今日朝起きると左足首が痛い。何をやったのかわからないが、ちょうど足の指への腱が集中しているあたりの下の骨のようだ。なので歩いても痛くはないのだが着地の高さが問題のようだ。
思い当たるのは、真夜中にシンゴジラの公式サイトに「あなたもゴジラになれる」というコーナーがあって、顔写真を合わせて野村萬斎のモーションキャプチャーと合わせて動かせられるというものだ。モーションキャプチャーは人体なのでゴジラに合わせて修正した動きではなく、どうも野村萬斎のモーションキャプチャーの全く無修正のもののようで、キャプチャー落と思われる部分を含んでいる。まあそれを真似したということかもしれない。結構吠えるところは難しい。中腰すり足で歩いて、両足揃えて止まってから腹筋に力を入れて少しかがんでから、両腿を少しビックッと震わせてその力を一気に腰から胸にあげて、顔をあげて吠えるという動きだ。結構難しい。肩の力はすべて抜いておいたほうがいいかもしれない。足の先は開いていないようだ。
考えられるのは多分これだけ。
先週は、この調子では来週はショスタコーヴィッチばかり聴いているだろうと言っていたが、なぜかシュニトケの交響曲ばかり聴いている。6番以降は似たようなところがあるが、まあ違う。なぜか4番をよく聞いている。
ポップスを芸術まで高めるという作業は、ある意味ショスタコーヴィッチのジャズ組曲に通づるものがあるのだろう。
響に行き熱田さんにシンゴジラのパンフレットを見せて、煽っておく。ネタバレ禁止となっているが、この場合はネタバレは上等だろう。なにしろ話の筋がわかっていても情報量の多さに圧倒されてしまうからだ。特に筋と全く関係ない部分、冒頭の「春と修羅」との関わり合いとか、映画監督の岡本喜八にオマージュらしきものがあるとか、ただそれ以上にゴジラファンだったようだ。CGでなければ絶対できないゴジラロングカットとかに、パンフレットからそそられたようだ。
そう、今回のゴジラ映画は秘密主義でどんな筋なのかはTVでは全く出さずに、映画用コマーシャルでゴジラが出てくる程度にしか情報がない。とても少ない情報では、見に行く動機にならない。正確に言えば現時点でネタバレ的に筋はいたるところで書かれている。でも届かないところには届かないのだ。
ただ、熱田さんに「ゴジラは皇居を壊さない」「初代ゴジラは東京大空襲の進路と一致している」。これはしばらくして、同意をもらった。そう初代ゴジラにこめられた怨念は凄まじいのです。
「春と修羅」を読み始めた。詩集はやっぱりめんどくさい。言葉にしなければいけない。字面では詩集を読んだとは言えないものがあるが、賢治の詩集は今でも難解だ。だがゴジラ以降は、なにかゴジラの心象風景に見えてしまうのだ。
侏羅や白堊の真っ暗な森林の中
爬虫がけわしく歯を鳴らして飛ぶ
その氾濫の水煙からのぼったのだ
たれも見ていないその地質時代の林の底を
水は濁ってどんどんながれた
いまこそおれはさびしくない
たつたほとりで生きてゆく
こんなきままなたましいひと
だれがいつしよにゆけようか
大ぴらにまっすぐ進んで
田舎ふうのダブルカラなど引き裂いてしまへ
それからさきがあんまり青黒くなってきたら…
そんなさきまでかんがへないでいい
ちからいっぱい口笛を吹け
宮沢賢治著「春と修羅」小岩井農場パート4断片
賢治の詩集は人間的でないところが大きい。言葉による世界の造形という側面もあり、断片的な言葉を寄せ集めた世界という側面もあり、中二病的な側面もあり、世界と個人の対峙する限界というのも感じる。その代表的な詩集が冒頭にあるということで、賢治ゴジラ化という現象が私に起こっている。
ただ、宮沢賢治の静六氏は賢治作品の猫化というのをえらく嫌っていた。ますむらひろし氏の「アタゴオル物語」は別作品だと考えていたようだが、「宮沢賢治童話集」は我慢できなかったようだ。ただますむら氏の影響は強く、静六氏の死後に作られた「銀河鉄道の夜」のアニメ化は、ネコ化した。
私も賢治作品のネコ化は嫌いだ。賢治の世界は決して自由ではない。ネコ好きが考えている自由な世界では全くない。
だが賢治ゴジラ化は、どうなんだろうな。静六氏は許してくれるのか。多分猫よりは嫌な顔をしないはずだ。でもやっぱりここは人に戻さないといけない。
人として「春と修羅」を読まなければいけない。賢治は人である。ただゴジラが「春と修羅」を読んだという可能性が捨てきれない。
よいちのアオゲラ農園では「シン・ゴーヤ」があった。実は先週第二形態から第三形態から作ったのだが、うまく行かなくて今回第4形態の展示になったという。よくできているよ。なおアオゲラ農園は野生動物の研究者がドロップアウトして作ったというところもあって、
卒業した岩大生たちとあった。身長185センチ体重110キロまで大きくなった。まだ第3形態とかゴジラネタで話をしていたのだが、ネタは理解していても、誰もシンゴジラを見ていない。多分理由は、彼らは忙しいからだ。ただもう一つ、別な理由があった。「ゴジラ」は映画館が子供のものだという考えがるのかも知れない。ハリウッド版がイマイチだったということもあったかもしれない。一関では上演されると思えないという、遅れてくるのだともいう。
情報格差というのは、どういったことかというのがわかったような気がした。