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~ Me Hana O Ka La I Ka Pu'uwai ~

3月のネイル(3) 弔事用ネイル

2014-04-02 | ネイルアート
わずか1週間前に施した可愛い黄色いネイルでしたが、お父さんの頑張りももはやここまで…とお葬式になってしまったので、喪服を取りに帰ったタイミングで潔く落としました。
ネイルなんて、またやればいいのです。
えいっ!

けれど、ヌードになったワタシの爪は乾燥カラカラですぐに折れてしまう状態なので、透明ジェルで5層ほど塗りなおして補強をしました。
この指先も清潔感があってなかなかいいじゃないですか。
しばらくはこの指先でいてみようと思います。

…と本来はこれだけの記事で終わるはずのことでしたが、少し悲しいことがあったので書きます。

近しい身内に私と同じようにジェルネイルをしている母娘がいました。
霊安室で私は「ジェルは落とさなきゃね」と話しました。
普段サロンを利用している2人は自分でジェルを落とすことはないので、私が専用の除光液を持ってきてあげるからと約束をしました。

けれど…
いろいろ不愉快ないきさつがあって、その2人は結局ネイルを落とさず式に参列しました。

これが自分の姪や姉なら「早く落としな!」と強く言えるものだけど、やはりそれよりは私の常識を押しつけることもできず、「あーあ。ネイルも落とさず来ちゃうんだ…」と悲しくなりました。

最初「ジェルを落とそうね」と言った時、その身内は「えー、落とさないとダメかなぁ?」と言いました。
でもその爪は、もう伸びに伸びていて、ハゲにハゲていて、ほっといてもすぐにサロンに行くような状態なの。
どこをどう見ても、もったいないような状態じゃない。
「もったいないのは私の方だよー」と半分おどけながら、私は自分の作:1週間のピカピカネイルを見せました。

でも、義父の葬儀など毎月あるものでもなし、そこにピカピカネイルでずっと後ろめたく思うなら私はすっきり落とすことはいとわなかったの。

除光液を持ってきてあるから自分でやりなねと告知したにもかかわらず、いろいろ理由をつけて取りに来なかったその母娘。
それは理由以前に「落とす気がない」ってことだと思います。
いくら義父の死を悲しく思っていても、なぜそこまではできなかったのか…悲しむ姿はうわべではなかっただろうけど、やはり義父の葬儀を軽く思われているようで、私にはとても悲しかった。

母が母なら娘も娘…親が範を示さずにどうするんだと、あえてここで言います。


こんな風にじくじく思う私がおかしいのかと、知恵袋さんで調べてみちゃった。
《葬儀 ネイル》とね。

そしたらやはり、葬儀にマニキュアで参列するのは誤りであると。

葬儀にはこちらの『欲』を極力出さないのが正しいらしく、
もしあなたの気持ちが
《マニキュアをしたい > 弔意を表したい》
と、マニキュアをしたい自分の欲が勝つのであれば、あなたは弔問をすべきではありません、と書かれていました。

メイクも同様で、例えば死者が女性である場合、その死者の死に化粧より自分の方がきれいに見られたいと濃いメイクをしていきたい欲があるなら、それは間違いであるらしい。
スッピンである必要はないけれど、濃いメイクをしたり、巻き髪グルングルンで行くのは自分自身の欲なんだって。
本当にそうだなーと思った。

百歩譲って弔問客ならまだしも、遺族側である者が上記のようなことでは決していけないと書いてありました。

そういう私も一つ反省していることがあって、
喪服を取りに帰った時に、黒いストッキングがなくて…でも、コンビニに買いに行く時間はたーーーくさんあったのに、「ま、いいか」と80デニールのタイツで参列したの。
それが正しくないことを知っていたのに。
いつもはストッキングをちゃんとはくのに、今回それを横着したことは、私もいけない親族なんだ。
知っていてやるのは知らないでやるよりもっといけないことです。
お焼香の時、甥っ子のお嫁さんが薄い黒ストッキングでいるのを見て、すごく恥じ入りたかった…

