花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

四日市の中世城館⑥鵜之森

2022年03月18日 | レモン色の町

浜田城址 その二

浜田城址の鵜の森神社

醍醐天皇の時代に、俵藤太秀郷(たわらとうたひでさと)という有名な勇士がいました。大織冠(だいしょくかん)藤原鎌足の末裔(まつえい)、阿部左大臣 魚名公(うおなこう)から五代の孫、従五位の上 村雄朝臣(むらおあそん)の嫡男でした。14歳で元服、その名を藤太秀郷と称しました。秀郷は若い頃から朝廷に仕え、下野国(しもつけのくに)の領主となりました。父の藤原村雄は「我が家には、鎌足大臣から伝わる霊剣がある。もう私も年老いたので、そなたに譲ろうと思う。この剣を持って、名を挙げなさい」と、三尺あまりもある黄金造りの太刀を、秀郷に譲りました。

その頃、近江の国の瀬田の大橋には20丈(60メートル)もある大蛇が横たわり、渡ることができませんでした。それを聞いた秀郷はその橋に行き、大蛇の背中を踏み越えてみせました。が、大蛇はびくともしません。秀郷も、振り返りもせずに橋を渡り終えました。その夜、秀郷の宿に美しい女が来て「私は昼間の大蛇です。琵琶湖に長く住んでおりますが、三上山の大ムカデが獣や魚を食い荒らすので、これを退治する勇士を探そうと、瀬田の橋をふさいでおりました。あなたこそ勇士です」と、秀郷に大ムカデの退治を頼みました。

秀郷は瀬田の大橋で弓矢をかまえ、大ムカデを待ち受けます。五人張りの弓に十五足束三伏(じゅうごそくみつぶせ)の矢という、大変強い弓矢です。秀郷は天孫降臨三十二神のうちの武神を祀る御上神社(みかみじんじゃ)に祈願して、弓矢の秘伝を授かったといわれています。やがて三上山からやってきた大ムカデに、秀郷は矢を放ちますが、なかなか討ち取ることができません。最後の一矢に唾をして、一心に祈りを込めると、屋は見事にムカデの眉間を射抜き、ムカデは倒れました。

秀郷が見事にムカデを退治したので、琵琶湖の竜神は大変に喜び、米俵・巻絹・鎧兜・釣鐘など、数々の宝物を秀郷に与えました。その米俵からは尽きることなく米があふれ続け、秀郷は“俵藤太”と呼ばれるようになりました。また、兜は『拾六間四方白星兜鉢(じゅうろっけんしほうしろぼしかぶとばち)』というもので、田原家に伝えられました。田原家が四代のあいだ居をかまえた浜田城の跡が、この鵜の森神社です。兜は盗難、火災にも遭遇しましたが、今も鵜の森神社に保管され、国指定重要文化財になっています。(田原藤太物語絵巻 勉誠出版より)

神社入口の左側に立つ「浜田城址」の碑

昭和初期の配置図 拝殿と社務所の位置はほぼそのままです。現在も、浜田城址の碑の後ろに土塁の面影が残ります

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四日市の中世城館⑤鵜之森

2022年03月16日 | レモン色の町

浜田城址 その一

鵜之森春景“知られざる四日市の風景”水谷百碩画 四日市市立博物館

鵜の森神社は浜田城跡にあり、四日市の発展の基礎を築いた浜田一族を祀る神社です。神社の森の鬱蒼としたなかに桜の花が咲き、周囲を黄色い菜の花と紫色のレンゲが埋め尽くしています。今では考えられないような穏やかな風景がここには描かれています。

鵜森の晩秋“知られざる四日市の風景”出口對石画 四日市市立博物館

鬱蒼と生い茂る木々の中にある鵜森神社と、その周辺の畑と田が入り混じった風景を描いています。田で収穫された稲の藁が積まれ畑では農作業をする人が描かれています。季節が秋であることから、百碩の絵に比べるとさびしい風景にも見えます。

東海道分権延絵図より

昭和30年代、小学生の頃でした。早朝に鵜の森公園を抜けて南の田畑へ出た時、菜の花を覆う一面の朝もやで、何も見えなかったことが印象に残っています。

 

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四日市の中世城館④茂福城址

2022年03月15日 | レモン色の町

茂福城は、沖積地の微高地上に築かれ、東海道筋に位置し、現在は宅地、畑、水田となっており、その一部が市の史跡に指定されている。道路で囲まれた約14(訂正・140×135)×135メートルの範囲に土塁と壕が推定でき、地割がくずれた部分に虎口を想定できるかもしれない。昭和52年富田山城線道路改良工事に伴い発掘調査が行われ、壕の一部と考えられる遺構と、戦国時代の土師器、木槌、下駄、漆器椀などが出土した。(四日市市史研究 第四集 駒田利治著)

