今日は午前中曇りだった。写真の納品があっただけで、時間を自由に使うことができた。
響に行き、ベートーベンの第9のタイム比較をする。すると今まで最高に遅いと思っていたチェリビダッケより、カール・ベームの方がぶっちぎりで遅いことが判明した。1分9秒遅いのだ。ただ単に遅いのではなく、リズム変化が少なくて遅いのだ。なのでやたら遅く感じる。酔っ払えないほどにだ。
世の中にはこれ以上に遅い演奏もあるかもしれないが、とりあえず私の中では、ベームが一番遅い。
フト気がついたのだが、この10年くらいの間で「ボーダー」もしくは「境界例」という人たちが、若い子の中で激減した。ボーダーを「対人関係に問題のある人」とも言えるが、病的性格という言い方もある。
これが問題になったのは、90年代だろうか。一時期は10人に一人はボーダーと疑ってもいい状態だった。それがいつの間にかいなくなったのだ。そして立ち現れたのは、変人だ。
この流れはなんなのだろうか。
そこで一つ考えなければいけないことがある。まず女の子同士でベタベタしあうのがよく見られるようになったのは90年代後半だ。彼女らは、「だって可愛いんだもん!」とか「肌がキモチイイ」とかよくわかんないことをいっていた。はっきり言ってレズにしか見えなかった。だがレズではない。全くない。なぜならその兆候を最初に見せたのは美術系と、婦女子だったからだ。美術系は感性の問題だと切り捨てたが、異性に興味があってそれがねじくれている彼女らがレズだったら、それはおかしい。それが一部の話だったらともかく、女の子同士でベタベタしているのはどこにでもある風景になりつつある。
で、男の子だ。10年ほど前から男の子同士で平気で肩を組むようになった。え、それってよくある話じゃないの?いえ、私の年代だと立ち話して隣同士で肩組むなんてありえなかった。よっぽどスポーツ大会とかそういった時だけだった。マジ男同士抱きつくとか、腕を組むとかありえない。でもあるんだな。とはいえ女子ほどではないが、ホモかと思ってしまう。
とはいえ友人の腹毛に火をつけたがるやつとか、失恋した後輩の頭に火をつけるやつとか、そしてそれを当たり前と思っているつけられたやつの、人間関係ってどうなんだろうと思うが、ホモソーシャルを超えた何か別次元になっている。
まあホモでもレズでもイイんだけど、何かがえらくぶっ壊れた時代なのは間違いない。
なぜ、ボーダーがいなくなったのかといえば多分この何かが壊れたせいだろう。女の子はかくあるべしというのが壊れて、男の子はかくあるべしというのが壊れてしまっているのだろう。その中で、対人障害や行動障害を持った子供たちが生きやすくなったのかもしれない。
昔は対人障害や行動障害を持った子供はいじめの対象になった。その結果こじらせてしまって「病的性格」になったいたのかもしれない。もしかすると、今ではそういった問題は個性として取り扱われて、適度に矯正されながらのびのび育っているのかもしれない。変人が増えたと思うのはそういったところなのではないのかと考えている。
それは学校教育の問題ではない。少子化が原因だろう。確かにモンスターペアレンツなんかが増えて、教育側がその対応のために子供達を強制的に型にはめられなくなってきているというのはある。それ以上に少子化で子供を大事に育てる風潮が、教育を精緻なものにしているのではないのだろうか。
PTSDの対応などもそうだが、新たな言葉が導入されるたびに現場は対応に追われてきた。その中で学級崩壊をもたらす問題児の対応というのがあった。これに対しては、しばらくして行動障害・対人障害という言葉が導入され、対応策が練り上げられていったと思う。それが10年前だったとすれば、符合はつく。そしてこれはいじめ防止にもつながることでもあった。
ゆとりだから変人が増えたというわけではない。今目の前にいる若者たちはゆとり教育の世代ではない。そして対人関係から全てを諦めたようなサトリ世代でもない。いやサトリ世代というのはいまだかつて見たことがない。彼らは大体、チャンスがないとは思っていないからだ。雌伏である。
日本の中の何かが大きく壊れたようだ。それはそれで時代のせいだろうし、ある意味「民意」だろう。それが変人の増加に現れている。
まあその前に、今の子たちは思ったことをすぐに口に出す癖はあるな。そういったのは日教組だけではできないことだ。アメリカ文化だけでもない。
変人が増加した時には、時代が変わる。これは歴史的法則だ。