「うす墨」というのは日本では「悲しみを表す」色で、葬儀にはそれが良いと。
80デニールは「防寒」という欲なんだよね

深く深く、反省します…


もし、たまたまここまで読まれたジェルネイル愛好家の方がいたら、あなたのネイルがいつもサロンでやってもらうものであるのなら、やはり最低でもジェル用除光液だけは自宅に用意しておいてください(アセトン100の物です)。
いざ、落とさなきゃ!というシチュエーションになった時、サロンが開いているとは限りません。
マニキュアなら簡単なことでも、ジェルネイルやスカルプは専用の物が必要です。

悪いことは言いません。
あなた自身が非常識と呼ばれないために。
それが嫌ならお葬式には行く必要はありません。

いつも「おしゃれだねー」と友達に言われているあなたが、真のおしゃれさんになるためには、TPOをわきまえたおしゃれをしてほしいな、と思います。

普段個性的なネイルの友達が葬儀の時にすっぱりヌードで参列したら、私はそれってすごくカッコいいと思うし、周りはちゃんと見ているということを覚えておいてほしいと思います。

努力呼吸 というもの

2014-04-02 | 家族・おうちバナシ
義父が入院したのが2月の上旬。
入院時には《余命3ヶ月》と言われていたのですが衰弱が激しかったようで、どんどん下方修正されました。
3月中旬には「今月を越せるかどうかです…」との宣告もありました。

家族から見たら昨日も今日も差がないようで、血圧や心拍の数値も変わらないし、何をどうして余命を算出できるのかが不思議でした。
きっと、お医者様にしかわからない何かがあるのでしょうね。

亡くなる2日前に夫が仕事帰りにひとりで病院へ行った際には、今まで痛いと動かしていた手もダランと身体の横にある状態で、きっと痛みさえも麻薬で抑えていたんだろうと思います。
「だいぶ意識も薄くなっているようだ」と帰宅した夫は言いました。

そしてその2日後の朝に「今日か明日がヤマです」と知らせが入り、そこから数時間で義父は旅立ったのだけど。

この「ヤマ」「危篤」がどうしてわかるのかなーと家族みんな知りたかったの。
それは決して病院を責めているのでもなく、ただ単にどこを見て判断するのかが知りたかったのね。

そしたら、《努力呼吸》という言葉を担当医師が教えてくれました。
私達家族みんな、へぇーと初めて聞いた言葉でした。


義父のように徐々に衰弱していく病状の場合どこで判断するかと言うと、呼吸が変わるんだそうです。

人間は横になっている時、普通は腹式呼吸が自然にできています。
お腹が上下する呼吸ね。
それが、肩を上下させ必死に体内に取り込もうとする呼吸…努力して呼吸すること…に変わると、そこからはあまり長くないそうです。
ゆったりしたお腹の呼吸から口先で吸うような呼吸に変わるのが、あるサインになるそうです。
もちろん全ての危篤がこの限りではないでしょうが、義父の場合はこの呼吸になった時が「家族に電話」のタイミングであったと。
看護婦さんも、もちろんそれをご存じで、「長いこと医療に従事していればその変化がわかります」とおっしゃいました。

ネットで検索してみたら、確かに《努力呼吸》についてのブログを書かれている方もいたし、人生何十年生きてきても、知らない言葉ってあるんだね。

義父はそのサインを以って、義母に「早く病院に来い!」と知らせてくれました。
最後の努力呼吸を必死にしていたんだね。

なんか、家族の霧が晴れたような言葉でした。

義父を送りました

2014-04-02 | 家族・おうちバナシ
夫のお父さんが他界しました。

病院から実家に「危篤で今日・明日がヤマです」と連絡があり、それは私達夫婦の休日でもある木曜日の朝のことだったので、では病院に行こうか…と仕度をしているところに「今、亡くなった」と甥から再び連絡が入りました。
朝10:40のことです。