伊勢 茂福城-城郭放浪記 (pei.jp)

昔、通学で、電車の窓から眺めておりました。ボーっと

永禄10年(1567)茂福掃部助盈豊は織田信長に降ったが、六角義賢に通じたため、滝川一益に長島城へ誘い出されて謀殺され、茂福城には山口次郎四郎を目代として置いたという。

茂福城 - Wikipedia

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四日市の中世城館③釆女城址

2022年03月14日 | レモン色の町

点々は歩行経路です

釆女城は保存会の皆さんによるご尽力で、探訪出来る所となっているようですので、お天気の良い日に訪れてみたいと思います。

歴史に想いを馳せて“采女城跡保存会の皆さん” | 四日市市の学習情報サイト まなぼうや (manabouya.com)

内部河川敷から砂利が、三重鉄道で運ばれていました。釆女城跡もあり、鮎やホタルの名所でもあり、橋を渡ると杖つき坂へと至ります。

さて、三重団地内に公園として整備されている“坂部城館跡”は、 文久元年(1204)の“三日平氏の乱”の際に造られてものではないか?と、駒田利治氏が説明しておられました。四日市商工会議所発刊の“もっと知り隊検定”にありましたのでご紹介します。

西坂部城 ~「三日平氏の乱」で拠点となった城~ - 城館探訪記 (fc2.com)

平氏の支配基盤であった伊勢の国には、“元暦(げんりゃく)の反乱”後も、多くの平氏の家人や与党が住んでいました。そうした中、鎌倉幕府の御家人と非御家人の選別が進み、守護制度が整備されていきます。元久2年(1203)将軍が源頼家から実朝への交代時に、幕府の求心力が弱まった一時期がありました。これを狙って平氏の残党が蜂起したのを“三日平氏の乱”といいます。

平氏の残党が武装蜂起してわずか三日で鎮圧されたことからそう呼ばれていますが、前年末から蜂起の兆候は表れていました。前年末に守護所へ若菜五郎らが夜討ちをかけた事件をきっかけに、元久3年3月、平家党類と伊勢守護配下との間に合戦が起きたのです。朝廷は、京都守護の平賀朝雅(ひらがともまさ)に追討を命じましたが、京都出発の日の夜に、伊勢・尾張・美濃の軍勢により追討されたとの報が入りました。平氏の時代はすでに終わっていたのでしょう。

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四日市の中世城館②

2022年03月13日 | レモン色の町

この後、駒田利治氏は各城館跡について説明をしてみえます。その中から・・・

萱生城は、あかつき台団地の北部に位置する

YAHOO!地図より

北西随一の要害と伝えられる萱生城(かようじょう)は、昭和38年にあかつき学園建築の為「髪のびの井戸」(?)と呼ばれる井戸を残して壊された。城は幅約30メートルの深い堀で区切られた二つの郭(くるわ)から成り、東は一辺が約25メートル四方の高い郭になっていて、近世の天守閣の原型であろう。西の郭は、北西側に土塁を築き、西にも小さな空堀が掘ってある。さらに西へ平坦地が広がっており、ここには建物があった可能性が高い。戦国時代には、空堀と土塁で囲まれた郭が一般的で、萱生城の場合、北西側にしか土塁がないのには疑問が残る。

坂部城は、三重団地西部にある

YAHOO!地図より

坂部城は、海蔵川南岸に広がる丘陵地帯のやや奥まったところに位置し、現在は三重団地内の公園として整備されている。三つの郭が丘陵尾根に沿って高低差をつけて配置されている。中央(郭Ⅰ)が主郭で45×20メートルあり、その南西隅に8×5メートルの一段高い物見台(郭Ⅱ)がある。集落と離れた丘陵地帯に築かれ、土塁や堀が造られた形跡がないところから、戦国以前の築城と推定され、地誌などから推測すると、文久元年(1204)の“三日平氏の乱”(?)の際に造られたと思われる。

