ポポロ通信舎

(旧・ポポロの広場)姿勢は低く、理想は高く。真理は常に少数から・・

現憲法は鈴木安蔵、農地改革は須永好

2014年07月01日 | 須永好 研究

憲法学者、「鈴木安蔵」の名前を最近知りました=写真
GHQに日本国憲法の草案を出した中心的な人物です。同じく農村民主化の「農地解放に関する指令」の創案者は、群馬県太田市出身の代議士、須永好でした。

今の憲法は、発行元こそGHQですが、製造元はれっきとしたメイド・イン・ジャパン、日本製なのです。この憲法は、戦勝国からのお仕着せだから変えなければならないと、ここでは左右の論客が入れ替わってしまったかのように、自虐的な思考で捕えている人がけっこういます。しかしこの憲法の生い立ちは日本人の良心、魂が日本人の手によって法文化されたものなのです。不戦を誓った平和憲法に自信を持ちたいものです。

鈴木安蔵の足跡知ろう

集団的自衛権の行使容認が閣議決定され、平和憲法が窒息死されそうになってしまった今日7月1日、敗戦直後の大衆の反戦心情を憲法に織り込んだ鈴木安蔵に学びたいと思います。彼の足跡を描いた映画『日本の青空』の短縮版をごらんください=動画

後半で、鈴木安蔵たちの草案が新聞発表され妻と確かめる画面がありますが、これを見て私は須永好の農地改革の件と同じだ!と、とっさに連想した。「須永好がGHQに渡した提案書が、彼の原稿そのままといって良いほどの内容で新聞発表された」という意味の記述(『未完の昭和史』288頁、須永徹著)を思い出したからです。

平和憲法も農地改革も、「製造元」は日本であることを知って置きたいと思います。

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日本国憲法 誕生の真相 ~ 映画「日本の青空」(30分短縮版) Truth of "The Birth of the Constitution of Japan"

    未完の昭和史

元衆議院議員 (須永好の孫)須永徹著

日本評論社
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組合結成総会は役場会議室で

2013年08月13日 | 須永好 研究
 
犠牲者を出さない平和戦術  須永好(6)
今では「小作人」は死語「須永好という偉い人が昔、小作農の団結で強戸(ごうど)村に小作人組合をつくり村民を幸せにしたんだよ・・」と話しても今の若い世代には、そもそも「小作農」「小...
 

上記は1年前の「ポポロの広場」です。ご参考にしてください。
きょうの本文は以下です。

『須永好と強戸農民運動(3)』

西の山上、東の須永

須永好は単なる小作料軽減運動だけでは小作人にもたらす効果は少ないと思い、この際強力な小作人組合を設立して小作人の地位を経済的に、政治的に向上させようと考えた。大正10年(1921年)10月31日、実行委員が、柳保太郎方に情報を持ち寄った。柳保太郎は前回、警察の手入れと早合点して臭くて冷たい風呂に逃げ込んだ「太郎やん」のことかもしれない。須永好の分担は「菅塩」だった。この夜の会合が後に「西の山上()、東の須永」と日本農民運動の双璧と謳われた基因がこの夜にあるとは、本人はじめ列席した人々の知る由もなかったであろう。

組合結成の総会は役場会議室で

須永好は、強戸村役場に増田村長を訪問した。
「11月5日午後1時から強戸村小作人組合をつくりたいので役場の会議室をお借りしたい」それに対して村長は少なからず面喰った形だった。
「・・・・・・」村長は黙って天井の方ばかり見つめていた。
「別にお騒がせするのでもないし、悪い企みをするのでもないのだから、なおさら役場をお借りしたいのです」と須永は柔らかく申し出た。
須永好と言えばまじめな若者で、「優良青年」として表彰もされ、軍隊に行っても模範となり上等兵となって除隊し、その後も熱心に農業に励み村でも屈指の篤農家の聞こえが高かった。増田村長も自分の耳を疑った様子だった。
「小作人組合だねぇ」と村長は初めて口を開いた。
「えー そうです。今年のこの不作で小作人は心配しています」と須永がわるびれた風は少しもなく言うので村長は心ならずも承知したのだった。

堂々、正攻法の“須永流”

村役場を使用するということは、小作人組合というものを一般化するためだった。それまで小作人たちは寄り合いをするにしても見張りをつけて警戒していたのに白昼公然と、しかも村の真ん中の役場で、駐在所の隣の役場で、村会議員が利用する会議室で会合できることに小作人たちは驚いた。堂々と、隠れることなく公然と運動を進めていく“須永好主義”の民主化運動が開始された。(つづく) (「かぶらはん」2007年592号)


(注)「西の山上」とは山上武雄のこと。岡山生まれ。大正11年(1922年)に日本農民組合(日農)の創立に参加。小作料永久3割減要求運動を指導。妻、喜美恵もキリスト教社会運動家。助産師としてハンセン病病院、各種地域活動に従事。
 

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天下の義人 茂左衛門 のようには・・

2013年08月05日 | 須永好 研究
 
田中正造との相似・・東毛義人 須永好(3)
須永好という人物を調べて行くと、足尾鉱毒問題でたたかった田中正造翁と似た面がたくさん感じられる。飾らない自然な風貌も似ているかな。(写真参照=上が須永好、下が田中正造)須永...
 

