花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

市井からの眺め71関西鉄道①

2020年06月15日 | レモン色の町

話は明治の頃にさかのぼる。明治20年〜30年代、関西鉄道(かんせいてつどう)と官営鉄道(国鉄)は、乗客獲得をめぐって激しい攻防戦を繰り広げた。

 明治40年 関西鉄道路線図

関西鉄道のそもそもの起こりは、桑名・関・土山・草津と、江戸時代の旧東海道沿いに施設された鉄道であり、近江・伊勢の筋金入りの商人たちが後押しした鉄道であった。果敢に路線を延ばしていった経営陣や株主たちのなかには、江戸期のメインストリートで商いした根性が息づいていたともいえるのである。

「日本鉄道物語」橋本克彦著 講談社文庫より 

官営鉄道が関ヶ原廻りとなって、幕府と同様に凋落してしまった旧東海道沿いの素封家たちは、あるいは暗に、官営鉄道をへこませてやりたいという切ない感情を、へそのあたりに抱いていたのかも知れないのである。

 

明治33年秋、イギリスのナスミス・ウイルソン社製A8系の機関車は、四日市で島安次郎を乗せて、暮れかかる大和路を西へ疾走していた。

※ 下総人さんからお借りした本を参考にさせていただきます。感謝!

 


市井からの眺め70弾丸列車⑳

2020年06月13日 | レモン色の町

JR東海の会長(平成6年当時)であった須田 寛氏は、前間孝則著の「亜細亜新幹線」の最後にこう寄稿している。

昭和17年頃の計画内容からみても「弾丸列車」の延長線上に東海道新幹線が位置していることが明らかである。戦争によって挫折した「弾丸列車」ではあるが、その工事ですでに日本坂トンネル(静岡県、延長約2km)は完成し、新丹那トンネルも東西両口から1km近く掘り進んでいた。これらの遺産は今日の東海道新幹線で使用されており、延長約100kmにわたって買収が終わっていた用地も東海道新幹線に活用され、同新幹線の早期完成に大きい役割を果たした。この意味では、「弾丸列車」計画は、東海道新幹線史の第1ページを飾るものといっても過言ではない。

そして、昔から、大きいプロジェクトの完成には三つの要素に恵まれることが必要だといわれる。

『天の時』とは経済の高度成長期に当たり、交通機関にもより高度なシステムが求められるようとする時期に新幹線がちょうど遭遇し得たこと。また昭和39年10月のオリンピック開催も東海道新幹線にとってはまさに「天の時」だったといえよう。

『地の利』とは東海道ベルト地帯というわが国のもっとも人口・経済集積の高いところに立地することから発揮される高速鉄道の優位性と経済性、効率性である。

『人の和』については、「弾丸列車」も「東海道新幹線」も、有能な人材の結集が計画策定と実施に大きく貢献した。なかでも「弾丸列車」から携わった故 島 英雄氏の功績は特筆されよう。そして、大プロジェクトの完成までには財務基盤を固めることもさることながら、技術力、なかんずく人材の結集がいかに決定的な意味を持つか、「弾丸列車」から東海道新幹線に至る日本の鉄道近代化の軌跡はこのことを如実に物語っているといえよう。

今や全国に伸びる新幹線の種は、遠く明治の関西鉄道に勤める島安次郎氏の時代から蒔かれていたのですね。

 


市井からの眺め69弾丸列車⑲

2020年06月12日 | レモン色の町

昭和17年、大東亜共栄圏建設の号令で、新幹線構想は単に日満支三国にとどまることなくインド以東、南太平洋も悉く含めた、広域経済圏を意味することとなった。タイとビルマの国境付近に鉄道を敷く映画「戦場にかける橋」は、ちょうどこの頃、昭和18年のお話である。

 しかし昭和19年頃になると、15カ年にわたる長大な国家計画でもあった新幹線構想も、もはやそれどころではなかった。南方戦線では相次ぐ玉砕で後退に次ぐ後退に強いられ、次第に追い詰められて、日本という国家そのものが存亡に危機にさらされていた。

