花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

午起海岸の事

2024年09月13日 | レモン色の町

午起海水浴場へはバスで出かけた。

昭和13年の地図でゴザイマス 話が飛んで申し訳ありません

浦賀ドックの起工式(昭和18年)が午起海岸で行われた時の写真。

この階段の向こう側(東側)が海岸で、堤防には松林が続いていた。白砂で遠浅で中州ができたので相当遠くまで行けた。簾掛けの茶店や休憩所が多く出て賑やかであった。カンカン帽、麦わら帽子、こうもり傘、ステテコ、浴衣、海水着(水着とは言わなかった)など、当時の風俗が良く分かる写真だ。

昭和6年

遥か沖合を外国船が通っているのが見える。午起の南、三滝川河口からつながる松林には、保養所が開設された場所で、三滝川河口の南側には掖済会があった。

昭和11年の保養所

浚渫工事の様子 昭和30年代かな?左に三滝川 中央に保養所がありましたかな?松林に囲まれています

 


昭和21年の空撮

2024年09月10日 | レモン色の町

昭和21年 空襲から約1年後の 三滝川と海蔵川の間の地域の空撮が手に入った おそらく米軍によるものだろう

上が海蔵川で下が三滝川 左に上下に走る線は1号線(訂正:東海道)である

上の写真の東にあたる 三滝川の上は午起海岸 四分割にして地名を入れてみた(昭和13年の地図参考)

上に海藏川 左の上下の線は1号線である 右上の県立四日市商業高校は 現 橋北中学校 工場と間違えられたのか消失している 四日市病院が新浜町にあった(右下) 八幡神社の位置はそのままだ

その下(南)の写真になる 中央に三滝川が流れる 三滝川を境に焼失状況が大きく異なる 第6小学校・第7小学校と建てられ こどもの多さが伺える 久六町や十建町と昔の町名が目につく

4枚に仕切った右上にあたる写真 午起海岸が広がる 三滝川北の東洋紡績四日市工場は三滝公園となっている

上の写真の南側 東洋紡績は三滝川を挟んで二カ所に工場があり国鉄線の東(訂正:西側)は社宅になっていた 現在の北条野球場 下は大協石油 

復興のスピードは かなり早いと思われます 地上では 必死に作業が行われていたのでしょう 希望の未来が見えていたのかもしれません

 

 


映画の世界と映画館 ②

2024年09月09日 | レモン色の町

映画産業の戦後復興は早かった。青山誠 著“浪花千恵子”より

なんと、終戦から2週間が過ぎた8月末頃には新作映画が封切りされ、戦災を生き残った映画館には客が殺到していたという。

四日市も昭和18年から20年にかけて米軍のB29による空襲を受け、中町の“世界館(閉館)”、南町の“弥生館”、幸町の“四日市劇場”、新町の“四日市東宝劇場”は消失している。終戦に伴い国家機関は映画関係者と再開に向けての協議を行っている。

昭和29年封切り、フェデリコ・フェリーニ監督の「道」を上映中の三重劇場

暗い場所と映写機さえあれば、どこでも映画は興行できる。焼け跡には粗末なバラックの映画館があちこちに建てられるようになり、夜には広場などを利用して上映会が開かれたりしていた。こうして昭和21年にはトップを切って“三重劇場”と“諏訪劇場(後の四日市東映)”、そして新町の“四日市東宝劇場”が、22年に“ラジオ劇場(昭和31年に日活劇場)”、“四日市劇場”が焼け跡の中から次々と再建された。

新町の四日市東宝劇場(旧 湊座)

昭和26年にサンフランシスコ講和条約が締結されると、GHQによる検閲も廃止され、かたき討ちがメインだった時代劇に許可が出た。それまで、ちょんまげ姿が演じられない片岡千恵蔵は、大映で新劇の“多羅尾坂内”を撮っている。「私は、好きで演じていた訳ではなかった」と述懐している。