上記は1年前の「ポポロの広場」です。ご参考にしてください。
きょうの本文は以下です。

『須永好と強戸農民運動(2)』

大正10年(1921年)

この年の群馬の気候は日照不足で凶作でした。水田も畑作も元気がなく9月に入っても秋晴れの良い日が幾日もありませんでした。
農民の働き場所は農地です。農地には限度があり土地価格ははね上がり、自然に小作料もぐんぐん上がる。

土地を持たない小作人(小作農民)たちは、その使用料の小作料をなんとか下げてもらおうと寄り合い(会合)を密かにもった。
「先日、地主様のところへ5人ぐらいづつ分かれて嘆願に行ったら飛び上るほど叱り飛ばされてた」と小作人たちはなげいた。そこで須永好は、「それではとてもダメだから大きな組合をつくろう」と言い、一同が賛成した。
小作人たちは寄り合い(会合)時は外に交代で見張りを立てていた。彼らは小作料軽減運動が、昔の佐倉宗五郎(注1)や磔(はりつけ)茂左衛門(注2)の時代と同じように考え、ことによれば留置所に放り込まれたり、監獄につながれたり打ち首や磔の刑を連想して恐怖していた。

(注1 佐倉宗五郎 江戸前期、下総(千葉)の義民。領主の悪税に悩む村民の代表として将軍に直訴。捕えられ妻子とともに1653年」刑死。

(注2
 茂左衛門 江戸前期、上州(群馬)沼田領下の農民。真田信利の重課税の悪政に反対し農民の先頭に立ち江戸で直訴。それによって真田氏は改易になるものの茂左衛門は妻子とともに磔(はりつけ)の刑で死亡。上毛かるたでは「天下の義人 茂左衛門」として今もしのばれています。

今も昔も組合づくりは至難の業(わざ)

組合を作るということは、たいへんな覚悟と努力です。今の時代でも同じことでしょう。たとえばブラック企業で働く若者たちが自分たちの正当な生命と権利を擁護するために新たに労働組合を結成しようとするなら相当な勇気と決意が要ります。ブラックでない企業でも組合結成に対して理解のある経営者はそう多くないと思われます。
江戸前期には、佐倉宗五郎や茂左衛門 のような立派な義人がいました。しかしこのやり方は、あまりにリーダー個人に過酷な犠牲を強いることになり一般庶民は恐怖感によって、あきらめにしかつながりません。
須永好の指導した組合運動は、味方陣営の犠牲者をほとんど最小にとどめる見事な闘いを常としました。

落語のような話ですが、ある日の成塚(太田市)での会合で、たまたま巡査(警察官)がやってきた。見張りから「それッ」と伝令が回り火鉢の周りに2、3人残し一目散にみな逃げた。ある者は納戸に、押し入れに、蔵の中にと・・。太郎やんは台所にあった風呂桶の中に飛び込んでフタをしてじっとしていた。巡査は「何か企みごとでもしているのか」とにらんだが「わしらは湯をもらいに来ただけだ、何も別に・・」とちょっと脅かして出て行った。風呂桶の太郎やんは昨夜沸かした臭くて冷たい風呂に15分も辛抱していたので出てきたときは笑い事でなく気の毒だった。太郎やんはたびたび咳をして風邪気味のようだったがその夜も、須永好の話を熱心に聞いていたといいます。(つづく)

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なぜ今また、「須永好」なのか

2013年08月04日 | 須永好 研究

 

 

 
“組合造り”の名人・・東毛義人 須永好(2)
大正デモクラシーから昭和の軍国主義に向かいつつあった時代、保守的な風土のここ上州群馬の一角で須永好は、よくぞ農民(小作農)組合をつくったものだと思う。組合は必要、つくるは至難...
 

上記は1年前の「ポポロの広場」です。参考にしてください。
きょうの本文は以下です。

『須永好と強戸農民運動(1)』

新しいシリーズを始ます。前回お話した西毛の文化誌『かぶらはん』の連載を紹介する形で、随意にピックアップして論評させていただきます。群馬県内の方はもとより県外からお越しのポポロの広場のみなさんにも興味を持っていただけるように努力いたします。

2013年7月の参院選 群馬選挙区、定数1に4候補
当選 580,144 自民現職
    123,725 民主新人
      91,905 共産新人
      11,200 諸派新人

「1強自民」を象徴するような群馬県の選挙結果です。自民以外の3候補は法定得票数にも満たず300万円の供託金は没収。何とも情けない革新・リベラル陣営の対応です。
太田強戸の農民運動家、須永好が戦後の総選挙で当選した1946年(昭和21)の22回総選挙は2名連記制でしたが以下の通り。リベラルな社会党の健闘が顕著です。

1位 当選 127,007票 野本品吉 無所属(国民協同党系)
2位 〃    71,419票 最上英子 進歩党
3位 〃    69,870票 飯島祐之 進歩党
4位 〃    67,871票 須永好 社会党
5位 〃   62,431票 鈴木強平 進歩党
6位 〃   47,787票 山田悟六 進歩党
7位 〃   46,287票 町田三郎 社会党
8位 〃   42,955票 武藤運十郎 社会党
9位 〃   40,793票 滝澤浜吉 進歩党
10位〃   36,700票 小峯柳多 自由党

果たして群馬は保守王国だからこの先どうにもならないのだろうか。しかし封建的といわれたの風土の中でも日本で初めて小作人組合を組織し、強戸村(現群馬県太田市)を“革新自治体”の解放区としたリーダーがいた。須永好その人だ。未来の状況を好転させるためにも須永好の足跡から学ぶことは少なくないと感じます。
「1強自民」の政治現状は政権党自民にとっても良くないこと。信頼できるブレーキ役が存在しないことで、今回の「ナチスの改憲手口を学ぶ」と発言した麻生副総理のような権力者のおごりや政策がこれからも醜く出てくると思えるからです。

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「須永好」の再探訪に向けて

2013年07月28日 | 須永好 研究
 
『未完の昭和史』 東毛の義士 須永好(1)
今年の梅雨明けとともに熟読した一冊、須永徹著『未完の昭和史』。1986年4月第一版。1986年(昭和61年)といえば当方の母が逝った年、チェルノブイリの事故のあった年でもある。著者...
 

