドッグ起工式の様子

しかし、終戦になるや復興への息吹が沸き上がる。日本肥料㈱四日市工場は、海軍燃料廠跡に工場を立ち上げることとなる。

国道1号線の拡幅工事は、昭和17年に三滝川から諏訪神社まで進められていた。空襲後の航空写真を見ると一目瞭然である。