
明治初年、明治新政府は一兵も直轄兵をもってなかった。世界史上、軍隊のない革命政権はこの時期の明治政府だけだった。
革命化した藩士たちにとって藩主(大名)の主君を討つ(討幕運動)のは藩主に不忠を強いることになる。また、藩をつぶすこと(廃藩置県)も藩主への不忠になる。これらの矛盾を一挙に解決できる思想が一君万民思想であった。
幕藩時代、幕府を公儀といい、諸藩は幕府の次元からみれば法的に「私」だった。法理論でいえば、維新時の官軍諸藩の死者たちは私的な存在になる。
内実はまだ封建体制のまゝながら、戊辰戦争の勝利によって「新政府」ができたと考えてよく、その新国家としては日本における新しい「公」として戦死者たちの「私死」を「公死」にする必要があった。でなければ新しい日本国は「公」とも国家ともいえない存在になる。
戊辰戦争が終わった明治2年、九段の上に「招魂社」ができたのはそういう事情による。発議者は大山益次郎だった。この発案を含む国民国家思想に反対する激徒のために、この年の内に暗殺される。
死者を慰めるのに神仏儒によらず超宗教の形式をとった。この招魂社が明治12年に靖国参拝になり、神道によって祭祀されることになる。
明治2年6月、新政府は大名の版籍を奉還させ、一斉に東京への移住を命じた。革命的な措置といえる。もし反乱が起これば旧藩主が担がれるのを防いだ。大名は262人いた。
大名華族になる旧藩主たちは責任が軽くなって大喜びしたといわれる。財政はどの藩も逼迫していたのに、東京居住を命じられると、毎年旧石高に比例した「永世録」が下された。いわば手取りの収入で、大名個人が金持ちになった。
新政府は旧徳川家の直轄領を領地にして食いつないでいた。徳川家の直轄領は奪ったもの、諸藩の領地や士民は手つかずだった。元の大名が藩知事の名で在籍し、依然として割拠の形をとっていた。
それを取り上げ、同時に士族を名実ともに無くすというのが明治4年の「廃藩置県」だった。その挙にあたり、薩長士三藩があわせて一万の藩兵を献上した。当時、献兵と呼ばれやがて御親兵と呼ばれ、ほどなく近衛と改称された。
一方では山縣有朋を中心に徴兵制の施行が進められていた。庶民から集めた兵を国軍の中心にするつもりだった。
江戸にある拝領屋敷だけが大名が所有する土地だった。中屋敷や下屋敷は、町方からの借地だった。
大名なら国許に城がある。これも近代法でいう所有権が大名にあったかどうか疑わしい。明治4年の廃藩置県によって一斉に国家に無償召し上げられ国有地になった。当時、誰も怪しまなかったところをみても、城は天下のものという観念は普通に行き渡っていたのである。
大名たる者は、その領土にあって、農地や市街地に一坪の土地も所有しなかった。大名は、ひろく領内の支配権をもっていただけだった。
たいていのお城は、江戸時代を通じて大名は何代も替わって交代がある。お城は官舎みたいになっている。最初の大名は転封されたときは所有権は消滅している。そういう繰り返しのために城地というのは天下のものという思想が出来た。
明治になると徳川慶喜は、什器、宝物、兵器を置いたまま風呂敷包み一つで自分の実家の水戸に帰って行く。その後に天皇が入る。徳川家の財産を相続したという考えを持たなかった。要するに百姓を搾った金ででき上っただけだから、江戸城もそうやって交代した。ヨーロッパの封建時代やロシアの帝政時代との決定的な違いといえる。
古い時代の地侍・国人は土地所有していたが、秀吉が「刀狩り」の名目でこの体制をつぶした。
豊臣時代以来、大名がもちその家来たちが執行したのは領内の支配権という、いわば義務だけだったというのは、日本的な公の意識の一源流と考えていい。
⑦にもどる つづく
「この国のかたち」司馬遼太郎をピックアップ要約
革命化した藩士たちにとって藩主(大名)の主君を討つ(討幕運動)のは藩主に不忠を強いることになる。また、藩をつぶすこと(廃藩置県)も藩主への不忠になる。これらの矛盾を一挙に解決できる思想が一君万民思想であった。
幕藩時代、幕府を公儀といい、諸藩は幕府の次元からみれば法的に「私」だった。法理論でいえば、維新時の官軍諸藩の死者たちは私的な存在になる。
内実はまだ封建体制のまゝながら、戊辰戦争の勝利によって「新政府」ができたと考えてよく、その新国家としては日本における新しい「公」として戦死者たちの「私死」を「公死」にする必要があった。でなければ新しい日本国は「公」とも国家ともいえない存在になる。
戊辰戦争が終わった明治2年、九段の上に「招魂社」ができたのはそういう事情による。発議者は大山益次郎だった。この発案を含む国民国家思想に反対する激徒のために、この年の内に暗殺される。
死者を慰めるのに神仏儒によらず超宗教の形式をとった。この招魂社が明治12年に靖国参拝になり、神道によって祭祀されることになる。
明治2年6月、新政府は大名の版籍を奉還させ、一斉に東京への移住を命じた。革命的な措置といえる。もし反乱が起これば旧藩主が担がれるのを防いだ。大名は262人いた。
大名華族になる旧藩主たちは責任が軽くなって大喜びしたといわれる。財政はどの藩も逼迫していたのに、東京居住を命じられると、毎年旧石高に比例した「永世録」が下された。いわば手取りの収入で、大名個人が金持ちになった。
新政府は旧徳川家の直轄領を領地にして食いつないでいた。徳川家の直轄領は奪ったもの、諸藩の領地や士民は手つかずだった。元の大名が藩知事の名で在籍し、依然として割拠の形をとっていた。