上記は1年前のブログです。群馬県旧強戸(ごうど)村生まれの農民運動指導者、須永好翁について「ポポロの広場」で紹介して早、1年になりました。

このたび、当広場のご支援者でもありますHさんから須永好に関する資料をご提供賜りました。今では廃刊になってしまった『かぶらはん』に「強戸農民運動史」として10回の連載があったのです。

「かぶらはん」鏑畔=写真。発行所は「鏑畔の会」、編集発行人は松井保さん(群馬県甘楽郡甘楽町)。さしずめ西毛(せいもう、群馬の西部)の地域文化誌といえます。「働くものの文学を!!」とサブタイトルの文字。東毛に住む私たちにはなじみがなく、この近辺の書店ではまずお目にかかりませんでした。しかし内容は今読んでも各号とも表題通り働くものの心でポポロ(人々)の真摯な文芸で埋め尽くされています。

『かぶらはん』の連載記述をもとに「須永好の再探訪」を試みたいと思います。

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土に産れ土に還えり先覚の・・須永好 (15)

2012年10月23日 | 須永好 研究

他界の年となった昭和21年(1946年)の須永好の日記からご紹介します。

1月1日 マッカサー元帥の声明・・要すると自由と責任、権利と義務を明らかにしたものである。民主主義国家建設の重大責任を銘記しなければならない
1月4日 戦争犯罪人の追放令が出る。敗戦以来急に民主主義顔した偉い人が慌てる。
2月6日 野坂参三、伊藤律の両君、日農(日本農民組合)結成に就いて懇談する。「和」に徹するなら何事も問題ないと言ってやる。
3月23日 小泉映画劇場にて各派立会演説会。
5月31日 円形の脱毛症にかかり治療を始める。

健康だった須永好が円形脱毛症になる。7月5日には名刺入れや鉄道パスを車中でスリに盗まれる。決して隙のある人物ではない彼が盗難に遭うとは、次第に体調に変化があったとしかおもわれない。

9月10日 国会で農地制度改革案について代表質問、その直後に倒れる。
9月11日 午前4時、東京の寄宿先で死去(死因:脳溢血)

地元、上毛新聞などにはポポロ(人々)の追悼歌が掲載されました(完)

●一すじに農民の為に戦いし 五十三の生の尊さ
●死の前に議政檀上に「農革」を 本気やれと迫りたる声
(菊池養三輔)

●土地に産れ土と戦い土にかえる 一すじの道を行きし君はも
(中村高一)

●同志等とふと覗いたる食堂に 君の讃える乙女の居たるも
(吉川兼光)

●農民の父と仰がれ幾年を 苦闘に満ちし君ぞ今はなし
●土に産れ土に還えり先覚の 墓標ぞ仰ぐ秋風たちて
(川島金次)

【写真】須永地蔵尊(群馬県太田市立生品小学校のホームページから

ご参考:「まんが太田の歴史」(太田市のホームページから)

  【須永好、すながこう】1894-1946 群馬県旧強戸村生。旧制太田中を中退後農業に従事するかたわら農民運動に携わる。郷里強戸村を理想郷へと農民組合を組織しわが国初の革新自治体“無産村強戸”を実現。戦後は日本社会党結成に奔走、日本農民組合初代会長 衆議3期(戦前戦後通算)。

 

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中道を貫くは困難な道 須永好 (14)

2012年10月20日 | 須永好 研究

野田政権はいつ解散するのか、その是非を問うことがまるで最大の関心事になってしまっているかのようなお粗末きわまりない政治状況。米国の圧力で脱原発政策の閣議決定さえできない日本の政治。ここで総選挙したとしても自民が復活し自民亜流の「維新」が勝ったところで何も改善されない。むしろ現状よりも後退し悪化するのが関の山。1年前、菅政権をマスコミらが総叩きにして生まれた野田政権は、果たして菅内閣より優れているだろうか。賢明なる有権者諸氏にその説明は不要でしょう。

今、東毛の誇る農民政治家、須永好がこの政局を天国からご覧になってどのようにお感じになっているだろうか。

人が何人か集まれば、好き嫌いや考えの違いが生じ派閥ができる。大正昭和の農民組合の系統図=写真=をみてもそのことがよくわかる。開戦前後の1940から1942年にかけて農民組織はすべて解散に追い込また。日本農民連盟、大日本農民組合、皇国農民同盟、日本農民組合総同盟、日本農民組合、北日本農民組合、主要6団体は1940年内に解体。土佐農民総組合が1941年、さいごは農地制度改革同盟が1942年3月いずれも解散命令を受け全滅した。それにしても農民組合の派閥は多岐にわたっていた。

「須永好が人間解放の希望を託した社会党、農民組合も好の死後も何回となく分裂を繰り返している。分裂するにいたる理由はそれぞれあるだろうが、人間の情念や欲望が大きな要素を占めている。それをコントロールすることは、人間にとって永遠の課題なのかもしれない。」(『未完の昭和史』306ページ)