島英雄も述べている「姫路以遠となると、東京から順繰りに綿密な計画を作っていたために、そこまではいかないうちに工事は中止になった」https://blog.goo.ne.jp/hotokeya/d/20200527 5月27日のブログより

 

権田良彦事務官は、当時を振り返ってこう述べている「戦後の新幹線がなぜあんなにスムーズにいったか。それは戦争も押し迫っていた時に、用地をずいぶん買収していたからです。それも重要な箇所を重点的に買っていましたから。それと、土地の買収は現地の建設工事事務所が部下を使って、鉄道の拡張工事ということで進めていったから、地主は新幹線のためとは知らないはずです」

用地買収は、戦時下の「国民総動員体制」が叫ばれるなか、「お国のため」の号令で強制的に進められたのだった。


市政からの眺め68弾丸列車⑱

2020年06月10日 | レモン色の町

昭和15年の「鉄道幹線調査委員会」で発表された幹線ルートについて竹内外茂氏は話している

「その当時、こうあるべきだと思って、やろうとして出来なかったことは、予定していた電気機関車から『蒸気機関車にしろ』と変更されたことと米原ルートに変えたことですが、この二点を除けば、現在の新幹線は我々が当初計画した構想の“生き写し”ですよ」と話す。

そして、完成予定である15年先の昭和35年を見込んで作られたダイヤには、

東京を6時20分に出発した特急列車は9時間後の3時20分に下関に到着、50分の待ち合わせ時間を経て連絡船に乗り換え、7時間半をかけて深夜の11時40分に釜山に入港する。再び50分の待ち合わせ時間をへて朝鮮鉄道に乗り換え、京城に着くのは東京からちょうど丸1日たった2日目の午前6時20分である。10分間停車したあと、黄海に沿ってさらに列車は北上して、満州との国境駅、安東に着く。ここで税関検査の為30分間停車し、その後、満鉄の路線に乗り入れる。

やがて、奉天には、この日の夕方6時に到着し、10分間の停車中に列車は2つに分割される。北へ向かう列車は、満州国の首都である新京には同日午後9時45分に到着する。一方奉天から南下する列車は、ここで中国の国境へと向かう高新線へと乗り入れる。やがて渤海に出て、遼東湾沿いに走ると、国境の駅 山海関に着く。ここでやはり税関検査の為30分停車し、その後中国の華北交通線に乗り入れ、しばらく走ると終着駅の北京に3日目の午前7時30分に到着する。

建設に必要な規定などほぼ決まり、いよいよ、新幹線は着工されようとしていたが、日本を取り巻く情勢は一段と緊迫の度を増していた。

 


市井からの眺め67弾丸列車⑰

2020年06月07日 | レモン色の町

昭和14年11月6日、第4回鉄道幹線調査会が開かれ、島安次郎は説明時間の半分以上を広軌問題について述べた。明治以来、彼の持論であった広軌論(1435mm)は、国際的見地からも当然のことと認識されるようになってきている。島安次郎は、広狭軌の工事費がほとんど変わりないことを強調したうえで「広軌となすにおきましては、速度の点において、特急列車所要時間を東京大阪間四時間半、東京下関間九時間程度に得らるるとのことでありまして、ダイヤ作成上におきましても、きわめて好都合となり、朝東京を出発すれば、翌日の夕には新京に到着することも不可能ではないことになるのであります」

ところが、この時点でも未だに決定されていなかったのが、名古屋と京都間ルートであった。弾丸列車⑭でも述べたが、技師の竹内外茂氏はこう語る「幹線調査会として当初予定していたルートは、名古屋から四日市へ行って、それから延長二十三キロのトンネルで鈴鹿山脈を突き抜け、三上山という近江八幡の手前で大津へ出て京都へ行くルートを計画していた」ところが、鉄道大臣の永井柳太郎から横やりが入った。「石川県出身の永井さんが鉄道大臣になったばかりに米原ルートになってしまった。米原なら北陸がぐっと近くなる。わたし(竹内)も石川出身なのだが、しかし米原周りだという手はない。だって、二、三十分も遠回りになるのだから絶対に四日市ルートをとるべきだと言ったんだがね」

そして、幹線調査課内では京都抜きの意見も出されている。「名古屋から大阪へ行くには京都へ寄らないほうが早い」ということで、早々とそのコースでトンネルを掘った。その廃墟が京都南に残っているそうであるが、どこだろう???