四日市日活は、昭和32年封切りの 月岡夢路主演「白夜の妖女」を公開中

昭和27年には、全国で278本の映画が製作されたが、4年後の昭和31年には500本を突破している。映画館の数もまた急増していた。焼け残った映画館は全国でわずか35軒だったのが昭和30年には5184軒になっている。すべての産業が壊滅した昭和20年代の日本で、映画は数少ない成長作業だった。毎週、2本立てや3本立てで新作が公開され、新作を待ちわびる人々は映画館へと押し寄せた。当然、映画業界の現場はオーバーワークを強いられる。深夜になってもスタジオの照明が落とされることはなく、スタッフは覚せい剤の“ヒロポン”を注射してでも頑張った(ヒロポンは昭和20年頃まで合法されていた)、ってこれちょっとまずいんでないの?


映画の世界と映画館

2024年09月07日 | レモン色の町

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“旧四日市を語る”第十集には、戦前・戦後の映画館や劇場のことについて話をされた記録があったので、再三ではありますが、昔の映画館について記してみたいと思いました。

戦後、三重劇場などは(再建が)早かった。新生劇場(四日市日活)はラジオ劇場と言っていた時もあった。弥生館や湊座(本町)跡の東宝劇場、かまぼこ型劇場の四日市劇場:よつげき、その後、諏訪に出来た諏訪劇、後に東映劇場(四日市東映)、東に行って(本町の踏切を渡った東)ロマン座、みやまど劇場:鉄骨やった、塩浜劇場、塩浜駅の東に豊劇場?があった。

四日市東映前に立つ辻さんの子供さん

ずっと後になってストリップ専門の別世界。ここはよく警察の手入れがあった。岐阜の人がやっていた。額縁ショーがあった(古い!ホンマか?)。富田劇場、太陽劇場、衆楽館、つばさ(富田は紡績工場があったから 映画館が多かった)。戦後の東宝劇場には歌手がよく来た。(原節子の)「青い山脈」、(マリリンモンローの)「帰らざる河」などを観た。戦前の菊水館:中町の世界館北は、浪花節。世界館の二階から菊水館の舞台の出し物が丸見えだった。

塩浜の海軍燃料廠に勤めてみえた兵隊さんのグループが立ち上げた三重劇場 事業がうまくいって ロマン座や宝塚劇場に着手していきます

活動写真:映画や芝居には三角袋の落花生が懐かしい。おみくじが入っていて燃やして占った(買い求めた記憶があります。戦後もしばらくは売られていたようです。みくじの紙に火をつけると、筋状に燃えて行って、占いの結果が抜け落ちる仕掛けでした)

弥生館で「愛染かつら」をした時は、東洋紡績の女工さんが列になっていた。この自分は桝席ではなかった(昭和13年公開 主演:上原健と田中絹代)。「透明人間」を観に行ったときは、まだ畳敷きやったが、桝席は無くなっていた(河津清三郎主演の「透明人間」は、昭和29年大映公開だから戦後の弥生館になるか?戦争直後の銀座の風景が背景にあった 桝席は戦後になりますから もうなかったと思われます)。桝席の時は縁をお茶子さんがたばこ盆などを運んでいた。湊座では、休憩の時は窓の黒幕を開けて明るくしていた。たばこの煙も出していた。開けると太陽の光が当たり、ホコリのちらちらが目についた(覚えがあります 太陽光の注す劇場内は まぶしくて違う世界になったような気がしました)

戦後の四日市劇場はよく行った(昔は世界館といった)。三本立、四本立ての時もあったかな。便所の臭い匂いが客席まで漂ってくるのさえ我慢すれば、安くて一番楽しめた。ほとんどチャンバラだった(東映作品の再映で 座席に座るのは至難の業 小学生は淵の手摺りに腰かけて鑑賞した)。

 


大滝秀治(おおたきひでじ)さんのこと

2024年09月03日 | レモン色の町

YouTubeをあちこちいじくっていたら 大滝秀治さんの「北の国から」の名演技の画像が出てきた。

【大滝秀治 神演技】五郎が遅れた理由を話す大滝秀治 (youtube.com)

北の国から 名場面 大滝秀治 (youtube.com)

