どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

ゴジラシールをベタベタ貼って、ベアレンオクトーバーフェストに行く

2016-09-21 19:37:16 | 日記

 

ゴジラのセリフシールをどうしようかとなって、300ミリに「目標が報告と違う」、200-70のズームに「仕事ですから」を貼った。誰か気づけばいいな。

 

 

当然自転車にも貼る。

 

 

ということで、私の自転車は意味不明の物体になった。シガレットケースとか他にもベタベタ貼ったが、「矢口蘭童」のシールだけは利用法が見つからない。

 

 

ということでベアレンオクトーバーフェストに、響の熱田氏と行きます。いやいや盛り上がっています。

 

 

てるてる坊主がなんとも言えませんが、一昨日まで降水確率60%とは思えない快晴で、低湿度。ビールを飲むには最高です。

でも参加者全体大人になりましたね。元を取ろうとしてガンガンやった挙句潰れる人がほとんどいなかったのはいいことです。隣の大学のOB・OGが多くて、私を誘蛾灯にして、結果熱田氏に女の子がいっぱい集まったのは壮観でした。真面目に「仮定された有機交流電燈の 一つの青い照明」でした。

でもな、シン・ゴジラを5回見たという女の子と盛り上がったのは、まあそれはそれだけどそれもそれでどうなんだというくらいで、野村萬斎のモーションキャプチャーの真似とか、歩き方とか、さらに女性が美しく見える歩き方とか、結構盛り上がったな。でも一番同情されたのは、野村萬斎のモーションキャプチャーを真似したら足を壊したといいうことだろうか。

 

 

バスまで時間があったので、熱田氏と酔いを覚ますために、峠を越えることにした。ただ不思議なことに一人、沖縄人が付いてきた。

沖縄人は少し不思議なところがある。懐こくって可愛いんだが、こういったときにまるで子犬のように、なぜかついてくるのだ。でも迷ったわけではなく、しかし確信的でもなく、駅から遠いところまで、しかも約束をすっぽかしてきてしまった。

熱田氏が「日本で一番うまいコーヒだ」と酔った勢いで言ってしまったところが大きかったかもしれない。コーヒーを飲んで最終で帰った。帰ったと思いたい。彼のスマホの待ち受けには可愛い赤子がいた。でも、沖縄人のいい加減さが本当は正しいんだがね。

ただ彼が飲んだ、2杯目のガテマラ3にケニア2のブレンドは、最高ではなく多分日本最強だろう。もちろん総合格闘技から様々あって、ストロングスタイルは多様性の波にかき消されている。ただ藤波が仕事をして猪木が締める、あの華やかさがこのブレンドにある。

裏メニューのブレンドだ。

ゴジラ・ゴジラ・ゴジラがくるぞ、ゴジラ・ゴジラ・ゴジラがくるぞ、ゴジラ・ゴジラ・ゴジラがくるぞ、ゴジラ・ゴジラ・ゴジラがくるぞ、ゴジラ・ゴジラ・ゴジラがくるぞ、ゴジラ・ゴジラ・ゴジラがくるぞ、ゴジラ・ゴジラ・ゴジラがくるぞ、ゴジラ・ゴジラ・ゴジラがくるぞ、ゴジラ・ゴジラ・ゴジラがくるぞ、ゴジラ・ゴジラ・ゴジラがくるぞ、ゴジラ・ゴジラ・ゴジラがくるぞ、ゴジラ・ゴジラ・ゴジラがくるぞ、ゴジラ・ゴジラ・ゴジラがくるぞ、ゴジラ・ゴジラ・ゴジラがくるぞ、ゴジラ・ゴジラ・ゴジラがくるぞ、ゴジラ・ゴジラ・ゴジラがくるぞ、ゴジラ・ゴジラ・ゴジラがくるぞ、ゴジラ・ゴジラ・ゴジラがくるぞ、ゴジラ・ゴジラ・ゴジラがくるぞ、ゴジラ・ゴジラ・ゴジラがくるぞ、ゴジラ・ゴジラ・ゴジラがくるぞ、ゴジラ・ゴジラ・ゴジラがくるぞ、ゴジラ・ゴジラ・ゴジラがくるぞ、ゴジラ・ゴジラ・ゴジラがくるぞ、ゴジラ・ゴジラ・ゴジラがくるぞ、ゴジラ・ゴジラ・ゴジラがくるぞ、ゴジラ・ゴジラ・ゴジラがくるぞ、ゴジラ・ゴジラ・ゴジラがくるぞ。

そういったブレンドだ。何でもかんでもゴジラにしてしまうのは、多分あとすごくかかると思う。でもありゃ最強のブレンドなんだよ。


2度目のシン・ゴジラ

2016-09-21 01:36:30 | 日記

 

今日も時間を作ってシン・ゴジラを見に行く。2度目だ。フォーラムでは切符のもぎりがミニラのような可愛らしい男の子だった。なんかサプライズな演出だ。40万人オーバーの記念シールをもらう。1日違いでもらえなかったシールだ。なんとなく嬉しい。そして7番シアターに入るとゴジラみたいな人がチラホラいる。ゴジラ感満載だ。ゴジラがゴジラを見るというのは愉快だ。ゴジラがカリウム同位体入りのポップコーンをボリボリしているのは想像しただけで楽しい。LLカップのコーラも頼もしい。

