花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

掖済会横の石灰工場 凱旋門

2024年02月11日 | レモン色の町

さて、鈴鹿山麓のすそ野を下り竹谷川(たけたにがわ)沿いに進むと、まっすぐな道路に二本の石柱が立つ場所に到着しました。Kさんは『途中特に気が付いたことを順を追って書き留めていくと 潤田の凱旋門を出て、旧千種街道を桜並木に沿うて下っていく・・・。』と凱旋門のことはこのように記録してありました。

潤田の凱旋門 この凱旋門は、日露戦争から戻った兵隊を迎えるために、明治38年10月石工伊藤文助により花崗岩(御影石)で造られました。南側の門柱の表には祝凱旋 裏側には明治37年、8年戦役記念 北側の門柱の表には陸海軍、裏側には明治38年10月建立千種村 と刻まれています。昭和20年の終戦まで、出征兵士を村はずれの凱旋門まで『万歳!』で送りました。戦意高揚のための凱旋門だったのです。門の間に組まれた日本の日の丸の下を、久居の歩兵第33連隊に行く人も通りました。そして、戦死者の無言の遺骨も悲しみの中ここで迎えました。

祝凱旋 の文字は 無事帰還した兵士を向かえるように 故郷の村を背に立っておりました

敗戦後、占領軍の車両がこの辺りを回り忠魂碑や表忠碑を壊すというので、壊される前に村が倒して表字を下にして隠しました。

倒れたまま放置されていた凱旋門は、昭和54年に石工の道具箱の中から元の源字が発見されました。郷土資料館で展示したことをきっかけに、昭和55年道路大改修に伴い、今日の姿に復旧されました。   令和2年2月吉日建立 建立者 千種地区区長会

ここにも、過去の歴史の爪痕が残されています。日露戦争、太平洋戦争、敗戦 そして進駐軍と・・・。この門を通った多くの人々を、時の流れの中で、二本の石柱は 見つめ続けてきたのです。 


掖済会横の石灰工場 千種城

2024年02月10日 | レモン色の町

昭和9年の夏休み。菰野に住んでいた小学2年生のKさんは、掖済会前の海岸に来ていた軍艦由良の見学に出かけている。

掖済会横の石灰工場③ - 花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

リヤカーに乗り、友人のお父さんが引く自転車での出発である。Kさんが当時の様子を“旧四日市を語る”に記録してみえた。私はこの道を再び通ってみたいと思っていた。千種を出、潤田の凱旋門、赤水の小学校、足洗の池、江田神社、海蔵受信所、末永のゴミ焼き場、西町へと続く道を・・・。

Kさん宅は菰野町千種。鈴鹿の山の麓にあった。冬景色の鈴鹿連山をすがすがしい気持と期待で千種まで走ったが、Kさん宅はお留守だった。電話も外されていたが、どなたかがお住まいの様子はうかがえた。ご存命であれば100歳近いことになる。あきらめてKさんの道のりを辿ろうと車を進めると、小高い山の上に“千種城跡”がみえた。

史跡 千種城跡 県指定・昭和38年1月11日 所在地・三重郡菰野町大字千種字城山 所有管理者・菰野町大字千種区

この山城は西側に本丸、東側に出丸の二つの郭に分かれ、その間に空堀が切られている。周囲は、土塁跡が見られ、中世の典型的な山城の形状をよく残している。なお南の向かい城、東の金ヶ原城は、この城の支城といわれている。

城主は、後醍醐天皇に仕えた千種忠顕(ただあき)が、はじめ禅林寺城に拠り(より)、のち要害の地であるこの地に移り城を築いたと伝えられている。城の下は、伊勢から近江へ峠越えの千種街道が通じこの城は軍事、経済上の要衝であった。

戦国期は地方の豪士の頭領として三重郡二十四郷を領して大いに勢威があった。信長そして秀吉の軍勢に攻められ、最後の城主顕理が大坂夏の陣で戦死して廃墟となった。

この地を巡る歴史が、走馬灯のように展開しておりました。中世の山城、後醍醐天皇、千種街道、大坂夏の陣・・・。

つづく

フロク:次回のGGシニア 掖済会前の石灰工場の編集に手間取っておりましたら ついに当店を宣伝せよ!という至上命令が下りました 恥を忍んでの出演でゴザイマス

「これがお店の仕事/たけちゃんの町歩き/仏具店の秘密」 (youtube.com)


