須永好という人物を調べて行くと、足尾鉱毒問題でたたかった田中正造翁と似た面がたくさん感じられる。飾らない自然な風貌も似ているかな。(写真参照=上が須永好、下が田中正造)
須永好(1894-1946)は、大正から昭和に活躍した人で、田中正造(1841-1913)は天保から大正を生きた人、両人は50歳以上の年齢差がある。
北関東(両毛)で農と生きた抵抗の代議士たち
須永は上州群馬、田中はお隣の下野栃木県の人だ。両人とも生涯を農民の立場で小作農、被害農民の生命と生活を守るために捧げ義を貫いた。ともに農に生まれ農に生きた政治家、衆議院議員であった。
須永好が誕生した1894年、田中正造は54歳で足尾鉱毒問題に取り組み地元代議士として盛んに質問書を作成し提出していた時期である。
被害農民が大挙して政府に請願行動(俗に言う「押しだし」)を起こし、群馬県明和町の川俣(かわまた)の地でこれまた大勢の警察官に阻止され農民と官憲が大激突した「川俣事件」は須永好、6歳の時の事件だった。
正造の葬儀に強戸村民も参列
田中正造は享年72歳、胃がんが悪化して亡くなった。強戸村からの正造の葬儀には好をはじめ強戸の村人が参列している。「予は下野の百姓成り」と近代文明の暗部とも言うべき公害問題に生涯をかけた正造に、好も上州のおなじ百姓として共感していたにちがいない。渡良瀬川の水源も利用していた強戸村の農民たちは足尾鉱毒の被害者でもあった。強戸は下流であったため上流地域ほどの被害ではなかったが、村民は早くから足尾鉱毒反対の陳情活動に参加している。今日の原発事故被害に至る日本の公害問題の原点は、まちがえなく足尾鉱毒事件がルーツである。
足尾の同志石山を信頼
須永好は、農民運動を進めていく中で特に信頼していた同志が足尾の石山寅吉だといわれている。石山寅吉・・とは、1890-1937新潟出身、須永より4歳年上。足尾銅山の精錬工から大日本鉱山労働同盟会の創立者の一人。足尾銅山の争議を指導したびたび投獄される。須永好と同じ日本労農党の結成に参画。この人も衆議院議員も務めたが48歳の若さで他界された。
好、正造の共通点は強い人間主義
須永好は、小作人組合を組織し小作人の生活向上のためにたたかったが、自身は自作農であった。田中正造も本百姓で名主の家に生まれた。二人とも出自に関係なく「小作農も人間である」「被害農民も人間である」といった人間主義に強い共通性がみられる。あらためて良く似た二人を義人と感じたのは、もっともな気がしてならない。
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