わかりづらい中道だが

息子で太田市議を長く勤めた須永城次は父、好の政治信念について次のように話している。「仏教と深い関係があったと思う。父は、『不苦不楽の中道』を信じ中道は正しい道であると信じていた。父が歩いた政治の道をふりかえってみると右に偏せず左に偏せず、つねに中間派とよばれる党に所属していた。この信条があったからみんなが(大政)翼賛会体制に走ったとき独自の道を守り節操を保つことができたのである。しかし『中道はわかるようでわかりづらい道だ』ともいっていた。めったに自分の内面を他人にみせたことのない人だったが・・」

好翁は民の先頭で脱原発

私の勝手な推測ですが今、須永好が生きていれば、原発事故を足尾鉱毒事件の公害禍の延長と捉え、激しい脱原発運動のリーダーになっているのではないかと思う。仮に民主党に所属していたとしても3.11以降は脱原発を標榜する党派にシフトされたのではないだろうか。中道の精神は「維新」や公明ではなく、社民・小沢新党らの第3極に見出しているのではないかと想像する。左右の全体主義を超えて、前衛でも後衛でもない「中衛の道」。須永好的な中道は、時代が極右に向かった軍国主義下では、左派と目され活動を規制された。そして平成の今日は政党政治が腐敗し悪臭を放ち与野党がほぼ右ならいになってしまった閉塞状況下。今こそ須永好的な社会民主主義=中道理念の再来が強く求められているように思えてならない。

  【須永好、すながこう】1894-1946 群馬県旧強戸村生。旧制太田中を中退後農業に従事するかたわら農民運動に携わる。郷里強戸村を理想郷へと農民組合を組織しわが国初の革新自治体“無産村強戸”を実現。戦後は日本社会党結成に奔走、日本農民組合初代会長 衆議3期(戦前戦後通算)。

 

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「無産村」から「社会党村」へ 須永好 (13)

2012年10月05日 | 須永好 研究

終戦の年(1945)の初秋、10月の今頃の須永好の様子をのぞいてみましょう。

10月1日 前橋公園での演説会に出席した。野外での演説は初めてである。政治の自由とはこれであるか、天高く、空気よし。(須永好日記)

10月18日 太田町の太田会館で新田郡農民組合結成大会が参加者500名を集めてひらかれた。強戸村農民組合旗を木箱に封印してから5年が経っていた。

10月20日前橋の群馬会館で日本社会党群馬県支部連合準備会が開かれた。

10月21日須永好のもとに旧自治会(地主派)幹部、岡部周治氏(後の社会党衆議)ら数名が社会党への加入を申し込んできた。その後は次第に強戸村全体が社会党勢力一色となっていく。かつての「無産村」は「社会党村」として再び全国に知れ渡るところとなる。

今、米国に進言できる政治家は・・

農民にとっては、食糧危機、インフレ、失業の脅威の中で一刻も早く農地改革問題を解決するという差し迫った課題があった。須永好は農村民主化の実現のためにGHQにしばしば足を運び提案をしている。それはやがてマッカーサー指令として有名な「農民解放に関する指令」の形となって日本政府に指示された。今、わが国の政治家で、須永好のように米国に進言できる政治家は果たして何人いるだろうか。ダメな指導者は「自分には権限がない」と言い逃れる。「権限」はなくとも「提言」することはできるはずなのだが。米国からの「指示待ち」政治家は、もうこの辺でお引き取り願いたいところだ。

上位当選の須永好、泡沫の伯父

ここで終戦解散を事由に行われた1946年(昭和21)の22回総選挙を見てみよう。群馬県は全県1区。2名連記制、定数10名。立候補者54名。有権者の関心は高く投票率76.75%。私は『県政風雲録』(自民党県連監修)を手元に参照にしていますが、ネットでも確認することができます。

1位 当選 127,007票 野本品吉 無所属(国民協同党系)
2位 〃    71,419票 最上英子 進歩党
3位 〃    69,870票 飯島祐之 進歩党
4位 〃   67,871票 須永好 社会党
5位 〃   62,431票 鈴木強平 進歩党
6位 〃   47,787票 山田悟六 進歩党
7位 〃   46,287票 町田三郎 社会党
8位 〃   42,955票 武藤運十郎 社会党
9位 〃   40,793票 滝澤浜吉 進歩党
10位〃   36,700票 小峯柳多 自由党


この時の選挙は「東毛は断然、須永好が強かったよ」という亡母の証言通りの結果を確認することができる。余談ですが、わずか1,488票の泡沫候補に私の伯父、遠藤良平(弁護士)が保守系の会派から立候補していました(苦笑)


農民衆も多数参加の大メーデー

さて総選挙直後の5月1日メーデーは1936年に禁止されて以来、実に10年ぶり。須永好もこの日は地元に帰ってメーデーに参加している。5月1日8時半、太田駅に労働者農民大衆が集結。今では農民の人たちの姿は極めて少なくなりましたが・・。10時にデモ行進に移る。須永好が先頭に立ち太田駅、呑龍さま、中島飛行機八幡寮、強戸国民学校(強戸小)のコースを歩く。強戸の社会党員、農民組合員、新田開拓農民、官公労、民間企業の労組が思い思いのノボリやプラカードを持ち威勢が良かった。先頭が強戸に着いたというのに後部はまだ太田駅前にいたぐらいだった。(『未完の昭和史』P285)

