雨宝院は、本隆寺の北直ぐに位置する。境内には観音堂の他に不動堂、稲荷堂、庚申堂などたくさんのお堂が建ち並び、界隈の人からは西陣聖天さんと呼ばれ親しまれている。
平安時代の弘仁12年(821)嵯峨天皇の病気平癒を弘法大師空海が祈願し、六臂の歓喜天(聖天)を安置した大聖歓喜寺が始まりとされ、境内は広大で千本通五辻まであったが、応仁の乱(1467~77)により堂宇は焼失、荒廃。天正年間(1573~92)に雨宝院のみが現在地に再建されたと伝える。
そのすぐ近くに大きな岩が祀られている。
岩神祠は、嘗て山号を有乳山という岩神寺という寺院があり、乳の出が良くなるという授乳の神として、特に乳母や保母等に深く信仰されていた。
享保15年(1730)の大火「西陣焼け」、天明8年(1788)の「天明の大火」で類焼した後に岩神寺は衰退して、明治になって廃寺となり、この岩だけが残されたという。
平安時代の弘仁12年(821)嵯峨天皇の病気平癒を弘法大師空海が祈願し、六臂の歓喜天(聖天)を安置した大聖歓喜寺が始まりとされ、境内は広大で千本通五辻まであったが、応仁の乱(1467~77)により堂宇は焼失、荒廃。天正年間(1573~92)に雨宝院のみが現在地に再建されたと伝える。
そのすぐ近くに大きな岩が祀られている。
岩神祠は、嘗て山号を有乳山という岩神寺という寺院があり、乳の出が良くなるという授乳の神として、特に乳母や保母等に深く信仰されていた。
享保15年(1730)の大火「西陣焼け」、天明8年(1788)の「天明の大火」で類焼した後に岩神寺は衰退して、明治になって廃寺となり、この岩だけが残されたという。
岩神祠の大きな岩が吠えたとか、小僧に化けたとか、今では信じられないことが当時は信じられていたのでしょうね。
これは全ての自然に神が宿ると云う日本独特の神を崇める風習に基づき、自然のものを大事にしましょうと云う教えですね。
“信じる者は救われる”
お寺の山号をとってお乳の出がよくなるなど、正にその典型です。
このような伝承、伝説には非常に興味があります。
この岩は花崗岩ぽいですね。大きい。
このところ妻の体調が芳しくないので当分は介護が大変になりそうです・・・
奥さんの介護をおつかれさまです。
おちついたら、史跡巡りなどできたら幸いです。
この記事のコメント返しを、どうしたわけか忘れていました。遅れて失礼しました。
他の(らいちゃん) 、 (tamirin)さん、(ハイジ)さん、 (ぼたん )さんには、毎日コメントさせて頂いてますから
割愛させていただきます。