YouTubeのサイトが四日市商店連合会“ええまち四日市”に移動したので、「なにしとんのやろ?」とご心配の方もお見え(自分を含めて)と存じます。GGシニアさんはせっせと配信中でございますので、ご覧ください。今後ともよろしく御願い奉りまする。
(102) 「古きを訪ねて/四日市・昔の映画トーク」 - YouTube
(102) 「古きを訪ねて/四日市・昔の楽しみトーク」 - YouTube
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采女城跡保存会 設立の経緯
地元では古くから、采女城は織田信長に滅ぼされ、落城の際お姫様が井戸に身を投げたという話が伝わり、子供たちは 城山のてっぺんに立っているノッポの木が揺れていると「お姫様が泣いている。怨霊で揺れている」といって眺めたり、また古井戸に行った貝家(現 貝家町)の人が 馬に乗った二人の侍に追いかけられた という古い話を祖母から聞いたなどの言い伝えがあり、地元の人には身近な存在でした。
采女城跡がある北山は、昭和20年代までは里山として地元住民に親しまれ、薪や肥料、また松茸や茸(きのこ)の採収地として利用されていました。しかし、昭和30年代以降、高度成長期に入ると山林の利用価値がなくなり、手入れされないまま松林は枯れ、根笹がはびこって足の踏み入れようもない有様となりました。
県内でも類をみない戦国期の城跡跡を残す貴重な遺産を整備、後世に残したいと、平成15年6月7日、采女城跡保存会が設立され今日に至っております。
「采女城主後藤家の興亡」采女城跡保存会刊 あとがきより
鈴鹿山脈の麓 宮妻峡谷を源流とする内部川は、足見川と合流して塩浜を抜け伊勢湾にそそぐ。その合流地点を采女郷と呼ばれ、古代の東海道が通る交通の要衝でもあった。その合流する地点の丘陵地に采女城の遺構が残されている。昨年4月に この城跡を訪れたが、今回はあすなろ鉄道 内部駅の延長として訪ねてみたいと思っている。
三重鉄道沿線案内より(大正期)
采女城主の後藤家は源氏に仕えていたが、幕府滅亡後の南北朝時代は、北勢四十八家の中に数えられ、采女七郷を代々にわたり納めていた。
「采女城跡保存会編」図書館蔵
やがて豊臣秀吉や織田信長による天下統一の動きが出始め、戦国時代は終わりを告げる。織田信長は京都上洛に先立ち、永禄4年(1561年)から5年の4度にわたって伊勢に侵攻、『布留屋草子』によると“永禄11年(1568年)信長と戦い落城す”とある。
平成20年代の空撮(采女七郷・推定)
また他説には“元亀3年(1572年)、亀山の関 盛信が所業を信長に咎められ勘当を受けた。これにより関家の与力(味方)であった後藤家をはじめとする16家の侍が、信長の三男である神戸信孝に付くか浪人した”とあり、こちらの説が最も有力とされている。つまり、落城よりも城を追われた可能性が高いのだ。
城館入り口に立つ案内図 ここから城跡へと上る
しかし、地元では落城説の方が根強く、当時の城主であった後藤藤勝は落城時に割腹、千奈姫は本丸跡に残る深井戸に身を投げたと伝えられ、この古井戸から夜な夜な女のすすり泣きが聞こえてくると語り伝えられている。
本丸跡に残る古井戸
そして、この落城説には後日譚が残されていました。
阿瀬知川(畦地川)は浜田村の田畑にとって、また 四日市の下水の役割としても大切な川でした。では、その源流は何処からでしょうか?
明治44年の地図を見ると、旧東海道から突然現れ、まっすぐに東へ流れ出ています。
逆にさかのぼることにします。
5番 末広橋の処にあるポンプ場では、強制的に阿瀬知川の水を昌栄橋から運河へと送り出しています。
4番 JRをくぐります。
3番 浜田から流れてくる川と、四日市の市街地から流れてくる川とが,合流する地点です。鯉が泳いでいて、ゆったりとした時間が流れています。
2番 浜田方向から流れてくる川。東漸寺さんがあります。手前で直角に曲がっていますが、昔はまっすぐ流れており、旧東海道を横断していたそうです。そこの橋を境に、南側を橋南と呼ばれています。
1番 久保田町にある「窪田神社」。堤防の下に祀られていますが、取水地点であることに対して神社が作られたと想像できます。
神社の西にある取水口です。きれいな水が流れていました。
堤防の上には記念碑が建っていました。
ここからと、松本村の方からも阿瀬知川に流れ込んできています。