竹内は現在の新幹線と比較してこう述べている「我々が計画していた二十三キロの鈴鹿トンネルがもし出来ていたら、現在、米原で雪に悩まされて遅れることもなかった。名古屋で氷を落とす手間もはぶけた」。鈴鹿トンネルで直接京都に結ぶプランは「昭和三十九年開催予定の東京オリンピックに間に合わなくなる」ので工事期間の短い米原ルートに決まった。

 


市井からの眺め66弾丸列車⑯

2020年06月06日 | レモン色の町

特別委員会は、昭和14年8月23日に第6回が開かれ、島安次郎は多忙な日々を送っていた。この頃、ドイツは日独伊の三国同盟を提案してきているが、日本が、軍と外務省の間で侃々諤々の議論をしているうち、突然8月23日に、独ソ不可侵条約を結んでいた。ソ連の戦力が東アジアに集中しやすくなった訳である。

この年、1月5日発足の平沼騏一郎内閣は「欧州の天地は、複雑怪奇なる新情勢を生じたので、従来準備し来った政策はこれを打ち切り、更に別途の政策樹立を必要とするに至った」と述べ、わずか半年で辞任解散した。

この年の5月12日、満州国とソ連やモンゴル(外蒙)との国境で紛争が勃発している。ノモンハン事件である。関東軍はソ連を甘く見ていた。欧州方面から数千キロ離れた土地へ、シベリア鉄道で軍を移動させるのは時間がかかると踏んでいたのだ。ところがその規模とスピードは軍の予想をはるかに上回っていた。

結果は惨憺たる状況で、軍の威信に傷をつくことを恐れ、敗戦の報は、終戦の昭和20年以降まで発表されることはなかった。広軌であるシベリア鉄道の威力によるところが大きかったのだ。皮肉にも、これは広軌を主張する幹線特別委員会にとっては有利だった。

昭和14年の日本は、ソ連との衝突だけでなく、ベトナム国境の海南島でも小競り合いを起こし、7月25日アメリカから日米通商条約破棄の通告を受けている。

ブログ「懐かし通り 郷愁倶楽部」より 画像盗みました スンマセン

激動の昭和14年、8月30日には特別委員会の第7回が開かれた。そして、短期間で変わる内閣に向け、中間報告会を開いた。

9月1日、ドイツはポーランドへ侵入、第二次世界大戦の勃発である。

 

 


市井からの眺め65弾丸列車⑮

2020年06月05日 | レモン色の町

明治40年、関西鉄道が国有化されるとともに逓信省へ移った島安次郎は、大正7年 国会で広軌論を主張し敗北、退社する。その後、東京帝国大学講師(この時、長男の島英雄は父親の講義を受けている)、南満州鉄道の筆頭理事・社長代理を務め、車両製造メーカーである汽車製造の社長に就任する。

そして、昭和14年鉄道大臣の諮問機関として弾丸列車計画のための『鉄道幹線調査会』特別委員会の委員長に任命されることとなる。なぜ広軌論を主張する島に、国は委員長にしたのか?おそらく、広軌やむなしの雰囲気があったのではと思われる。鉄道のプロ11名により構成されている特別委員会は、計12回開かれた。69歳になる島安次郎にとって、広軌論の最後のチャンス、策定調査費にお金をかけて慎重に進めたいと思っていたのだろう。不眠不休で膨大な資料に取り組むこととなる。

長男の島英雄氏

その中身は、これまで提出された日本や大陸における輸送量の変化、路線の行き詰まり予想。江戸時代からの東京の変遷、内容は人口の増加や分布、道路や町の変化、鉄道の増設、鉄道政策の変遷。先の諸外国の鉄道事情。超鉄道列車に伴う鉄道技術、電化、信号、トンネルほかの諸施設の変遷と現状。参考にすべき諸外国の超高速鉄道の技術の実情。法規上の手続き、路線ルートにあたる地主、現存物、利権。通過する各都市の人口や輸送量の実情。今後の予測。新しく建設する停車場()構想。周辺の問題から、朝鮮海峡の調査、港湾施設、連絡船の増強計画。悪戦苦闘した世紀の大事業丹那トンネルをもう一本掘ることに伴う問題。幹線鉄道とはこうした膨大で総合的な調査、見通しを行った後に、取り掛かる判断が下されることになるのだ。国の諮問機関で委員会が開催される昨今ですが、これだけの徹底した調査のもと決定が下されているのだ、と政府を信用しています。

