盛岡市総合プールの近くには、こども科学館や県立美術館、遺跡の学び館と博物館系が充実しています。その中でひときわマイナーなのが盛岡先人記念館と原敬記念館です。
なぜマイナーなのかと言えば、かなりマニアックだからです。盛岡市出身か由来の人物を並べているのですが、その数が凄い。総合展示室で127名です。こうなると通常の日本史に登場しない人が出てきます。出て来ても脇役です。しかしもの凄い仕事をしている人たちばかりです。
特に抜きん出いる、新渡戸稲造、金田一京介、そして米内光政は特別展示室が割り当てられています。原敬はいません。別格の原敬記念館があるからです。宮沢賢治も盛岡一高・高等農林と盛岡ゆかりですが、花巻出身なのでこれまた別格で、ここにはいません。
実は館内撮影禁止でして、写真での説明はできません。
先人記念館をオススメしたい方は、盛岡に初めて来た営業さんです。読もうと思えば盛岡の人脈系がウッスら見えてきます。介護職の方にもオススメします。横川省三なんて80歳以上の方にはヒーローです。
マニアックさはどういった所に現れているかと言えば、例えばこの石ですね。実は方角と見える山を書いているのですが、まるで自然に出来たように見えます。多分誰も気がつかないでしょう。門の脇にあります。
今回先人記念館に言ったのは、第51回企画展「南部のほまれ-御釜師・小泉家二代-」を見るためです。なぜ南部鉄器を見に行くのかと言えば、実は南部鉄器の名品を見る機会は普通ならほとんどない、と言う事です。家庭用の鉄瓶はほとんどステンレス製に置き換わっていますし、茶道具の風炉や釜などは茶会に行かなければ見る事はありません。当然ランクがあるわけで、ステージの高い茶会では名品を見れますし、古くからの茶会でもいいものが見れます。でもステージの高い茶会にはそうそう入れるわけではありません。各店舗で新作も見る事は出来ますが、古い名品を知らないとそれがどういいのかを評価する事は出来ないわけです。そのうえ茶道具はそれなりのお値段です。買えません。
知り合いに鉄器屋がいたりするので、こういったイベントには注意しています。
詳しくはサイトか会場で見て頂くとして、ポイントとして南部鉄器研究所ですが、確か南部公が主催していたのが、破産して、一時期光源社が関わっていたと言う事です。出版社の光源社が民芸屋に変わるのはここから始まっていると思います。
生型・焼型論争は、あっさりと触れられていますが、維新以降の技術史としてみれば非常に重要なポイントです。現在では通常の工業製品の型の作り方はもっと簡単になっていますが、当時としては寸法安定性の悪い生型を拒否するのは当然です。なぜなら後工程がもの凄く大変になるのですよ。一発で鋳込んで後処理が出来るだけ簡単な方が生産合理性があるのですが、当時の生産工学はそんなレベルだったと言う話です。
岩手県内にある南部鉄器茶道具の名品はどこにあるのか、なのですが茶道具なので大体は個人蔵です。一番いいのは大体そうでしょう。後は岩手県と盛岡市なのですが、意外な所で岩手県工業技術センターがかなり持っている事が解りました。本来は美術工芸品なのですが、テクニックスゲーというマニアックなのがそちらにあるようです。
今回は数は少ないけど、そういったものが見れます。
南部鉄器は今でこそ中国で流行っているようで、模造品もいっぱい出ているようです。その意味でも、本物を見るのは大切な事です。
南部鉄器の技術は、職人の合理的な計算とそれを裏付ける手わざとで出来ています。そこにはウーンと思ってしまう良くわからない所もありますが、そう砂をどこからとってくるのかとかある意味秘伝みたいなものもありますが、型を作って一発で完璧に鋳込む、この凄さが解らないと退屈な展示です。
明治維新以降の逆風もそうなのですが、それ以上に新進の気風を取り入れて行く過程が、展示では全く見えないんですけど、物があるのでその凄みに降れる事が出来ると思います。
展示は9月28日までです。以前の県立美術館の展示ほどは充実していませんが、工業技術センターからの出品がとても面白いです。
ここまでは9月3日、5日に行きます。
さて今日で屋外プールは事実上閉鎖です。名残惜しいので写真を撮りました。
さすがに泳いでいる人はいません。
本宮にあるこども科学館や遺跡の学び館・盛岡先人記念館・原敬記念館、旧市内にある盛岡歴史文化館・盛岡てがみ館をどこでも二つ見れるチケットです。かなり格安チケットで、大雑把に言えば二つ見て700円が半額の350円というバーゲンです。おまけに半券が1年有効です。例えば今回のように9月2日に買って先人記念館を見て、9月4日に原敬記念館に来れるわけです。
