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日本人の好奇心

2018年09月07日 | 歴史
江戸時代の活況は、道具類の多様さで察することができる。
農書を見ても農具の種類が多かった。大工道具の種類も多かった。例えば、紙障子の桟を削るためのみのカンナや障子の敷居の溝をうがつだけのノミといったようにである。鉄が安価になったため、多様な道具が作られた。その道具の多様さに触発されて、好奇心も誘発されたかと思える。
人間の好奇心を刺激するものの一つは、道具であろう。19世紀後半、西洋の機械文明を受け入れる上での受け皿になったかと思える。

近代以前の製鉄には、少なくとも四つの現場がある。山を崩して砂鉄を取る現場とそれを精錬する現場、また木炭製造の現場、更には樹木を伐採する現場である。
精錬現場で砂鉄を溶かすには一山を裸にするほどの木炭が要った。木が鉄を生むというほどに砂鉄精錬は樹木を食い大規模な自然破壊を伴った。しかし、日本の森林には復元力があった。
日本列島はモンスーン地帯にあるために山々が水を含んだスポンジのようで、中国山脈の山々を順次伐採して30年で元の山に戻った。師匠格の古代朝鮮の場合、気候や地質のせいでそうはいかず、伐採されてやがて多くが禿山になった。

朝鮮の山が禿げてきたので彼らは出雲に来たと想像する。
出雲神話の幕開けに登場する英雄神がスサノオノ命である。この神が八岐大蛇という怪物を退治する。この怪物の描写が古代製鉄集団の荒々しさに似ていることが、早くから鳥取県の郷士史家の間で指摘されてきた。八岐大蛇の目はホオズキのように赤い。このあたり精錬のときタタラの火の熾(さかん)さを思わせる。

古代、鉄が国産化されたとはいえ、農民でも鉄製のクワを安価に買えるようになるには五百年以上かかったかと思われる。
八世紀初頭、大和朝廷が律令制をとりいれ、土地・人民を公地・公民とし全国に国司・軍司を置いた。この場合、鉄製のスキ・クワは国衙や郡衙だけが所有したかのようである。農民は軍司などの役所から毎朝鉄製農具を借り、毎夕洗って収めていた。むろん彼らもスキ・クワを持っていたが、それらは普通木製だったはずである。

黒船を望見して、あの船を造ろうと思った人物が三人いた。三人とも三年後に造り上げた。
薩摩藩の島津斉彬が命じ、外国人の指導を受けずにオランダ書と首っ引きでペリーが来た翌年に完成し、幕府に献上された。斉彬としては無用の誤解を避けるためもあったろう。
伊予宇和島藩の伊達宗城も造った。肥前佐賀藩の鍋島直正の場合は、藩が長崎湾の砲台の責任をもたされていた関係上、西洋技術の導入は早くから幕府に黙認していた。だから巧く造れたこともあろう。


江戸城本丸図
僧はむかしから「方外」(世間の外)といわれた。
殿中の坊主衆の頭は「私どもは世間の秩序の外の者でございます」というしるしとして剃っているのである。芝居の黒子に似ている。

将軍の家庭である「奥」は男子禁制の場所だが、奥坊主だけは出入りして雑用をする。そこに居ても、居ない。
儒官も坊主頭だった。将軍と対座して学問を講ずるということから方外である形が必要とされた。同様に、医官も頭が丸かった。例え蘭学を学んでいても僧形だった。
「 参考 人外の人 」

明治初年、西洋文明受容期の日本は、東京大学を配電盤にした。
大学の諸学を仮に電流とすれば、当初はその電流の役目を「御雇外国人」が果たした。彼らの給与は、当時の太政大臣や右大臣級の高給だった。
貧乏国にとって負担が大きかったが、新政府はかれら外国人の役割を10年余りと見、いずれ日本人と交代させることを考えていた。
明治末年、配電盤が京都に置かれ、ついで東北と九州に置かれた。文明受容について明治政府の計画は、大したものだったというほかない。

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   「この国のかたち」司馬遼太郎をピックアップ要約
  

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9 コメント

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お早うございます (延岡の山歩人K)
2018-09-07 07:06:26
>江戸時代の活況は、道具類の多様さで・・
なるほどです
現在も 使われている道具類の多い事に改めて
驚きます
「必要は発明の母」と言われますが
まさしく必要に応じて 創意工夫のあと多くの
道具が発明(開発)され 生まれたのですね

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(延岡の山歩人K) さん へ (iina)
2018-09-07 08:05:37
日本の森林の再生率が高く、あんなものが欲しい、こんな道具を作ろうという工夫が容易にできたから、好奇心が育ったという内容でした。

  参考「樹木と人」
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/af0017b1c2f237a44203cd1869086184


「この国のかたち」司馬遼太郎には、同じような話が繰り返されます。そんなことから、まとめようと考えピックアップしました。
こんかいは、「好奇心」を的にしました。

 