なお、カリウム同位体は自然にいっぱいあるので、皆様ご安心ください。

フォーラム盛岡はもしかするとシアターごとで少しだけ音響が違うかもしれない。前は5番だと思ったがサラウンドスピーカーから出るホワイトノイズが少し大きかった。7番はもノイズはあるが5番ほどではない。5番は思えば中低域が強い音だったが、7番はバランスが良い状態のようだ。ヤシオリ作戦の時の音楽はやはりエフェクトがかかっていて、くぐもった音質になっているが、5番ではくぐもった印象が強くなり、7番では気がつかない程度になっていた。シネマコンプレックスの最大の欠点である漏音はどっちもどっちもだが、7番の方が気になった。

2度目ということで、かなり余裕をもって観れた。ほんとこのスピードにはついていけない。2度目ということで画面にもセリフにもようやく追いついた気がする。ウワサである、がれきから人の手が出ているというのは確認できなかったが、最期の尻尾のシーンは確認できた。確かに人らしき形はいっぱいある。一つではないのだ。

 

 

映画館から出ると雨だった。今回は映画館にゴジラのような人がいたが外ではいなかった。

ラストの尻尾の人形なのだが、初代の「第2次世界大戦の英霊や民間人の霊」という説をとるならば、311の津波に遭った人たちの霊となる。ただこの靈説はとても魅力的だが、それは初代までだ。なぜならそれは東京大空襲のコースだからだ。だから見るべきものを観てゴジラは帰ったのだ。まあ多分天皇が抑えたのだろう。

311靈説になるなら、かなり様相は変わる。なぜ東京なのかというお約束が成立しなくなる。東北沿岸から出現しなければいけない。だってそうでしょ、そこから千葉県を通って東京湾に入らなければいけない。ということで靈説はこの映画ではあまり意味がない。(ないわけではない)

設定では明快になっていない核投棄場所だが、マリアナ海溝と考えて良いだろう。そこが世界で一番深く日本に近い場所だからだ。にしては写真が鮮明なのはどうかと思うが、そこから生まれた生物が単体進化、もしくは変態を続けながら成長してゆく。進化する過程と合わせてのドラマがこの話になるのだが、一番近い所に上陸したというのが正しいだろう。それ以外は考えにくいのだ。

それではエヴァンゲリオンと同じように、人体から生成された生き物であるという説にはまったく同意しない。庵野監督がそれをするはずがない。全く違う世界観をつなげるというのは、ゴジラ世界ではやってはいけないことなのだ。特撮オタクでもある庵野監督はそこは重々分かっているはずだ。

牧博士説もない。理由は個体が多いからだ。この件で出た死者を全て取り込んだとしても、そもそもどうやって取り込むのだ?

その前に公開されている例の折り紙分子構造が、依り代のような人形になっていることに注目したい。その分子構造が蓄積した結果人体のように見える構造になったと考えるのが合理的だろう。

だが骨格構造が人体のつなぎ合わせのようにできている、巨大生物にしてはまったく非合理なのだ。そこで、第5形態のゴジラが生成される直前で止めたのだという仮説もある。これが今は有力だと思う。なぜなら完全生物である以上、大きさは必要がない。大きいが故の大きすぎる熱量に対して小型化するというのが、体積と表面積の関係であるわけだ。進化過程を出した上では、ひとっ飛びに人類にたどり着く可能性を担保している。急速に適応するのだ。

つまり第5形態は、一気に分裂してゴジラ遺伝子を持つ、別な人種が登場する世界になる。多分巨人(とは言っても3メーターは超えない)だろうが、どんどん人類に近くなるのだろう。そうすると「進撃の巨人」とリンクする可能性もある。

 

 

上田に白い雀がいるときいていたが、ようやく見た。アルビノではなく部分的に色素欠落の個体だった。だが少しおっとりしていたのと、群れから少し避けられていた。だが写真には撮れなかった。この雀は、少し痩せすぎている。

「春と修羅」と、シンゴジラの関連性はいくらでも見つかるが、全体でここがこうだからこうということは全くない。ただゴジラという現象が反転した世界として合わせて読むとかなり面白い。それはもしかすると庵野の見る世界であり、牧博士の見る世界であり、ゴジラの見る世界だと思う。ゴジラはただ単に何処かに行きたいだけなのだ。まるで徘徊老人のようにひたすらまっすぐ何かを求めて動くのだ。結果鉄道沿線でラーメン二郎があるわけだが、動物である限り最も楽な人の作った道を進み、時には真直ぐに進む。何を求めているのかは、わからない。

ゴジラの尻尾に出たあの構造は、穏やかであり剣呑であり、産業的だ。そこのは歴史があり、そこに修羅として生きていた人類の姿がある。それは平凡なものかもしれない。修羅という角の生えたようなものではない。彼の考えている修羅とはこの世の中全てなのだ。

アメリカの研究とか陰謀的なところはいっぱいある。世界情勢から混沌としたパワーゲームの中で出てきたのが修羅であるゴジラだ。

ゴジラの尻尾には、そう無理やりビームを出して焼け焦げた先にできた人形は、世界が修羅である以上、「仮定された有機交流電燈の 一つの青い照明」が全てにあると言い切ったのかもしれない。

そう誰もがゴジラなのだ。誰もが修羅なのだ。だからあそこには「ひとがた」があるのだ。生きている人間も、見えない人間も、全て修羅であり、修羅の中でこその人生という、どこにでもある命題になる。

 

 

さてこのシールどこに貼ろうか。無邪気であった時はどこででも貼れたんだろうが、修羅となると難しいね。この中で一番好きなのは「仕事ですから」です。よくいう言葉なんですけど、ここでこの言葉は「仕事」の意味を考えさせられました。