【大滝秀治 神演技】お前ら負けて逃げるんじゃ。 (youtube.com)

【大滝秀治 神演技】五郎に絶対に土地を売るなと諭す大滝秀治 (youtube.com)

【大滝秀治 神演技】草太と雪子の関係が気になる大滝秀治 (youtube.com)

ここで忘れられないのは、映画「若者たち」の1シーンだ。

学生運動を続ける山本 圭は、運動から離れ酒を飲んで競馬に走る江守 徹のところへ、貸したお金の請求のため訪問する。応じるのは父親役の大滝秀治。名セリフ(怪演)であります。

「学生さん これね 俺の胃袋の写真だよ ガンだってよ 医者がね どうしてもはっきり言わねえから 看護婦だまくらかして(レントゲン写真を取り出す) ホラ これがガンだってんだよ 

税務署もおまわりも ちっともこわかねえんだ俺ァ 昔はこれでもね 葛飾の争議の時にゃ旗振り回したことだってあるんだから

この工場だって俺が腕一本で作り上げてきたんだからね 

煩悩だよ 学生さん 煩悩

俺が昔っきりの着たっきりの労働者で 野郎が生涯ボロを着て暮さないようナ境遇なら何やったって俺ァ黙ってるよ

だけどね 俺ァ経営者で 奴ァ学生だ あんたと同じにヨ いくらだって先があるわけだよ これから

だからさ アナやプロの真似はしてもらいたくねえんだよ 小せえ工場だって ここを守ってくれせえしたら

あんた方から見りゃあねえ こんな工場なんかこっぱ同然かも知れねぇけど だけどねえ 俺ァ毎日新聞見るたびに 胸がギューっと痛くなんだよ

倒産なんて言ったってねえ 当節いまや新聞ズレしてるから 誰一人驚く者ァ居やしねえけど 俺ァねえ あーまた何処かに誰かが泣きみてやんだなあと思うと

ホント 仕事なんてものはねぇ やってきた当人でないと分かりゃあしねェなんだから

良い親じゃねぇンだ 俺ァ 頭じゃ野郎の云う理屈だってよーく分かるのによ

とにかく 暴れねえで無事学校を出てくれて・・・

そんなもんだぜ学生さん やわら人間の一生なんてものぁ・・・

良いと思ってんだよ それで

嫌われたって 軽蔑されたって とにかく野郎が安穏に生きてってくれさえすりゃぁ それで俺は 良いと思ってんだよ」


貸本屋の時代⑧手塚治虫

2024年09月01日 | レモン色の町

にちぶんMOOK『昭和こども新聞』(昭和22年版)より

戦後の闇市で売られていた“カリスト雑誌”は、仙花紙というクズ紙で刷られた雑誌で紙質も悪く、スリラーだのリョウキだの、実話だのと言う題字に怪しげなお姉さんが表紙を飾る本だった。そして、このカリスト雑誌に紛れて“赤本”と云う名の漫画雑誌も出回っている。どうやら大阪で印刷所の焼け跡から漫画の刷り出しものを引き取り、適当につなげて売り出したのが始まりらしく、表紙と内容がバラバラでいい加減なものが多かったようだ。

そんな中、育英出版から刊行された手塚治虫 画の“新宝島”は、40万部以上売れるヒットとなった。中を見ると分かるがコマごとに絵の構図が変化する、そのため全体が躍動感とスピード感であふれている。テンポよくぺージをめくることができ、セリフが少ないのも特徴で文字を最低限に抑え、まるで映画を観ているような感覚を味わえるのである。

今(昭和22年)は娯楽に飢えている時代。こんな漫画がでれば われ先に飛びつくのも当然ではないだろうか。

高石ともやさんが 幸せそうに 本当に幸せそうに 森山良子さんと 街 を歌ってみえます 画像の古いのだけが残念ですが ま、これも 時の流れですか・・・

高石ともや&森山良子 - 街 (youtube.com)

想い出の赤いヤッケ(高石ともや&ザ・ナターシャー・セブン) (youtube.com)

平浩二 バスストップ Bus Stop/Koji Taira (youtube.com)