釆女城は、内部川沿い北側にあった。

YAHOO!地図より

釆女城は、南に内部川を望む丘陵地の尾根を利用して築かれ、八つの郭から成り立っている。中央の郭1は40×60メートルの平地で素掘り井戸が残る。郭Ⅱ・Ⅲ・Ⅳの間の堀は、現在も湿地帯となっていて水壕の可能性がある。一番高い位置にある郭Ⅱには櫓(やぐら)があったと思われる。また、釆女城は、南方面から敵が攻め入る“虎口(こぐち)”にあたる為、防御性を高める必要があった。郭のⅡとⅣ裾では土塁を突出させて障壁とし、ⅢとⅣの間には通路が設けられている。釆女城は、高い土塁と深い堀、虎口や櫓など戦国期の典型的な城館の在り方を示している。

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四日市の中世城館

2022年03月12日 | レモン色の町

“四日市市史研究”の第4号に、駒田利治氏が“四日市の中世城館”と題して投稿してみえます。その前に“中世”という時代のくくりから調べました。

『日本の中世とは、院政から戦国時代までの11世紀後半から16世紀後半までの期間を指す日本史における時代区分である。これは土地制度(荘園制)に基づいた時代区分であり、荘民が存在せず田地のみが広がる免田・寄人型荘園から、村落なども囲い込んだ領域型荘園への移行を画期とする。戦国期に入り動揺を見せていた荘園制は、豊臣秀吉による太閤検地の実施と石高制の成立により解体し、日本の中世は終焉を迎えた。』

四日市の城館(じょうかん)は34カ所(平成3年現在)発見されていて、平安末期から戦国時代にかけて存在していたという事であります。この地域は室町幕府の支配力も強く、卓越した国人領主の成長は認められず、在地性の強い土豪層が城館を築いていました。

四日市の地形は、西に鈴鹿山脈のすそ野から山地が広がり、中央部は鈴鹿山脈から伊勢湾に注ぐ中小の河川とこれらに挟まれた丘陵・台地が大半を占め、東は伊勢湾に面する沖積平野が南北に広がっています。

中世城館の多くは ⑴河川流域 ⑵沖積平野に臨む丘陵・台地の端部、あるいは ⑶沖積地上に分布し、丘陵地帯に築かれているものはほとんどない、としています。

(地図の左下)昔の“佐倉城”が、現在の桜町になったんですねぇ!

北部は密度が高く、多くの土豪が城館を築いています。これは、朝明川流域で農業生産力豊かな地であり、近江の国へつながる“八風街道”沿いであったためです。

また三滝川流域は菰野から近江の国へつながる“菰野道”沿いになり、東の沖積地帯は、後に整備される“東海道”筋になりますが、南西部の内部川流域上の水沢方面に至る丘陵地帯は、生産性が低く、多くの土豪を生み出しえなかったと考えられます。(水沢には、水沢城跡と城の山城跡があります)

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四日市中心部刷新へ

2022年03月11日 | おいらの商店街

3月10日付 中日新聞 北勢版より

<付録>昭和32年3月週刊朝日より 前田憲司さん提供

近鉄駅前バスターミナル構想をきっかけに、四日市近鉄駅前が新しくなる。中央通りを中心に街の景観が変わる。と同時に。街の機能も刷新していきたい。住んで良い街、訪れて魅力ある街に向かって、今、諏訪栄・諏訪地域では、国交省 都市局による“官民連携まちなか再生推進事業”に取り組もうとしている。

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牡蠣船(かきぶね)のこと

2022年03月09日 | レモン色の町

“旧四日市を語る 第二集”に、北岡さんが“回顧”として“かき舟”のことを投稿してみえました。大正期から昭和の戦前にかけての、のどかな風景が描かれています。

明治44年 三滝橋南詰に牡蠣船が出されていた

三瀧橋の袂、往年の色町(南町?)、商店で賑わった東海道。私が生まれ育った北町の堤防のあたりも、戦火でひとなめ、すっかりカラー変えしてしまいました。

水量の多い三瀧川のザアザアの音、ここでよく泳ぎ、ハヨ、フナの瓶つけ(?)をしたものでした。このザアザアに腰までつかり、四日市の祭礼前に障子洗いをしたりして、多くの人が洗濯場として利用したものでした。

又、四日市商店連の花火が打ち上げられ、昭和13年頃まで仕掛け花火もここで行い、当時としては豪華なものでした。

明治期の広告 水谷宣夫氏所有 中央に牡蠣船の広告が載っている(正しくは、かき船か?)美味にして滋養の親玉 とある

あの頃としては近代的な三瀧橋!その橋の袂の名物“かき舟”が出ていて、広島から日通便で取り寄せられた生がきの為、産卵期を避けた10月から4月海山道さんの祭りまで営業、その他の期間は、舟の屋台は取り壊して休業していました。あと、三瀧館(旅館)、北町通り、橋詰にあった消防車の車庫、道路を隔てた交番所との間、三瀧橋へ上がるコンクリートのてかてかの坂道、どれからも思い出が蘇ります。