こうせつ市場 その七

2024年02月07日 | レモン色の町

四日市はその名が示すように 四の日に市場が開かれてきたことに由来する。湊と東海道がクロスする道に市が開かれ、賑わいが生まれ、やがて常設の店舗となって町がつくられてきた。四日市市の原型は“市”であり、その存続のほんの一部を引き継いでいくのが私たち商店街で生業を持つ商業者の義務であると考えている。以下 続・よっかいち浪漫紀行 北野保 著より

新装になった慈善橋市場の賑わい

平成28年現在 四日市には二十八の市場が開かれているが、最も大きいのが三滝川右岸に接した八幡町にある「三滝川慈善橋市場」である。市場の始まりに大きくかかわっているのは、三重郡農会の飯田哲三農業技手であり、大正9年4月28日付で多気郡から赴任。余剰農産物の直接販売による現金収入確保のため即売場を設けた。昭和20年の空襲で市場は焼失したが25年再開“四日市報徳改善会”と新しく発足した“四日市共栄会”で運営されてきた。そして平成26年三滝川改修工事で側道に仮移転し、平成28年2月7日、“四日市朝市協同組合”が運営の「三滝川慈善橋市場」として新しくオープンした。市場は鉄骨平屋の三棟(約600平方メートル)で、野菜、鮮魚、乾物、総菜、生花難度の48店舗が並び、毎月0・2・5・7の付く日の7時から11頃まで開かれている。

旧四日市を語る会で戦前の店の並びを思い起こしてみえた。大正10年の本町通りと新丁通りの交差点付近を見ると、交差点角、熊澤ビル北側(戦後警察署となる)に“第一公設市場”があり、昭和10年以降空地になったとある。この後、勧業銀行が建つ。三重郡農会の飯田哲三農業技手が着任して、まず手を付けた“第一公設市場”がここだった。しかし 所詮は根無し草 その後 立ち退きを命ぜられ消滅している。


”前畑がんばれ!”の海蔵受信所

2024年02月05日 | レモン色の町

「前畑がんばれ!前畑がんばれ!前畑勝った!前畑勝った!前の畑でポチが鳴く!勝った!勝った!勝った!」 日本全国を沸かせたNHK実況のラジオ放送は 昭和11年8月11日 第11回ベルリン大会でのことでありました。この放送は、ベルリンのナウエン無線局から日本無線電信株式会社 海藏受信所へと送られ、名古屋電信局を経由してNHKに入り 全国に放送されたものでございます。逓信省 名古屋無線電信局は ヨーロッパからの受信業務を行うため 昭和3年 四日市に海藏受信所を開設(後に四日市受信所となりますが)一万三千坪の広大な敷地に 長波と短波の受信機が配置され そびえたつアンテナは 高さ85メートルの鉄塔が二基と60メートルの鉄塔三基が並んでおりました。その後の通信技術の発達で 四日市受信所は施設の拡充が必要となりましたが廃止 昭和11年に完成していた 兵庫県の小野受信所に移管されました わずか9年と3か月の開設期間でゴザイマシタ

続・よっかいち歴史浪漫紀行 北野保著 四日市商工会議所発行 を参考にさせていただきました


さよなら第三(納屋)小学校

2024年02月04日 | レモン色の町

明治10年 納屋地区の人々によって新築開校された「納屋小学校」は、明治41年から市立第三小学校となり「浜村」の養育に力を注いで120年。だが、この学校も児童数の激減にあい、やがて第五(中部東)小学校と合流して中央小学校と改名移転する。かくて大入道や鯨船たちをはぐくんだ長い歴史の巻物は閉じられてゆく。平成6年発行 文化展望 四日市 第12号 四日市今昔⑫ 椙山満 著

男の囲炉裏端でお世話になっている納屋プラザ 門の幅が1枚分広くなっている 自動車乗り入れのためか?

