釘抜地蔵として親しまれる石像寺は、弘法大師・空海によって弘仁10(819)年に創建された。
遣唐使として唐に渡った空海は、帰国の際に石を持ち帰った。その石に地蔵菩薩を自ら彫り、人々の「諸悪・諸苦・諸病を救い助けん」と祈願したといわれる。諸々の苦しみを抜き取ってくださるお地蔵さまということから、「苦抜(くぬき)地蔵」と呼ばれるようになり、その後「くぬき」がなまり「くぎぬき」の名で知られるようになった。苦しみに解放された人が奉納した八寸釘と釘抜きの絵馬が沢山掲げられている。
弘治2(1556)年頃、京都有数の大商人・紀伊国屋道林が、両手が痛み、色々と治療をしても効果がなく、霊験あらたかと評判の苦抜地蔵にお参りして願掛けした。
すると、道林の夢の中にお地蔵さまが「汝の痛みは病ではなく、汝が前世で人を恨み人形の両手に八寸の釘を打ち呪った事がある為に、その罪がかえり苦しみを受けている。汝が祈り救いを求めたので、私が昔の恨みの釘を抜き取ろう。これを見よ」と2本の釘を指し示した。道林が夢からさめてみると、両手の痛みがたちどころに治ったという。
境内の奥には、弘法大師が自ら掘ったといわれる井戸や、平安時代に住んでいた歌人の藤原定家・家隆の墓がある。
先の案内の雨宝院を西に歩いた 千本通 上立売上ル にある。参拝自由。
遣唐使として唐に渡った空海は、帰国の際に石を持ち帰った。その石に地蔵菩薩を自ら彫り、人々の「諸悪・諸苦・諸病を救い助けん」と祈願したといわれる。諸々の苦しみを抜き取ってくださるお地蔵さまということから、「苦抜(くぬき)地蔵」と呼ばれるようになり、その後「くぬき」がなまり「くぎぬき」の名で知られるようになった。苦しみに解放された人が奉納した八寸釘と釘抜きの絵馬が沢山掲げられている。
弘治2(1556)年頃、京都有数の大商人・紀伊国屋道林が、両手が痛み、色々と治療をしても効果がなく、霊験あらたかと評判の苦抜地蔵にお参りして願掛けした。
すると、道林の夢の中にお地蔵さまが「汝の痛みは病ではなく、汝が前世で人を恨み人形の両手に八寸の釘を打ち呪った事がある為に、その罪がかえり苦しみを受けている。汝が祈り救いを求めたので、私が昔の恨みの釘を抜き取ろう。これを見よ」と2本の釘を指し示した。道林が夢からさめてみると、両手の痛みがたちどころに治ったという。
境内の奥には、弘法大師が自ら掘ったといわれる井戸や、平安時代に住んでいた歌人の藤原定家・家隆の墓がある。
先の案内の雨宝院を西に歩いた 千本通 上立売上ル にある。参拝自由。
現在の日本の苦しみも抜いてくれたらいいのですが・・・。
野田総理には石像寺に参拝して欲しいのものです。
見てみたかったな・・・
12時がねずみ、1時は牛、2時は寅...と順番にふっていくと夜中の2時は丑が最も満ちた時間、つまり
「丑みつ時」となる。
これを方位に置き換えると「艮うしとら=鬼門」ということになる。幽霊の出る時間と鬼の来る方角
が一致している。
鬼のスタイルが、牛の角にトラのパンツというのも鬼が入って来る鬼門が丑寅だからなんだ。まさしく
オヤジギャグそのもの。
(鷲谷芝嵐) さん へ
>結果はどうであろうと(かまわん)。
そうですね、窯はひとつですから(窯one)と達観して言い当てています。
わくわくどきどき感を大切にしたいです。
釘抜地蔵の伝説を追加しました。
(らいちゃん) へ
そういえば、「すっぴん」と「別嬪(べっぴん)」の語感は似てますね。
とすると、素うどんも歌舞伎から派生したのかもしれません。素敵な話題に、・・・素晴らしい。
(ぼたん) さん へ
サザンビーチを、さんざん眺めてきたのですね。
釘抜地蔵は、伝説になりました。これを広めた人々は、素直に信じたことでしょう。
サザンも伝説になるかも・・・。
(tamirin) さん へ
>お地蔵様の写真は無いの?
釘抜地蔵の記事に伝説を追加しました。写真も他からいただいてきました。(^^ゞ
これをシティー・オブ・ジゾウ というとか、いわぬとか ・・・あしからず・・・