【写真】未完の昭和史を手に太田市新田市野倉町・須永地蔵堂で

 

  【須永好、すながこう】1894-1946 群馬県旧強戸村生。旧制太田中を中退後農業に従事するかたわら農民運動に携わる。郷里強戸村を理想郷へと農民組合を組織しわが国初の革新自治体“無産村強戸”を実現。戦後は日本社会党結成に奔走、日本農民組合初代会長 衆議3期(戦前戦後通算)。

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郷土太田の学習副読本にみる須永好(12)

2012年09月26日 | 須永好 研究

『太田に光を与えた先人たち』(太田市教育員会発行 2003年・平成15年)には新田義貞、呑龍上人、大谷休泊、中島知久平など50余人の先人たちの中の一人として須永好も紹介されている。

変化の時代には先人に学ぶ

発刊に寄せて、正田喜久教育長が「時代が大きく変化するとき、人間は進路を見失い、疑心暗鬼になります。しかしそんなとき、その不安を解消してくれるのが、歴史の持つ羅針盤としての役割です。過去の太田の先人たちが危機や困難にどう対処したかを知れば、いたずらに不安を抱く必要もなくなるわけです。先人が何をもとめ、どう行動したかを知ることにより我々の進むべき方向を明確に見定めることができるものなのです」と述べていますが、まったくその通りと思います。

日本初の“無産村”強戸に注目

昨年の3.11原発大震災の後、混迷する日本社会のなかで、政権交代は果したもののその内容たるや、これまでと変わらず「政治3流」の域からは一歩も出ず保守、革新の違いも不明確で色あせてしまっている。私が須永好に、再び関心を持ったのも日本で初めて小作農・貧困大衆の主導による進歩的な無産(革新)自治体(村)を実現したこと、それも平和的な合法手段を積み重ねることによって築いた。そんな先駆的な指導者の精神に、政党政治が危ぶまれている今こそ学習し直したいと思ったからに他なりません。

開墾開拓し失業者を救済

小学高学年から中3対象に作られた副読本『太田に光を与えた先人たち』では、須永好は「農民運動のリーダー 地蔵様にまつられる」と題してその生い立ち、業績が記述されている。戦時中、強戸村の隣り生品(いくしな)村小金井には、中島製作所で造られた戦闘機の飛行テストを行う陸軍の生品飛行場があった。終戦になり陸軍の将校一団が須永宅を訪れ、飛行場跡をソ連の集団農場のように農民の一大理想郷にしたらどうかと持ちかけてきた。戦争から帰ってきた復員兵や失業者であふれ返っていたご時世だっただけに、須永好はさっそく「新田開拓農民組合」を結成。まずは190人の入植者の開墾作業から着手する。彼にとっては戦後初の大仕事となる。さすが組合づくりの名人須永好は、農民組合をフルに活用し農林省や群馬県と交渉。人々の住宅問題、資材入手などの課題にも率先して当たり、あらゆる悩みごとの相談相手となって入植者たちを勇気づけた。そんな須永好は人々から父のように慕われたといいます。全開拓地は375ヘクタール(378町歩)に及ぶ。須永好が亡くなった時は皆が深く悲しみ、「須永さんはお地蔵さんのような人だったから地蔵様をつくろう」ということになった。(つづく)

【写真】須永地蔵尊(太田市新田市野倉町・ヨシカワ新田工場西)

  【須永好、すながこう】1894-1946 群馬県旧強戸村生。旧制太田中を中退後農業に従事するかたわら農民運動に携わる。郷里強戸村を理想郷へと農民組合を組織しわが国初の革新自治体“無産村強戸”を実現。戦後は日本社会党結成に奔走、日本農民組合初代会長 衆議3期(戦前戦後通算)。

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離脱者、とがめず励ました須永好 (11)

2012年09月15日 | 須永好 研究

『未完の昭和史』(須永徹著)で涙が止まらない場面があった。

時代は1932年(昭和7)、前年の柳条湖鉄道爆破事件を契機に満州事変に突入し次第に軍部ファッショが強くなりだしたころ。強戸村自治会(地主側)が村当局(小作側)の課税措置に反対して決起。地主が小作農に対して行う常とう手段「立毛差し押さえ」(生育中の稲を差し押さえること)を、ここ強戸村では、逆に小作農が主導権を握った村当局が、税金滞納の形で抵抗する有産階級の地主に向けた。小作人と違い稲を押さえるのではなく、地主の家の物品を徴収した。やがて地主側は行政訴訟を起こした。世の流れもあって村当局(小作側)は敗訴し、次第に地主側の猛反撃が始まっていった。

脱退する小作人たちの涙

地主からの土地取り上げ告知書や裁判所からの呼び出し状を持って組合長の須永好を訪ねる小作人が目立って多くなってきた。中には農民組合脱退を強要されている小作人もかなりあった。須永好は、個々の事情を量り争っても勝ち目のない場合は、地主にいうべき釈明の言葉まで教えて帰した

「農民組合を脱退すれば土地はそのまま貸しておくというなら遠慮なく脱退して安心しなさい。組合の精神は小作人が幸福になればそれでいいのだよ。いいからじょうずに脱退して、土地を確保してくれよ」
小作人たちは涙ぐんで須永組合長の慈悲に感謝し、ついには泣きだして12年間の指導に別れを告げ去っていった。(『未完の昭和史』P168)