Web「貴重映像!満鉄「あじあ号」の機関車が動いた」 より

 


市井からの眺め64弾丸列車⑭

2020年06月03日 | レモン色の町

昭和7年に鉄道省に入った竹内外茂技師は東大工学部機械学科に入学している。島安次郎の長男 島英雄の7年後輩である。彼は“弾丸列車計画”を初期のころから担当することとなる。

昭和の初めころから、東海道線は輸送量の増加で飽和状態が読めていた。加えて陸軍の大陸進出である。清水トンネルと丹那トンネルが相次いで開通した昭和9年「関西線と東海道線のほかにもう一本、伊勢の桑名あたりから京都へ抜ける(鈴鹿越え)鉄道があってもいいのでは」という案が出され、東京大阪間にもう一本増設しては、いっそのこと高速列車で北京まで伸ばしてはということになった。

この頃、満鉄の『あじあ』号は高速列車をより身近なものにしていた。竹内は島英雄とともに『あじあ』号の調査に赴く。「国鉄の最高速度だった『燕』がまだ百キロも満たないのに『あじあ』号は百二十キロから百三十キロを出した。“やりやがったな”ということですよ」竹内 談。

そして、国内の狭軌と大陸の広軌論争に及ぶ。朝鮮海峡をトンネルでつなげば、広軌の列車そのままで大陸とつなぐことができる。昭和13年には関門海峡トンネル(世界初の海底トンネル工事)に着工しており朝鮮海峡トンネルも実現可能だということだった。

「内地から大陸へという考え方は、東海道の行き詰まり調査を始めるとき、鉄道部の上層部の局長クラスにはすでにあった、我々には直接伝えてはいなかったが、言い方として“北京まで”としていた。それではどうやるのか。大陸への一貫輸送ならば、連絡船で行き来していたのでは時間がかかってしょうがない。関釜連絡船が走っている下にトンネルを掘って鉄道を通すのが最良の方法だということになったのです」

島親子の弾丸列車計画への挑戦が始まる。

 


閑話休題 イザベラバードの旅②

2020年06月01日 | レモン色の町

宮本常一氏は「日本奥地紀行を読む」でこう書いてみえます。

プライバシーがほとんど問題ではなかったということは、逆にお互いが安心して安全な生活が出来たということです。我々の生活を周囲から区切らなきゃならない時には、すでに我々の生活が不安定になっているということです。

また、イザベラバードが、各地を訪ねていたるところで書いていることは、店が開け広げているということです。日本の店とは“見せる”ことだったのです。それは品物を見せるだけでなく、仕事を、作っているところを見せた。見ると安心して買えたし、声もかけられたわけです。

戦後、物はウィンドウへ並べられて、人間が奥へ入り込んでしまう。その時に日本の伝統工芸が滅び始めたのだと思うのです。自分たちで作っているところを見せなくなってしまい、見せないことが良いことだと思い始めた。小ぎれいに作った商品が店先に並べられ、ショーウィンドウ時代が続いていくのです。

ところがこれが少し破れ始めています。日本で古い食べ方を残したのがにぎりずしで、調理しているところを見せたほうがよく売れるようになってきた。すると、物を売る場合でも同じことが考えられるのではないでしょうか。

これから先、もう一度元のような店が復活し始めるのではないか。少なくとも小さな店の場合、こうした日本人の中にある人間関係を抜きにしては成り立たないのではないかと考えるのです。

工房型店舗が見直されていることは事実です。ところが今回のコロナ災禍で、人と人との接触に黄信号が出ました。けれど、安全信号の出る時代は近いうちに必ずやってきます。工房型で人と人との交流が生まれるような店舗が、小さなお店にとって武器であるのかもしれません。まちゼミもまた、その一環だと思います。