「命のビザ」で難民を救ったリトアニア日本領事館の杉原千畝の存在とその話を正確に知ってからまだ10年にもならない。「杉原ビザ」が1940年、それより2年半前1938年に樋口季一郎なる人物が、同じようにユダヤ難民を救ったことを本書(今年6月初版)で知りました。
「1938年3月、満州国と国境を接したソ連側のオトポール駅に、ナチスのユダヤ狩りから逃れてきた避難民が、吹雪の中で零下数十度の原野にテントを張って露営していた。飢餓と寒さのため凍死者が続出し難民の命は危険な状態にさらされていた。樋口は、天皇陛下なら人道主義の途をとるだろうと考えた。日露戦争の大恩をユダヤ民族に返すのは今しかない。命にかけて、このユダヤ難民を助けるぞ・・。自らの信念と情熱で難民を救った・・」
「大恩」とは、日露戦争の戦費をユダヤ人銀行家・シフが日本公債として500万ポンド引き受けてくれたことを指す。明治天皇は「この恩は決して忘れない」と記録に。
杉原千畝と同じように、樋口も妻、静子に「クビになるから帰国の荷造りを」と言う。部下の松谷中佐からは「閣下、独断専行は無謀です」とたしなめられる。しかし決断!。当時、樋口はハルビン特務機関長の将官。「満洲国は八紘一宇、五族協和を国是とした一種理想国家。日本・関東軍やナチス・ドイツに遠慮は無用」の信念が樋口の心にはあった。予想通り後日、ナチスから猛抗議があり、東条英機参謀長からの査問も受けることに・・。
民族の融和に尽力
「大恩」とは、日露戦争の戦費をユダヤ人銀行家・シフが日本公債として500万ポンド引き受けてくれたことを指す。明治天皇は「この恩は決して忘れない」と記録にあるという。
新生満洲国では、民族の協調を一つの理想に掲げていた。それでもユダヤ人と白系ロシア人との血なまぐさい暗闘もあった。樋口は親睦のクラブを作るなどして両者を仲介した。こうした「仲介」はアラブとイスラエルの対立など、今まさに日本が平和国家として国際的に行うべき役割です。一方の側にくみする「集団的自衛権」ではないでしょう。
敵将兵の捕虜の扱い方も人道的で樋口の指揮下では虐待は一切なかった。アッツ島、キスカ、占守島の闘いでは参謀本部第二部長としての樋口は「全兵力の撤退」を提案するなど、実現はしなかったにしろその行動の一つひとつが人道主義に基づくものであった。
ヒューマニスト、樋口季一郎。こんな人物もいたのか!まだまだ知らないことが次から次。そのたびごとに歴史認識を微調整です。
ユダヤ難民を救った男 樋口季一郎・伝 | |
木内是壽 著 (2014年6月) | |
アジア文化社 |
we are the world full ver USA for AFRICA