須永好と大石内蔵助

「忠臣蔵」の赤穂藩家老、大石内蔵助を思い出す。主君の敵討ちを達成するまでの過程では、同じ志をもつものであっても次々に脱盟し、最後は、わずか47人(四十七士)までになってしまった。しかしその間、家庭の事情等の理由で離脱者は数多く出たものの敵に内通するような裏切りは一切無かった。それだからこそ討ち入りという大願が成功したといえる。組合長・須永好も家老・大石内蔵助もともに去るものを追わない。むしろ去る者に理解さえ示し励ました。

戦後、強戸村(太田)のみならず東毛地域で須永好が絶大の支持を得たのもこうした彼の「慈悲」的な指導力を民衆が忘れていなかったということではないだろうか。

【写真】須永好菩提寺「永昌寺」(太田市成塚951)の碑の前で。

【須永好、すながこう】1894-1946 群馬県旧強戸村生。旧制太田中を中退後農業に従事するかたわら農民運動に携わる。郷里強戸村を理想郷へと農民組合を組織し革新自治体“無産村強戸”を実現。戦後は日本社会党結成に奔走、日本農民組合初代会長 衆議2期。

 

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    未完の昭和史
元衆議院議員 須永徹著
日本評論社
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茂呂村(伊勢崎)に現れた須永好 (10)

2012年09月06日 | 須永好 研究

労働争議より小作争議が多かった

大正から昭和にかけて農民運動の形態は小作争議が中心であった。私の認識では、当時の国内では労働争議件数よりも小作争議のほうが少なかったのではないかと思っていたが、史実は逆だった。満州事変(1931)後の労働争議件数は不明。

1920年(大正9)小作争議 408件 34,650人
          労働争議 282件 16,371人
1921年(大正10)小作争議 1,680件 145,898人
          労働争議 333件 54,506人
1926年(昭和元)小作争議 2,751件 151,061人
          労働争議 495件 67,234人
1931年(昭和6)小作争議 3,419件
1935年(昭和10)小作争議 6,824件

小作・農民組合側は「小作料3割減額の実現」を主要闘争目標としていた。対して地主側は時には官権力の力も借りて、生育中の農地の稲を差し押さえる「立毛差押え」や土地立ち入り禁止で抵抗した。

話を現代に戻すと、小作争議は今日では皆無。労働争議も1974年の5,200件をピークとし、その後急激に減少。2010年では僅かに38件(半日以上のスト争議換算)。もし終戦直後、須永好らが尽力した農地改革が進んでいなければ、労働運動と農民運動の「労農連携」によって日本の社会は別な方向を歩んだかもしれない。

茂呂村争議は不戦勝ち

こんな逸話があります。郷里の茂呂村(現伊勢崎市)の小作争議を指導した菊池重作氏の証言。「それは私が初めて経験する争議でした。私は強戸村に須永好を訪ねて指導を受け応援を求めました。須永好が私達の茂呂村に姿を現すと、たちまち地主はこれまでの頑固な態度を一変して、小作側の要求をそのまま受け入れました。私達の勝利によって争議は解決したのです」
相撲でたとえれば、相手力士が土俵に上らず不戦勝ちの結果。それだけ須永好の存在感は世間に知れ渡っていたといえる。

参考書籍:『小作争議の時代』渡邊正男編著 みくに書房(1982)

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GHQに農地改革案を提言・・義人 須永好(9)

2012年08月26日 | 須永好 研究

農地改革は社会党のおかげ

高3の夏休み、勉強道具を持って友人K君宅を訪ねる。「受験勉強が大変だなんて贅沢過ぎる。この炎天下、外で労働している人のことを思おう」などと話していると、いつしかK君のお母さんも会話に入ってこられ「世間のみんな今は(恩を)忘れてしまっているようだけれど、農地解放ではなんと言っても社会党が頑張り農民はお世話になったんだよ。私はその恩は決して忘れてないよ。でも参院選だけはいつも市川房枝(1983-1981)を支持だけどね・・」。半農家だったK君のお母さんの強い信念を感じた。

婦人参政権運動家、市川房枝を知ったのはこの時が初めて。K君の家は太田市でも強戸地区からは大分離れた九合地区。話題には出なかったがK君のお母さんもきっと須永好のことは、よく存じていたにちがいない。ちなみに私が「須永好」の名を知ったのは亡き母(1919-1986)からだった。

マッカーサーに進言した須永好

1946年に結成された日本農民組合の最大の課題は農地改革であった。徳川時代以来、明治、大正、昭和と延々につづいた地主制度を解体し土地を農民に再分配するというのだから並大抵ではない。その成否はすべて日農組合の須永好の双肩にかかっていた。

マッカーサー元帥は農地改革に熱心だった。しかし日本政府の改革案にGHQ(日本を占領した連合軍総司令部)は不満だった。須永好はGHQに何度か出向いている。農民の解放に関して箇条書きを置いてきた。後日、新聞発表をみて、彼の提出した提言案とそっくり同じだった。GHQも日本の農村民主化を指導する第一人者として須永好を認めていたといえる。(須永徹『未完の昭和史』)

鈴木安蔵も忘れてはならない

同じころ憲法改正案も検討されていたが、GHQがすすめてきた民主改革指令の総括として主権在民、象徴天皇、交戦権の放棄を骨子とした案が出されていたが日本政府側はこれに抵抗。しかし極東委員会作成の共和制案を強制されるよりはまだまし、という判断でGHQ案を受け入れ最終案になったといわれている。憲法論議については今日、様々な見解があるが、唯一つ、GHQ案に大きな影響を与えた人物がいたことを忘れてはならない。「憲法草案要綱」をまとめた鈴木安蔵(1904-1983)、その人だ。日本国憲法の間接的起草者ともいわれている。