結局、義父を看取れたのは義母と甥っ子の2人でしたが、もう2ヶ月も闘病をしていたので、悲しみより安堵が先に立ちました。
私達はあわてずに霊安室へ行きました。

気道が狭まり、長いこと必死に口呼吸をしていた義父は、まるで今でも息をしているかのような表情でした。
でも、気道確保のための喉の切開もしなかったので、外傷もないその姿はホッとしているようだったと思います。

義母がひとりになるのが心配で(二世帯同居の兄家族が階上にいるけれど)、その日の晩は実家に泊まりました。
和室には、2ヶ月ぶりに自宅に帰った義父もいます。
葬儀社との打ち合わせが済めば義母の話し相手になること以外、嫁である私が実家ですることなどあまりありません。
続々と駆け付けた姉家族やら、甥っ子たち、総勢16名でお寿司をとり、晩ご飯を食べました。
私はヒマをごまかすように、冷蔵庫にあるあり合わせで温かいお惣菜を2つ作りました。
どんな寂しい夜でも、やはり若い甥っ子や姪っ子、孫がいるとにぎやかで、家族っていいもんだなーと思わされますね。

翌金曜日は、私は実家から午前中だけ仕事に行きました。
会社近くにあるおいしいお弁当を夫と義母に買って帰り、お昼を3人でとりました。

義父の枕もとにお花を添えてあげたくて川崎にあるお花屋さんに行くことにしたら義母も行くというので、3人で出かけました。
車での外出は、ほんの少し義母の気晴らしにもなったかな。

私が買ったのは、黄色のシンビジウム。


自分の父の時も枕もとにはこれだったように、私はやはり黄色のシンビジウムが大好きなの。
(一番好きな花は、もっと小さいオンシジウム)

義母は、旦那さんにピンクの小さな胡蝶蘭を買いました。


入院患者にはタブーの「寝付く」ももう気にしないでいいし、鉢植えと切り花で義父のいる和室は華やかになりました。



その日は夜遅くにいったん自宅に帰宅し、自宅で寝ました。
お洗濯やら喪服の準備やら、自宅にいればやることはいっぱいあります。


朝の光の中、夫と私は、棺に入れる手紙を父に宛てて書きました。

筆不精の夫は、どんなに頼んでも私に手紙一つくれたことがないけど、「一生に一度お父さんに手紙書いたらどう?」との提案に素直に応じました。
どんな内容にしようがどんなことを書こうが私は一切関与しないでおこうと決め、目の端で様子をうかがっていたら、鼻をすすりながら下書きをしているようでした。
「こんなんでどう?考えてたらちょっと泣いちゃった…」
素直な夫には照れもないのか、私に校正を求めてきました(笑)
短いなりに夫の思いが詰まった父への手紙だったと思います。

もしいつか、夫が私に手紙をくれるとしたら、この人きっとその時も私に校正を頼むんだわーと苦笑いしながら、2人分の手紙と2人が写る写真を封筒に入れました。

土曜日はまた実家に戻り、翌 日曜日が通夜、月曜日が告別式でした。

通夜は激しい雨の中で営まれましたが、告別式は暖かい桜満開の中で行われました。
そうそう。
消費税が上がる前にお葬式だなんて、「おとうさんエライよねー」と家族で笑い合いもしましたよ(^^)


お父さん、87年間お疲れさまでした…
私とはわずか20年のお付き合いでしたが、今までたくさんのサポートをありがとうございました。
お母さんが驚くほど、口数の少ないお父さんから会話を引き出していたにぎやかな嫁でしたね。
またいつかお相撲の話、しましょうね。

たいしたことはできないけれど、お母さんをこれからも守ることと、夫と仲良くしていくことだけは約束できるから安心してね。