昨日はラクロスをほぼ一日中撮影していた。そして今日は北東北大学野球だ。第一試合は岩手大学VS八戸学院大だ。見ただけで岩手大学負けます。とは言っても八学は以前のようなオーラはもうない。昔は王者としてのオーラが全ての選手にあった。ギラギラしたものに圧倒されたものだ。それがすっかり真面目に普通にやっている大学野球部だ。平均身長も5センチは小さくなっただろう。まあかなり厳しくやっているのは間違いがない。とは言え八学には日刊スポーツが取材に来ていた。その点はさすがだ。
岩手大学が1点、八学が4点だった。ボールをキャッチしたが足を滑らせて送球できなかったというプレーがあってそれで岩大は負けたと言ってもいい。だがそれ以外では試合を壊すほどではなかった。次の富士大VS青森大の試合を待っている富士大のファンが、「岩大は自滅した」と関係者で話していましたが、それは少し違う。自滅したのではなくあれは諦めていたのだ。つまり最初っから自滅していたのだ。
まあ仕方がない。下手に緊張して変なプレーを続出させるよりは、諦めてリラックスして臨んだほうがまだマシだ。これも作戦の内だが、その諦めには個人差がある。特にバッターボックスには行った時には欲が出る。それが甘い玉を見逃し、引っかかるわけだ。そしてファインプレーをやった直後の着地ミスを起こすわけだ。
無心の内に緊張を保つという方向にはなっていなかったわけだが、そこまで練習していなかったというのが、少し見えている。
富士大VS青森大の試合は、体型似た者同士対決なので見たかったが、食欲に負けた。緑が丘には安くて美味しくて店内が綺麗な蕎麦屋・やま庵がある。店主が高齢で1日24食限定で営業しているので、開店時間に行かないと食べ損ねてしまう。だがちょうど11時に試合が終わったものだから、少し練習を見て店に向かう。11時40分には着いたのだがすでに3人のお客がいる。逆に今日は日曜なのに暇なのだ。負けた試合を取り返すために、鴨せいろを奮発するが、もうちょっと涼しくなってからのほうがよかったなと反省した。行ける時に行く店なので、仕方がない。いつもの相盛りであるべきだった。
で、響でグダグダとコーヒーを飲んで帰る。ストロングなアンティグワを飲んで、ブレンドのデミタスを飲んで、ケニアで〆てしまった。
全部最高においしものばかりなのだが、負けた試合の後のものは散財感がきつい。
7月の下旬から8月上旬までワーグナーを聞きまくっていた。そしてマーラーときてスクリャービンと聞きまくった。間にレーガーとか後期ロマン派とかまで入ってきてもうわけがわからない。今大反動でショスタコービッチのジャズ組曲のヘビーローテーションを経てやっぱりクルト・ワイルを聞いている。今これ以下のこれ以上の曲がないのかと考えている。
ロマンに浸るとその反動で超ドライに向かう。
多分この後はショスタコービッチかシュニトケに向かうぞ。
でも今回は発見があった。グルグルがロマン派の本質だと。そうグルグルまわることが大切なのだ。
ベートーベンの発見は、メロディーラインが短いほうが交響曲はかけるということだ。だがその後の人たちはメロディーラインの拡充に励んだ。結果うまく行かないのだ。で、どんどんくどくなるのだがその中で新たな発見があった。でっかくすればいいのだ。そうすると表現領域が拡大してくどさを驚きに変えられる。だが驚きだけだったら、交響曲の枠組みを外せばいい。ということでベルリオーズの出現になるのだが、交響曲にこだわる人には、酩酊するくらいに同じ歌を手を変え品を変え聞かせてゆく。で、実際酔っ払うのだ。
ワーグナーの巧妙さはそのグルグルが劇の中で展開されているのでくどくなく聞こえる?ということだろう。あそこまでの長時間だとそうなる。
グルグルを整理したのがフランス人だった。循環形式だ。だがこの形式もメロディーラインが長くなると成立しにくい。むしろグルグルの本質を無視していたのだ。
グルグルは古い宗教儀式にある。いや宗教儀式が全てグルグルなのだ。回るのだ。具体例は言わない。プロテスタントはグルグルしない。儀礼を否定したからだ。だが彼らは聖書をグルグル解釈しまくる。
グルグルには受容が大切で、後期ロマン派の人たちが悩み続けたのが多分ここなのだろう。受け入れてしまったら、それこそ神秘主義者の訳のわからない音楽になってしまうのだ。極端なことで言えば、フランス人なのでおしゃれなエリック・サティにまつわる謎とか、スクリャービンの訳のわからなさになる
グルグルばっかり聞いた挙句に今快感として、クルト・ワイルを聞いている。
第一次世界大戦の断絶を耳で聞けるのは、幸せなのだろうか。今ある断絶はどうなのだろうか。と思わせぶりな言葉を書いて、寝る。