それを取り上げ、同時に士族を名実ともに無くすというのが明治4年の「廃藩置県」だった。その挙にあたり、薩長士三藩があわせて一万の藩兵を献上した。当時、献兵と呼ばれやがて御親兵と呼ばれ、ほどなく近衛と改称された。
一方では山縣有朋を中心に徴兵制の施行が進められていた。庶民から集めた兵を国軍の中心にするつもりだった。
江戸にある拝領屋敷だけが大名が所有する土地だった。中屋敷や下屋敷は、町方からの借地だった。
大名なら国許に城がある。これも近代法でいう所有権が大名にあったかどうか疑わしい。明治4年の廃藩置県によって一斉に国家に無償召し上げられ国有地になった。当時、誰も怪しまなかったところをみても、城は天下のものという観念は普通に行き渡っていたのである。
大名たる者は、その領土にあって、農地や市街地に一坪の土地も所有しなかった。大名は、ひろく領内の支配権をもっていただけだった。
たいていのお城は、江戸時代を通じて大名は何代も替わって交代がある。お城は官舎みたいになっている。最初の大名は転封されたときは所有権は消滅している。そういう繰り返しのために城地というのは天下のものという思想が出来た。
明治になると徳川慶喜は、什器、宝物、兵器を置いたまま風呂敷包み一つで自分の実家の水戸に帰って行く。その後に天皇が入る。徳川家の財産を相続したという考えを持たなかった。要するに百姓を搾った金ででき上っただけだから、江戸城もそうやって交代した。ヨーロッパの封建時代やロシアの帝政時代との決定的な違いといえる。
古い時代の地侍・国人は土地所有していたが、秀吉が「刀狩り」の名目でこの体制をつぶした。
豊臣時代以来、大名がもちその家来たちが執行したのは領内の支配権という、いわば義務だけだったというのは、日本的な公の意識の一源流と考えていい。
⑦にもどる つづく


へえーと思うますけど、いわれて気づいてもしょうがないですねぇ〜。
世界史上、軍隊のない革命政権はこの時
明治政府だけだった』
なるほど、言われれば確かにそうですね・
『明治になると徳川慶喜は、風呂敷包み一つで
自分の実家の水戸に帰って行く』
慶喜の思想・考え・受けた水戸藩の教育
即ち『日本的な公の意識』そのお陰で、江戸城の
無血開城が実現し、江戸が火の海から免れた
のでしょうね
そういえば、大名たちは転封を受けて次の任地に赴くサラリーマンのようでもあります。お城は社宅だったのですね。
西郷隆盛は、一新には血が必要だとする主戦論者でしたから、西郷 勝会見の場が設けられたことは無血開城に向け大きな会談です。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/9943f5562f99e4825031ff23b8d15148
明治新政府は一兵ももたなかったため、薩長士三藩が藩兵を献上するのですが、西郷隆盛に仮に薩摩が抵抗すれば、
その兵を差し向けることになるがよいかと念を押され、構わぬと答えているそうです。
徳川慶喜は、大政奉還しても政治の中心におさまるのは徳川家だと考えて無血開城したらしいです。
ところが、新政府は慶喜を切腹に追い込む腹だったようですが、勝海舟が抵抗して水戸に謹慎します。
ところが、新政府は慶喜を切腹に追い込む腹だったようですが、勝海舟が抵抗して水戸に謹慎します。』
流れ、勝海舟の動向からすると、その様な考えが
的を得てるのではないかと思います。
例えが適切かどうか不明ですが、『卑弥呼の九州説』
と同様ではないのか?
「この国のかたち」司馬遼太郎では、明治の政治主導による資本主義が形を成したのは、汚職しなかったからだと誉めます。
鎌倉幕府という「百姓」の政権が誕生し、律令制の土地制度という不条理なものから農地の所有を認めました。
その影響は人の心にあらわれ、もつことが赦されなかった土地をはじめて自分のものとした喜びが、決して恥ずかしいことをしないという「名こそ惜しけれ」という精神につながったと申します。
この侍たちのこうした節義というものが、汚職をさせなかったといいます。
確かに、江戸城開城を交渉した西郷が最強の薩摩軍を率いていたので、新政府内に反対出来るものはなかった訳ですね。
戊辰戦争で、東北の白石城を攻めた長州軍は、僅か500名余の軍勢だったので、政府軍の参謀の世良は、交渉が難航すると、仙台藩士に簡単に殺されています。
「城地というのは天下のものという思想」があったのは面白く、版籍奉還で、大名華族になる旧藩主たちは責任が軽くなって大喜びしたといわれるのも少し理解できます。
この片倉城主の「白石城」と「青葉城」を仙台藩の持ち城にして、維新まで継いでいたのですね。
維新は、内戦ですから速やかに収束して列強の植民地にならなかったことは幸いでした。 しかし、最後まで幕府側として
戦った藩は憂き目をみました。
薩長土三藩の兵を明治新政府の兵にする際、万一薩摩が抵抗した場合は、その兵をもってを鎮圧に向かわせるが構わぬかと
西郷隆盛に念を押しています。後に反乱する隆盛は「諾」と答えています。
>「城地というのは天下のものという思想」があったのは面白く、版籍奉還で、大名華族になる旧藩主たちは責任が軽くなって大喜びしたといわれるのも少し理解できます。
大名たちは転封を繰り返しており、お城は社宅だったのですね。いまの転勤するサラリーマンのようです。
簡単にお城を明け渡したのは、「お城は天下のもの」と考えていたからだというのは興味深いです。
それも大名個人が旧石高に比例した「永世録」を支給され、俄かにお金持ちになったのが手品の種でした。