「農地改革」では須永好、「日本国憲法」では鈴木安蔵。起草の影の立役者はれっきとした日本人であったことを記憶に留めておきたいものです。

 
【写真】空襲で家族を失った戦災孤児。路上で靴磨き(日本戦災遺族会提供)

 

【須永好、すながこう】1894-1946 群馬県旧強戸村生。旧制太田中を中退後農業に従事するかたわら農民運動に携わる。郷里強戸村を理想郷へと農民組合を組織し革新自治体“無産村強戸”を実現。戦後は日本社会党結成に奔走、日本農民組合初代会長 衆議2期。

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須永好日記 (1968年)
編者 石井繁丸(元前橋市長)他
光風社書店

 

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前橋の敗戦禍に驚く  義人 須永好(8)

2012年08月21日 | 須永好 研究

昭和20年(1945)8月15日の終戦を境に日本の社会は新たな胎動が感じられた。『須永好日記』を引き続きのぞいてみましょう。

8月19日 人心動揺、軍人は尚、戦うべしと言い、弱きは死なんと言う。そのうち目覚めたものは慾心、軍人は官給品を持ち出し、工員は工具を持ち出す。

8月21日 敗戦処理が始まる。大中島(工場)及び生品飛行場は人の渦が巻いて物品が持ち出される。世は挙げてかっぱらい次第と言うことになった。ラジオは天気予報を始める。連合軍が来ても怖くないと頻りに放送する。

9月7日 言論、集会、結社の自由となりで政治運動も活発となるだろう。

9月16日 前橋に行く。中央前橋駅をはじめ前橋中央部は大部分焼けていた。戦争の惨禍、今更言うまでもないことだが、終戦後初めて見る前橋の敗惨な姿に驚く

さらに先、10月10日の日記には、太田駅前で旧太田署長が社会運動の演説をしているのを須永好は見て、改めて時勢の変化に驚いている。

読書2時間、できないことはない

同志の一人神垣積善は、「須永さんはつねに社会運動をするものは、まず信頼される人間であること、農民運動をするからには、よき農民であり村人であれ。それが出発点だと青年に説いていた」と話す。「須永さん自身がりっぱな精農家であったのはだれでも知っている。股引きを高くまくりあげ、真っ白いすねを出して田植えをする百姓姿が目に残る」また、どんなに忙しい中でも1日最低2時間の読書を皆にすすめたという。朝1時間、夜1時間できないことはないというのだった。実際、神垣が須永家に泊まると、翌朝はいつも「須永さんはきちんと火鉢の前に座って、本を読んでいるのだ、なんのことはない、無言の教えである」と。


【写真】米軍の空襲で戦禍も痛々しい前橋の市街地(共愛学園提供)

 

【須永好、すながこう】1894-1946 群馬県旧強戸村生。旧制太田中を中退後農業に従事するかたわら農民運動に携わる。郷里強戸村を理想郷へと農民組合を組織し革新自治体“無産村強戸”を実現。戦後は日本社会党結成に奔走、日本農民組合初代会長 衆議2期。

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終戦前後の日記  東毛義人 須永好(7)

2012年08月14日 | 須永好 研究

今年67回目の終戦記念日。お盆の8月中旬のこの時期、昭和20年(1945年)の頃の『須永好日記』から一部抜粋させていただきます。

8月13日 朝、艦載機の来襲があり藪塚地内で疎開の飛行機が次々と破壊された。
8月14日 午後9時からB29が襲来して生品、毛里田、宝泉、太田、伊勢崎周辺に
      爆弾、焼夷弾が落ち火災が起こり寝ることができなかった。

8月15日 昨夜の近村爆撃で午前3時まで寝られず、朝眠りを破ってまた艦載機の襲来で
     ある。その退避中に重要放送が正午に行われるとラジオが放送する。
     艦載機はだんだん立ち去った。
     正午が来た。ポツダム宣言受諾の玉音を拝す。
     戦争は負けたのである。戦争は終わったのである。
8月16日 今日は送り盆。人気(ひとけ)は不安、悲観のどん底に陥り・・
     鈴木内閣総辞職、東久邇宮殿下に大命降下。

8月18日 東京の伯母が来て不安な状況を話した。決して不安はない。
     日本の軍閥がなくなってかえって住み良い日本になると教えてやった。

それにしても敵機の来襲は終戦の15日午前中まであったことが日記で確かめられる。埼玉県熊谷市も同じように玉音放送直前まで空襲があったという。

地主側の人々も入党、ノーサイド

終戦後に、強戸小学校の校庭で須永好の時局講演会があった。そこでポツダム宣言の説明をし、「これからは言論、集会、結社の自由は保障され民主主義の世の中になり平和が訪れる。当面は食糧の増産開墾が急務だ」と村民たちに話して聞かせる。誰もが敗戦でお先真っ暗、希望もてない精神状態の中で、須永好の演説には、聴いた皆が感銘を受けた。その後なんとこれまで対立していた地主側の人たちまでも続々、社会党に入るようになったといわれている。