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人の心 (hide-san)
2018-09-07 08:50:17
子供はみんな優れているのに親がその好奇心をつんでしまう。

「あれな~に、どうして」の好奇心が答えられなくなって、「うるさい」になり、
子供は好奇心を失う。
親は全部答えなくても、答えを見つける保々を教えればよく、
走すれば子供は好奇心を満足させられる。

勉強とは「知らなかったことさえ知らなかったことを知ること」が勉強ですから・・・・。
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↑訂正 (hide-san)
2018-09-07 08:51:16
「保保」は方法の間違いです。
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(hide-san) さん へ (iina)
2018-09-07 09:14:52
人糞を肥料として用いるのは、世界的に見ると一般的なものではないようです。
東アジアで人糞を肥料として用いたことが確認される最初の例は、鎌倉時代の日本だそうです。

なかでも、貴人や浄土真宗の親鸞直系の僧の人糞が貴重とされたといいますから、なにやらおかしいです。
あるいは、お風呂の残り湯も大切に飲んだと申します。

> 勉強とは「知らなかったことさえ知らなかったことを知ること」が勉強ですから・・・・。
知ったかぶりする人はいるものです。
落語に、そんな知ったかぶりするお坊さんをあつかった「転失気(てんしき)」という噺があります。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/83a123a919c2bbc893e7c9e65755f310

 (hide-san)さんの当該ブログ記事のアドレスをコメント上のURLに置きました。

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日本人は優秀 (慶喜)
2018-09-09 06:04:55
江戸時代の文化、学問、鎖国していても江戸時代
ルネッサンスの様に創意工夫し発展していますね
人間の満足感考えると寧ろ良いかも
但し軍事力だけは、相手がいないので、発展せず
明治政府苦労したみたいですね
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江戸時代 (ウォーク更家)
2018-09-09 07:56:48
最近、江戸時代に興味を持ちはじめました。

「江戸時代の活況は道具類の多様さで察することができる」、なるほどと思いました。

江戸時代の面白いところは、何らかの形で、そのまま現代につながっていることです。

西洋の機械文明から遠ざかって鎖国していた江戸時代が、何故、好奇心が育つ環境だったのか、不思議な気がします。

確かに、鉄が安価になったため、多様な道具作りが可能になったことは一つの理由でしょうね。

それにしても、黒船を望見して、あの船を造ろうと思った人物が三人いて、三人とも三年後に造り上げたというのは驚きです。
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(ウォーク更家) さん へ (iina)
2018-09-09 10:48:32
二本松は、早くも秋の気配ですね。
二本松といえば、菊人形が有名で東北道にインターチェンジがあることくらいしか知りません。休憩は安達太良SAです。

二本松には、会津の白虎隊のような少年隊群像の悲話も残るのですね。
官軍か賊軍かの差は、幕末では紙一重な気がします。

日本の森林の再生率が高く、鉄を加工するために必要な燃料が豊富でした。
そんなことから、様ざまな道具を作ろうと工夫したことから好奇心も刺激されたという視点が面白いです。
黒船を遠くから見ただけで、造ろうという好奇心をもつだけでなく、造り上げましたから大した技術力です。

幕末に日本の使節団が海外に行って、工場見学ほど退屈な時間はなかったと話しています。書物で機械の仕込みなどは、
すでに識っていたからだそうです。

 (ウォーク更家)さんの当該ブログ記事のアドレスをコメント上のURLに置きました。

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(慶喜) さん へ (iina)
2018-09-09 11:54:41
律令制では、農地がみな公地であり、民がみな公民でしたから、徹底されなかったようですね。

山野を開墾すると私有が認められ、しかも租税を納めなくてすんだことが、律令制をゆるがすもとになったようです。
そんなことから、一所懸命に耕した百姓の武家政権が生まれました。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/d2e9bbd8b2629631e8fa221cfec38ec8

> 源義経の隙を与えない攻撃的発想はまさに天才的な武将
おきて破りの戦士でした。誰もがしなかった戦法を用い、鵯越をしたり舟のこぎ手を殺さぬ約束事を破り、狙い撃ちしました。

> 軍事力だけは、相手がいないので、発展せず 明治政府苦労したみたいですね
出島に出入りしたオランダに学ぼうとしたら、原書がドイツ語であったことから医学はドイツに鞍替えし、
軍事もドイツがロシアを破ったことからドイツ人に学ぶことにしたようです。

江戸時代の日本人は、蒸気船をもたず、騎兵ももたなかったのに、日露戦争を勝ちました。
長期戦では質量的に負けるので、勝った体裁でよかったらしく、イギリスに仲介してもらって勝ち収めました。

 (慶喜)さんの当該ブログ記事のアドレスをコメント上のURLに置きました。

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