立体写真 左右の焦点を離すと遠近感が出ます 水谷宣夫氏所有

“三滝川夕涼”水谷百碩画 明治期以前と思われる。三滝川にかかる東海道の端が三滝橋です。長さ52間(95メートル)もありました。橋の上と河原には屋台が並び、人々が夕涼みを楽しんでいる様子が描かれています。髪型に注目すると、髷を結っているのが分かります。

“三滝の霽月(せいげつ)”出口對石画 雨上がりの三瀧橋の風景を、西に傾く月と共に描いています。河原には屋形船のようなものが描かれていますが、これは料亭の牡蠣船で、百碩の絵にある屋台を出した河原に、店を置いたものと思われます。木造橋の三滝橋としては最後の姿で、大正12年(1923)以前の風景でしょう。四日市市立図書館刊“知られざる四日市の面影”より

<付録> 大好きな曲の オシウリ です。

(26) Tokyoに雪が降る - YouTube

(26) 星空のトーキョー すぎもとまさと - YouTube

(26) 池上線(昭和51年)西島三重子(再録音) - YouTube

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垂坂山古戦場のこと③

2022年03月08日 | レモン色の町

1336年、湊川の戦いで楠木正成に勝利を収めた足利尊氏は、1338年、征夷大将軍となり室町幕府を開くが、その後、弟の直義(ただよし)と執事の高師直(こうのもろなお)との確執などで殺し合い状態となった(観応の擾乱)。このあたりは、次のサイトにお任せします。“感応の攪乱”とお間違えの無い様。

面白いほどわかる観応の擾乱!簡単にわかりやすく徹底解説【年表付きでまとめました】 | まなれきドットコム (manareki.com)

当時は、自分の利益を確保するのに必死の様相。上層部のもめごとは、そのまま地方へも波及して、天下は混乱状態となりました。各地では、相続争いが戦にまで発展する有様でした。

明徳3年(1393)、南北朝が和解して一旦治まりますが、三重県北勢の地は、南北朝以来の土豪四十八家が割拠して、勢力争いを繰り広げていました。

四日市にもこれだけの土豪が散在していたのです。

浜田城(田原元綱)・赤堀城(田原景治)・富田城・茂福城・大矢知城・蒔田城・萱生城・伊坂城・広永城・下野山城・中野城・市場城・保々西城・羽津城・阿倉川城・西坂部城・中河原城・曽井城・平尾城・佐倉城・出城山城・川尻城・小古曽城・釆女城・山田城・小山田城・城の山城・水沢城

数十軒でひとつの村をつくり、砦を築いて自分達の土地を守っていた様子が見えてくるようです。

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垂坂山古戦場のこと②

2022年03月06日 | レモン色の町

北朝と南朝がごっちゃになってしまいましたので、南北朝時代を振り返ってみました。

足利尊氏像

左の絵が有名ですが、現在では、執事の高師直(こうのもろなお)であるという説が有力だそうです。

後醍醐天皇を助けて鎌倉幕府を討った足利尊氏だったが、公家や寺社の所領支配を保証したため不満続出、功績のあった武士と共に後醍醐天皇から離れることとなる。

そんな折、建武2年(1335)関東の北条時行(ときゆき)が幕府再興を掲げて挙兵した“中先代(なかせんだい)の乱”のを名目に、尊氏は弟直義(ただよし)と共に鎮圧の為、関東から鎌倉へ入り、反後醍醐の兵を挙げる。

新田義貞像

翌年、尊氏鎮圧に向かう新田義貞(にったよしさだ)の軍を突破して京へ入った。一時は、北畠顕家(あきいえ)軍に敗北し、九州へ逃走したが、延元元年(1333)“湊川(神戸市)の闘い”で新田義貞と楠木正成の軍を破り入京する。後醍醐天皇は吉野へ脱出し、60年間続く南北朝動乱の幕開けとなった。

湊川の闘いで敗れ自害する楠木正成

・明治時代、学界では“南北朝並立説”が主流であったが、太平洋戦争時には南朝が“正当”とされていました。天皇に反旗を翻した尊氏を悪としたのであります。

この後、共に戦ってきた足利尊氏と弟の直義の間で、骨肉の争いが繰り広げられる(観応の擾乱)こととなるのです。

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