須永好は、大局的に世界情勢を見ていた。そのため早々に日本の敗戦を悟っていた。昭和18年(1943年)に門下生の高橋徳次郎へも軍から徴用が来たとき「この戦争は負けだな。お互い命を大切にしよう」と彼に話したという。高橋徳次郎は開戦時の昭和16年(1941年)反戦主義者として予防拘束されただけに、その彼が必要となるような戦況ではと思ったのだろう。

『須永好日記』の閲覧を

『須永好の日記』、歴史の証言として一度は読む価値があります。古書市場では10万円以上の値がついています。それだけの価値はあるかもしれません。同日記は群馬県内では県立図書館(前橋)と太田市中央図書館で閲覧できます。私は太田の図書館を利用しました。(つづく)


【写真】大型爆撃機B29 日本にはのべ1万7千機が16万トンの爆弾を投下。広島、長崎の原子爆弾もこのB29から。

【須永好、すながこう】1894-1946 群馬県旧強戸村生。旧制太田中を中退後農業に従事するかたわら農民運動に携わる。郷里強戸村を理想郷へと農民組合を組織し革新自治体“無産村強戸”を実現。戦後は日本社会党結成に奔走、日本農民組合初代会長 衆議2期。

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犠牲者を出さない平和戦術  須永好(6)

2012年08月08日 | 須永好 研究

今では「小作人」は死語

「須永好という偉い人が昔、小作農の団結で強戸(ごうど)村に小作人組合をつくり村民を幸せにしたんだよ・・」と話しても今の若い世代には、そもそも「小作農」「小作人」というが、死語になっていて理解できていないことを知りました。そこで復習です。小作農=小作人とは地主から土地を借り使用料(収穫物)を払って農業を営むお百姓さんのこと。

小作料は収穫の50%以上

1947年(昭和22年)まで日本の農地は、地主・小作制度による所有形態でした。自分の所有する土地を耕して生活する者は「自作農」、自分の土地だけでは足らずさらに地主から借りていたものは「自作兼小作農=自小作農」すべての土地を地主から借りていたものを「小作農」と呼びました。
明治中期から終戦まで、全農地の約半数近くが小作地でした。全国農家総数の30%が小作農、同40%が自作兼小作農、同30%が自作農の構成でした。ちなみに強戸村では全675戸中、小作農335戸(50%)、自小作農241戸(36%)、自作農99戸(14%)で全国平均よりも小作農の占める比率は高かった。(1921年強戸小作人組合結成当時)。

土地を持たない小作農は、収穫物の50%以上を地主へ小作料(土地使用料)として納め、その生活はそれはそれはひどく惨めなものでした。

初戦から平和裏に要求実現

強戸村に小作人組合が誕生して、最初の交渉は「小作料3割減」の要求だった。しかし地主側は「1割減」からは一歩も譲らず話し合いは難航した。行司役には太田警察署長が間に入る。条件として小作人組合側が予定していた大物労働運動家・鈴木文治講演会を中止することで「3割減」を地主側が承諾。この後に地主側も激しい反撃がありましたがまずは初戦、小作人組合側の勝利となりました。(「小作争議の時代」:みくに書房)

懲役・実刑者はゼロ

強戸村の小作争議では、一時的に検束されたケースはあるものの、組合員が裁判にかけられたり懲役、実刑に処されたものはなんとゼロ。これは驚くべきことです。
強戸村では農民組合(小作人組合)が地主組合を団体交渉の場に招き、小作法による調停に持ち込む遵法作戦をとり、小作料3割減要求もその形で実現した。実力行使の闘争はとらず、村議会で絶対多数を占め、村長も獲得していった。全国の多くの小作争議では残念なことに犠牲者続出、しばしば流血もともない悲惨な結果で終わるところもあった。

正当防衛であっても逮捕実刑

お隣の栃木県の様子を見てみよう。同県塩谷郡阿久津村での小作争議(1931年、昭和6年)では地主側が右翼団体、大日本生産党の黒シャツ隊(イタリアのムッソリーニの民兵組織を連想してしまう)約100名を雇い入れ農民組合に対抗。しかし地主・生産党側に5人の死者と12人の重傷者が出たという。正当防衛で果敢に応戦した農民組合側は衝突では負傷者はでなかったもののすぐに騒擾罪(そうじょうざい)で109人が逮捕され1年~15年の実刑を受ける。獄中で亡くなった人もいたという。(「小作争議の時代」:みくに書房)

結束、固かった強戸村民

強戸の争議では、いつも犠牲者を出さなかった。良く考え錬られた平和的、合法的な交渉術が功を奏していた。全国レベルの上部組織では農民組合、また無産政党も多岐に分裂し離反・集合を繰り返し混乱していたが、ふしぎと強戸村は、その波に飲まれることはなかった。村の組合組織や党支部が左右に割れることは一度もない。これも須永好の人間的な魅力が、地元警察署長の仲裁にみられたように、敵味方を問わず広く人々に受け入れられ信頼されていたことによるものだったからではないだろうか。(つづく)

【絵】(「田中正造」:さ・え・ら書房から)

【須永好、すながこう】1894-1946 群馬県旧強戸村生。旧制太田中を中退後農業に従事するかたわら農民運動に携わる。郷里強戸村を理想郷へと農民(小作人)組合を組織し革新自治体“無産村強戸”を実現。戦後は日本社会党結成に奔走、日本農民組合初代会長 衆議当選2回。

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小作争議の時代―農民運動者20人との対談 (1982年)
渡邊正男編著 回想の須永好と無産村「神戸」他
みくに書房
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