でもう一つ凶悪なのは、盛岡市保有の博物館施設7つのうち6つを一枚のチケットで見れるのです。こうなると3分の一の格安チケットです。これも購入後一年有効です。お買い得です。
それでは原敬記念館です。これが昔の正面ですね。
再開発で、公民館施設が出来てかなり広大になっているのにご注意ください。
入り口です。落ち葉がきれいです。
さて原敬記念館ですが、英文字ではHALA KEI となっっています。はら・たかしが正しいと言う事になっているのですが、盛岡ではハラ・ケイと言った方が早いです。たぶん幼名の健次郎から、盛岡の人からはたかしと読みにくかったからかもしれません。
この記念館は、正面の蔵や鎌倉の書斎などを現物展示していますが、原敬はこの盛岡にあった別邸の蔵の中に、手紙や書類を保存していました。その数は膨大で、整理しきられていないようです。おかげで記念館も展示スペースが足りず増築しております。
鎌倉の書斎です。外観から見ると数寄屋ではありませんが、さっぱりとした印象です。
移築された東屋ですが、すこし数寄屋の匂いがします。移築した建物もあり、庭も含めて生家の当時の状況がどうだったかが、解りにくい所があります。
さてこれが母屋です。実は土日しか公開展示していません。見れないんですか?と聞いたらあっさり開けてくれました。要望があれば、開館時間内だったらいつでも開けます、ということです。ありがとうございました。
原家は三代目に藩から出されてしまいます。そこで3代から6代まで新田開発などを手がけそこからまたのし上がって行きます。そして6代目の時に家老職に戻るのですが、このとき殿様をまねいたようで、脇座敷やお成りの間を含む、今の5倍の面積の建物だったようです。明治維新以降不要な場を削って今日の形になったようです。
さて経緯が経緯だったので、家老でも城下に住まない事が許されて、この本宮から通ったと言われています。
ただそう言った経緯があるせいか、もの凄く作りがいい家です。釘隠しに貝の意匠をあしらっていますが、辛抱と言う意味でしょうか。そして家長の部屋には鶴一羽の意匠の釘隠しになっています。この辺りに藩主に体するなにか思惑を感じます。
中を撮影していないのですが、外見の詫びた感じとは全く違い、本当に瀟洒でしっかりした作りの家です。よくある太い柱と梁で屋根を支えるのではなく、木組みで支えて行く作りです。実は盛岡市に移る直前まで原家ゆかりの人が暮らして家を守っていたそうで、保存状態が更に良くなっています。
盛岡市は空襲がなかった町なのですが、明治維新以降、逆賊の南部藩は領地没収、転封を命じられています。そこで家老職の屋敷も全部失われてしまい、武家屋敷のほとんどが残っていません。町家や豪商の家もかなり残っていません。この意味では、盛岡市の古い建物の中でも群を抜いて重要な建物と言えます。
それ以外にも、家老職なのに仙北町や河南地区と原家の結びつきが極めて強い理由も解ります。在野時代の原家は新田開発を通じてお金を儲けただけではなく、地域経済を振興させて来たと言う経緯があるようです。原敬が盛岡市長選に出た時も圧倒的不利と言われながらもこの仙北・河南地区らかの支持で、圧勝を納めます。この辺りの構図が解らないと、単なる政党政治の親分にしか見えない所があります。
こちらが正しく東屋ですよね。これは完全に庭に付随した物のようです。
原敬がなぜ別格かと言えば、やはり首相にまでなった初めての岩手県人で、日本初の政党内閣を結成した事でしょう。このため記念館の展示は当時の著名人からの手紙がいっぱいあります。もう日本近代史そのものです。李鴻章からの手紙なんかもうどうしましょう。
大変マニアックな展示ですが、見応えはあります。
さて平民宰相と言われていますが、家老の家柄で官僚出身で、新聞社社長でどこが平民なんだという声もあります。本当の平民からと言う事では、田中角栄が初めての平民宰相と言えます。とはいえ、今も昔も平民でも首相になるのはそれなりの知力と体力と、財力がないと出来なかったわけです。特に明治憲法下では並では首相になれないと言う空気もあります。何しろ天皇の信任がなければいけないわけですからおいそれと誰でもなれるわけではなかったと思います。
でも二人とも後世からの毀誉褒貶が厳しい所もあります。根回しの達人ですから。しょうがないか。
帰り道です。晴れ間がのぞいています。
なお両館とも、受付が気持ちいいです。無愛想な所が全くありません。むしろようこそいらっしゃいましたと全身で言ってきます。そして原敬記念館ですが更になんなのか、職員が説明をしてくれます。質問しても答えてくれますし、サービスがとてもいいです。ということで日本近代史マニアにはオススメです。
そのうちまた行って見ようかな。1枚で1年有効の盛岡市営博物館施設6館、超格安入場券もあります。ヒマ潰しにはもってこいです。