著者は1916年(大正5年)群馬県川原湯の生まれ。家業の温泉宿を親の代
から受け継ぎ、水没住民の立場からダム建設行政と対峙してきた人。
本のタイトルからして「反対派」と思いきやスタンスは中立、条件付賛成派。
ダム建設の発端は、1952年(昭和27年)川原湯村民が集会所に集められ、
そこで建設省の役人が
「ここにダムを造る。この村はざんぶり水につかりますな」
の“水没宣言”から始まったという。
これは、成田の新国際空港の用地決定(1965年)とも同じで成田も「内容は
一方的であり抜き打ち的であった」(当時千葉県副知事川上紀一氏・手記)。
中立派代表の著者は、当初、建設省の関東建設局長や国の交渉窓口である
八ツ場ダム事務所長とも互いに気心が知れ、次第に信頼関係も生まれた。
しかし本書出版の1996年現在で、すでに局長は何人も代わり、事務所長も
10人目を数えるほどになっていた。官僚側は、選手交代を多用し、常に
強い姿勢で住民に臨む。一方、村民側には選手交代はない、できない。
ただただ消耗するばかり。反対派、賛成派の中心メンバーも老齢によって
他界し、住民の力は日に日に弱体化していった。
著者は、ダムの社会的科学的必要性がどのようなものかを冷静に知ろうと
していた。この姿勢は高く評価できます。時代の逆行でなく、また単純に
感情に走ることなく正しいダム造りは正しい補償の上にのみ成り立つ、と
いう見解を終始もっていた。
生活再建を優先し、生活再建は住民主導で、が著者の基本主張だった。
しかし国→県→町の天下り行政は、常に住民を裏切りつづけたという。
先の見えないたたかいに地元民は一人残らず疲れ果てた。
権力は一見遠回りにみえても時と共に重圧と化していく。素朴な村民は
相手の正体も判断できぬまま・・
著者はすでに亡くなっています。
著者を大叔父とする萩原渉氏は今、八ツ場ダム完成を推進する自民党県議。
補償交渉委員長だった息子の礼人氏は都内に転出。
あまりにも長すぎたダム建設であり闘いでした。
2001年には用地買収の補償基準調印が国と水没住民とで交わされている。
この問題に関しては、政権交代があと10年早かったらと思われてなりません。
本書は、中古市場で高値を付けています。それだけの価値はあります。
ただ多くの人に読まれるためにも
岩波書店さんにお願いです!
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早急に、本書の復刻版を発行してくださ~い。
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