門を入った左に立つ石碑(よいかわるいか心にたずね よけりゃと?こまでやりとおせ)


こうせつ市場 その六

2024年02月03日 | レモン色の町

またまたGGシニアさんがアップ 今回は、軽便鉄道のお話です。何も知らないわたくしメは、軽便鉄道のことをけいびん けいびん と何度も間違えております。けいべん と発声しますと、おなかが変になるのです。拙い動画を ご覧ください。

(17) 「昔、四日市一番街に駅が2つ!」 - YouTube

“こうせつ”にも興味を持たれた岡野繁松先生は、“旧四日市を語る 第五集”に、戦前の市場の様子を、“報徳改善会(昭和60年現在 三滝川・西浦両市場 を運営)”と“共栄発展会”の方々から資料を集め記載されています。

・大正9年に“こうせつ”の生みの親でもある飯田哲三が“三重郡農会”に赴任され三重郡農業技手に就く。(注:これは農協の前身ではないかと推測されます)

・大正10年、飯田哲三は、生活に苦しむ農家の自立救済のため、旧四日市警察署やお寺、家の軒下等で即売所を開設して、現金収入を得る形態を広めた。(四日市・富田・富洲原・菰野)

・大正11年、三滝川北側の河川敷や堤防で野菜・果物・玉子・お茶等を販売する朝市を開く。

・大正15年、諏訪神社境内において正月用品の大売出しが開かれ、盛況のうちに終わる。

・昭和7年9月、三滝川北詰(南川原町)に簡易施設を建て“三重郡農会経営農産物即売所”を『ニヒチ(ニシチ)』と呼ぶ2と7の付く日に開いた。

・昭和8年8月、慈善橋南詰(八幡町)に、5と10の付く日『ゴジュウ』の露天即売場である朝市が開かれた。(報徳改善会)朝日町、稲場町、富田、菰野でも開く。

・昭和9年9月21日、室戸台風による被害で南川原町販売所が倒壊する。

・昭和10年8月10日、三滝川北詰、朝日町、慈善橋南詰の即売所より、農家以外の商人の排除について陳情書が出されている。(市場の繁栄と共に、本来の目的である農家の販売所から離れてきている)

・昭和10年9月21日、上記を受けて、農家の生産品以外の販売が禁止となる。

・昭和12年、慈善橋即売所に、伊藤小左衛門の蚕室が内設された2階建ての“報徳館”と、四郷小学校の講堂を移築した“即売所”が建てられた。そこには二宮尊徳の銅像も立つ。

・昭和16年、4時や5時からの早朝販売や闇販売の取り締まりが行われる。

・昭和19年〜24年8月、戦争による“物資配給統制令”のため販売所は中断ののち閉鎖となる。

・昭和20年6月18日、四日市空襲で、慈善橋の報徳館と即売所は焼失。

地域への市場普及には飯田哲三氏が大きな功績を残されています。伊勢朝日町の名簿で、昭和13年から22年まで助役を務めてみえる同姓同名の方がみえますが、この方ではないかと推測できます。


こうせつ市場 その五

2024年02月02日 | レモン色の町

岡野繁松先生が「旧四日市を語る 第1集」に、“こうせつ”として書いてみえます。

三滝橋の北詰めから東に農産物販売の朝市があった。二と七の日に開かれるので“にひち”と呼んでいた。大きなバラック建ての中は、お百姓さんの持ってきた作物類が並べられていた。外側にも中に入り切れない人々が売り台をならべていた。俄かづくりの売り台やむしろを敷いて、その上に農作物をならべていた。豆腐屋のあたりから東の川沿いには家はなく、大きな松が根をむき出しにして、慈善橋まで何本も生えていた。売る人はこの松の下まで来て売っていた。団子やみたらしなども売っていた。また香具師もいて口上を述べていたりもしていた。三瀧橋の側で“覗きカラクリ”が掛かったこともある。

  • この“こうせつ”は昭和7年9月から始まった。昭和8年8月から慈善橋南詰から西方面にも“こうせつ”が出来、こちらも北側と同じように賑わった。こちらは五七(ごひち)の市と呼ばれていた。
  • のぞきからくりの有名な演題 『幽霊の継子(ままこ)いじめ』『八百八お七』忠臣蔵の『萱野三平(かやのさんぺい)物語』『空海物語』などが有名である。『地獄極楽』の口上の一部に“娑婆から落ちてくる亡者めが、閻魔の前で手をついて、お通しくだされ閻魔さん、頼めど閻魔は聞き入れず、泥棒をした人は両張鏡に照らされて、地獄の向かいは火の車・・・”とある。“イラストで見る 昭和の消えた仕事図鑑”角川ソフィア文庫より